連載企画「外国人が見る小劇場」第4回

システムの支配

-有名だけど、自分としてはあまり評価できないというダンスの流れもありますよね。どういう特徴があると、今のダンスシーンの中でおもしろいと思いますか。

チェントンツェ 確かにそういう基準はあります。わたしが一番認めているものは「正直さ」だと思います。作られたものなのか、正直なものなのか。ただ観客を説得したいのか、そうではなくて何かに挑戦しているのか、何かに抵抗しているのか。そういう「正直さ」をわたしは評価したいと思います。もちろん美しいものは好きです。完璧に踊られたクラシックバレエの作品も好きです。でも、その場合でも、身体の働きは見えてきます。ほんとに演技しているのか、していないのか。本当に演技しているのなら、ちゃんと演技しているのなら、それを認めます。観客を馬鹿にしないで、真面目に向き合うアーティストがわたしは好きです。今、こういう作品を作らなくちゃいけないから、観客はこういうのが好きだから、とか、そういうのはあまり好みではありません。システムの中で支配されている演劇やパフォーマンスは個人的にはあまり評価できません。だから小劇場のパフォーマンスに興味がありますが、大きい劇場での公演はわたしはあまり見にいきません。

-いまダンスと演劇の垣根が低くなってきているように思います。双方が行き来するような状態ですけど、芝居の側で活動している劇団の中で注目している団体はありますか。

チェントンツェ よく考えますと、昔から日本の伝統のなかでは演劇性と身体性は強く結んでいます。おそらく明治時代から坪内逍遥の『新楽劇論舞踊』のなかでは「舞踊」という言葉は初めて表れていますし、「演劇」の概念も新劇で現れたと思います。そう考えますと、60年代に西洋で浮かび上がってきた「パフォーマンス」という概念は(演劇でもない、ダンスでもない)そういう結びを思考して、復活しました。残念ながら、演劇を見に行くきっかけは少ないのですが、私が注目している団体は劇団解体社、アリカ(ARICA)、ティ―ファクトリー(T Factory)、江戸糸あやつり人形座などです。みんな注目しているチェルフィッチュ(の公演)を見ても、私は身体性に関しては余り新しいことを見つけられない。身体性と演劇のことばの関係は強いですけど、すごいとまでは言えません。

-「三月の5日間」のころから、そういう印象ですか。それとも最近の舞台を見た印象でしょうか。

チェントンツェ 私はそこまでチェルフィッチュを見ていません。「三月の5日間」は生で見てないし、どう変わってきたかも詳しく分かりません。岡田さんは世界的にファッションになったように見えるので、ちょっと距離を持ちますね。

-チェルフィッチュはさておき、舞踏はヨーロッパでファッションなんですか。

チェントンツェ 確かにヨーロッパでファッションになっていますね。日本ではどうでしょう。舞踏はまだ余り知られてないかもしれません。

-コンテンポラリーダンスの黒田育世さんや、黒沢美香さんは…。

チェントンツェ 黒田さんと黒沢さんは違う世界でしょう。黒沢さんは日本のダンスの中ではとても大事な方ですよね。日本のコンテンポラリーダンスの「お母さん」(ゴッド・マザー)だから(笑)。舞踏ではないですけど、本当にポストモダンダンスに強いし、舞台はとても特徴があります。尊敬します。でも、とても分かりにくいダンサーでもあります。個人的な問題ではありますけど、黒沢さんのパフォーマンスを見ると、ダンスに関してはとても考えさせられます。残念ながら黒田さんの舞台は1回しか見ていないし、よく分かりません。おそらく黒田さんは世界的に現在の日本コンテンポラリーダンスを代表している振付家のなかの一人だと思いす。

-舞踏が日本で生まれた当時は、いわゆるモダンダンスの考え方をひっくり返す意味を持っていたと思いますが、ヨーロッパでもそう受け取られているのでしょうか。広い意味でコンテンポラリーダンスに含めて考えるのでしょうか。それとも西欧由来のダンスの基本形を破壊する異端の活動とみられているのでしょうか。

チェントンツェ 私はいま日本にいるので、ヨーロッパで何が起きているか正確には分かりませんが、結論としては、現在の舞踏はヨーロッパでコンテンポラリーダンスに入っているかもしれませんね。そう呼べない舞踏家もいると思いますが、よく見ると、ヨーロッパに渡って、舞踏はすごく変わりました。私が初めて舞踏に出会ったとき、これまでのダンスを変える、変革すると思いました。舞踏は西洋の伝統だけではなくて、現在の表現にも影響を与えました。

消える政治性

-グローバル化が進むにつれて世の中が煮詰まってきたような印象があります。例えば希望のような、明瞭なシンボルを持ちにくくなっていますけど、舞踏の世界でも同じような現象が起きているのでしょうか。

チェントンツェ ヨーロッパのアーティストの方が自分たちの立場をはっきり打ち出してきます。ドイツでは、自分の政治的な立場を明らかにして、「演劇は革命です」と言い続けてきた流れがあります。日本の場合は、コンテンポラリーダンスの政治性は見えにくい。舞踏家もそうですね。例外はありますけど、例えば川口隆夫、室伏鴻。オーストリアのイェリネックの作品は、あれほど政治性や社会性を深く打ち出しているのに、2012年の「光のない」公演(三浦基演出)からは政治性が見えなかった。実は空間性も見えませんでした。ちょっと失望しました。私の個人的な問題かもしれませんが、政治性と演劇、ダンスの関係に対する日本の公演の取り組みには疑問を感じます。土方は内向きではなかった。身体を通して革命を考えたと思います。

-土方巽が舞踏を始めた当時の「身体と革命」の関係は、現代でもあり得るのでしょうか。若い人たちの活動に見えますか。

チェントンツェ いま一番必要なんです、それが。戦後社会は複雑でしたから革命も必要、抵抗も必要でしたが、いまは革命も抵抗も、制度(システム)の中に入ってしまいました。というか、何が抵抗か、何が制度か区別できなくなりました。その結果がこの世界、いまは一番ひどい世界が作られてしまったと思います。わたしたちはその世界を生きているでしょう。いまは60年代の世界ではないけれど、自分の身体を大事にする、相手の身体を大事にする、自然を大事にする、社会を大事にする…。土方さんの思想と芸術の中ではそれらがすべて含まれていると思います。こういう状態を変えないと、大変だと思います、すなわち…ヤバい。日本語にはそういう言葉がありますよね(笑)。
(2013年12月21日、東京芸術劇場1階のカフェ)
(インタビュー・構成:北嶋孝)


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