ダンカン・マクミラン「The Forbidden Zone」ザルツブルク音楽祭演劇公演

◎通りすがりのザルツブルク、「きっかけ」としてのスペクタクル
 高橋英之

 安心した。舞台の上に、大きなスクリーン。これだけ大きなスクリーンだと、字幕も読みやすいだろう。『The Forbidden Zone』という<演劇>は、タイトルこそ英語なのだけど、セリフは英語とドイツ語のバイリンガル上演のようだから、ドイツ語の部分は英語の字幕がないとちょっと心もとない。字幕があっても、そのスクリーンが小さいと、舞台と並行して見ることが難しいことが多くて、ストーリーが追いにくい。でも、舞台の幅の半分以上もあるような大きさのスクリーンだと、その心配はない。そもそも、脚本家も演出家もイギリス人のようだし、字幕がしっかりしていれば、きっと普通に楽しめる<演劇>のハズだ。それにしても、舞台の上は装置で立て込んでいる。左手前には、実物大の列車が置かれ、舞台奥には複数に区切られた部屋がある。こんな空間で、どのような<演劇>が展開されるのだろう。そう思いながらの、観劇前の客席。オーストリア・ザルツブルク郊外、ペルナー・インゼル劇場。期待は、冒頭から、全く違った方向で裏切られる。舞台の上で始まったのは、<映画>だった。

 スクリーンに、一人の兵士が大きく映し出される。ナレーションが英語で流れる。この男を見よと。やがて死に至るのだと。うす笑みさえ浮かべる青年は、戦争で死ぬのだと。それが、どの戦争なのかは、明示されない。この兵士が誰で、その場所がどこであるかも伝えられない。スクリーンに投影されるシーンと、ナレーションは、「戦争で兵士が死ぬ」ということを、冷たく伝えている。その冷たい映像は、スクリーンのすぐ下の舞台で、同時進行で生み出されている。複数のカメラが、その兵士を撮影している。目の前で、まさにライブで行われているその兵士の<演劇>は、リアルタイムで、どこか遠い、名前も場所もない記録<映画>に変換される。

 駅で地下鉄を待つ女のシーンに切り替わる。舞台の前方左に設置された列車の前で別のカメラがこれをとらえ、先ほどの兵士をとらえていたカメラも列車のまわりに移動してくる。ふとしたはずみで、女が倒れ、ハンドバックの中から黒十字のペンダントが落ちる。いや、もちろん、そのペンダントは、舞台の上では小さすぎて、<演劇>としては、確認のしようもない。ところが、<映画>としてスクリーンにアップで映し出された黒い十字架は、はっきりとその女性が、ドイツ、それもドイツ軍に関係をもつ人物であることを明示している。そばにいた、軍服姿の男が英語で話かける。アメリカのGIだ。「お前は、ドイツ人か?」と問う。女は、「アメリカ人だ」と英語で答える。女が答えるときのキッパリとした声とはうらはらに、スクリーンにアップで映し出されるおどおどとした表情は、おそらく<演劇>としては微妙すぎて気が付かない。なにせ、劇場は1,000人近くを収容するような広さだ。15ユーロの後方の席から、その生の細かい表情をうかがう術もない。ましてや、うつむいたときの表情などを。ところが、縦横無尽に舞台の上で走り回る複数のカメラたちは、女の戸惑う目を、ここしかないという絶妙の角度から届けてくる。<演劇>としては表出が困難なレベルの微妙すぎる情報を、表情を、<映画>として実にくっきりと、眼前に、熱い温度で。

【写真は「The Forbidden Zone」公演より 撮影=©Stephen Cummiskey 提供=©Salzburger Festspiele】
【写真は「The Forbidden Zone」公演より 撮影=©Stephen Cummiskey 提供=©Salzburger Festspiele】

 通称「ザルツブルク音楽祭」として知られているこのオーストリアの地方都市での夏の恒例行事には、そもそも「音楽」という言葉がついてない。ドイツ語の正式名称「Salzburger Festspiele」は、「ザルツブルク・フェスティバル」とでも訳されるべきもので、実は、毎年「演劇」も上演されている。ただ、そのことを知ったのは、欧州の出張の最後の訪問地が、偶々ザルツブルクに近いことを知って、急きょ、「せっかくなら」と思い立ってからのことだった。『The Forbidden Zone』がどのような作品なのかも知らなければ、作者のダンカン・マクミランについても、演出家のケイティ・ミッチェルについても、全く予備知識がなかった。出張の途中での、「ついで」の観劇だったこともあり、事前に予習をする余裕がなかった。まさに、全くのまっさらの状態で、<音楽>祭として知られているフェスティバルで、<演劇>を観るつもりが、<映画>を見ることになってしまった。その戸惑いの中、舞台の上では、さらに混沌とした映像の交錯が繰り広げられる。

 黒十字のペンダントを持つ女クレア(ジェニー・ケーニッヒ)は、アメリカの軍事研究の一環として、毒物の解毒作用を研究する女性研究者(ケイト・デュシェーヌ)の下で、アシスタントとして働いている。その研究室の映像が、舞台奥の左端に区切られた場所で撮影され、スクリーンに投影される。一方、クレアの祖父と祖母が口論するシーンが、舞台奥の右端に区切られた場所で撮影される。祖父は、フリッツ・ハーバー(フェリックス・レーマー)。アンモニアの人工合成法、すなわち空中窒素固定法として、いまではどの高校の化学の教科書にも載っているハーバー・ボッシュ法の生みの親。彼は、この業績で1918年にノーベル化学賞を受けている。祖母は、クララ(ルース・マリー・クレーガー)。彼女もまた、化学の分野で博士号を受けた科学者だった。この夫婦が、何について言い争っているのか。それは、夫が窒素からアンモニアを生み出す技術をさらに進めて、毒ガスを戦場に適用することを進めようとしていたためだ。クララは、猛烈に抗議する。

 ようやく気が付いた。第一次世界大戦から100周年の今年2014年には、欧州の各地で、さまざまなイベントが展開されているということを。おそらく、ザルツブルクのこの祝祭行事も例外ではないのだろう。運営者が、そのようなテーマを付して制作委託をしていたとしても不思議はない。第一次世界大戦は、戦車、戦闘機、潜水艦と、新しい兵器のショウケースのような戦争だった。毒ガスもまた、そのようなひとつ。シリアでの毒ガス戦闘が問題として指弾されたばかりというのは、タイミング的には偶然にすぎないのだろうが、まさに、時機を得たテーマ。そのテーマを巡って、舞台の、いやスクリーンの映像は複雑にからみあってゆく。

【写真は「The Forbidden Zone」公演より 撮影=©Stephen Cummiskey 提供=©Salzburger Festspiele】
【写真は「The Forbidden Zone」公演より 撮影=©Stephen Cummiskey 提供=©Salzburger Festspiele】

 クレアは、毒ガスの生みの親というありがたくないスティグマを貼り付けられた祖父フリッツ・ハーバーの係累として、おそらくは、いわば贖罪的な気持ちもあって、父が亡命した先のアメリカで、解毒作用の研究に取り組んでいたのだろう。ところが、突然、その研究に終止符が打たれるというニュースが舞い込む。アメリカは、化学兵器よりも、核兵器をより重要なものと考え、予算配分を大幅変更するのだという。失意を隠せないクレアは、研究室を去ると告げる。一方、上司の女性研究者も、また自分の過去との折り合いのつけ方に悩む。冒頭スクリーンに投影された兵士は、彼女がかつて看護婦として野戦病院で対応したのだった。おそらくは、第一次大戦の、毒ガス戦の被害者として。兵士の姿が、フラッシュバックとして襲ってくる。<映画>としてごく普通のその表現手法は、舞台の上では、左端の研究室のセットと、真ん中の野戦病院のセットを、複数のカメラが同時にとらえ、映像がスイッチする。野戦病院では、兵士と黙って向き合う看護婦の手がクローズアップで映し出される。舞台の上では、まったく別人の手の演技が、<映画>の上では、回想する女性研究者の手として、ごく自然に接続される。

 女性研究者が家路につく。列車に乗った瞬間、クレアがちょうどその列車から降りるところを目撃する。その不穏な雰囲気に、女性研究者も慌てて降りようとするが、間に合わない。舞台の上では、静止している列車のまわりを囲むライトがあわただしく動き、ビデオカメラを持ったカメラマンが走り出す。スクリーンでは、列車が動き出す。列車の窓の外から、駅のホームにいるクレアを追いかける女性研究者の目を、カメラがとらえる。別の角度のカメラが、車内から、その不安な表情の目を映し出す。さらに別のカメラが、ホームに降り立って、キッパリとした決意をたたえた表情のクレアをつかみとる。緊張感あふれる<映画>が、スクリーンに展開される。

【写真は「The Forbidden Zone」公演より 撮影=©Stephen Cummiskey 提供=©Salzburger Festspiele】
【写真は「The Forbidden Zone」公演より 撮影=©Stephen Cummiskey 提供=©Salzburger Festspiele】

 舞台右奥では、意を決したクララが、夫の机からピストルを引き出すシーンが撮影される。舞台のちょうど反対側では、研究室に戻ったクレアが、戸棚から毒薬を取り出すシーンが撮影される。2つのシーンがスクリーンで交差する。舞台手前の列車のまわりも、あわただしい。列車が止まると同時に、つまり、カメラマンが走り終わって、ドアの前で待ち構えたその刹那、ドアが開いてクレアの上司の女性研究者が、走り出す。カメラがそれを追いかける。

 スペクタクルである。離れ業といってもよい。3つのシーンが、舞台で並行して展開され、黒子としてのカメラマンたちが縦横無尽に走り、計算された位置にぴたりと止まり、絶妙のアングルからスクリーンにベストショットを投げつけてくる。クレアが、毒薬を口にする。クララが、ピストルを自分に向けて発砲する。上司の女性研究者がクレアに駆け寄る。遅かった。クレアの息が止まる。クララが、中庭で倒れ込む。ふたつの時間軸を越えての、壮絶なる歴史が、わずか75分に凝縮した時空に閉じられる。

 万雷の拍手。「ブラボー」の声。カーテンコールは5回に及んだ。自分も思い切り手をたたいていた。ただ、そのとき、自分は何に興奮しているのかが、よくわからなかった。毒ガスに、戦争に、抗おうとして果たせなかった女たちの失意の最期にか。<演劇>の空間の中に見事なスペクタクルとして展開された、<映画>の技にだろうか。後者である可能性はあるが、前者ではありえない。なぜなら、力いっぱいの拍手をしているその刹那、自分はまだ、フリッツ・ハーバーという名前さえ、正確には誰だったかを思い出せなかったのだから。高校の教科書にさえ、その名を残しているというのに。

 実は、この点は、現地の劇評でも指摘されている。ターゲスシュピーゲル紙(2014年8月1日付)は、「歴史の詳細な知識なしでは理解が困難」と酷評している。プレッセ紙(2014年8月1日付)は、「登場人物たちに襲いかかった運命を知りたければ、それぞれの人物に関する本でも読むしかない」と手厳しい。しかし、このポイントこそが、むしろこの作品を素晴らしいものにしているのではないだろうか。劇場では完結しない。観客は、その場で突き動かされた思いで、新たな知識を仕入れなければならない。いや、自らが知らなかった世界を、知りたくなるのだ。<演劇>は、その「きっかけ」にすぎない。

 批評家・東浩紀は、近著『弱いつながり—検索ワードを探す旅』で、「グーグルが予測できない言葉で検索する」ことを提言している。世界中の情報が自由に検索できると思い込んでいるネットの機能は、実は、「いつもの世界」を強化する方向に向かってしまう。「ネットでは自分が見たいと思っているものしか見ることができない」と指摘する東は、<旅>をすることで、いつもの検索ワードとは違う検索ワードに遭遇することができるという。すなわち、いつもと違うことに遭遇する<旅>が、人生の豊かさに寄与する「きっかけ」になるのだと。ザルツブルクでの、演劇体験は、自分にとって、まさしくそのような「きっかけ」となった。

 正直にいうと、この作品の輪郭がつかめたのは、帰国途上の、劇場で買ったパンフレットを頼りに、まさに東浩紀が推奨するように、ホテルや空港でネット検索をしてからだ。作り手のコメントをみつけて、登場人物の何人かが実在の人物であることを確認した。帰国してからは、図書館で登場人物たちに関する本を何冊か読んだ。むしろ、この作品の<演劇>としての作用は、観劇後に起こったとさせいえるかもしれない。めくるめくスペクタクルに幻惑されて、その表現の強度だけが心にずしりと重く残ったとき、人は調べ始める。それが、いったい何だったのかを。<旅>だけではなく、<演劇>という非日常も、観客を動かす「きっかけ」としての力を発揮する。

 フリッツ・ハーバーの開発した毒ガスは、第一次世界大戦で使われ、後年ナチスの絶滅収容所での活用にもつながったこと。フリッツ自身は、ユダヤ人であったこと。妻クララ・ハーバーは、1915年に自殺したこと。孫にあたる、クレア・ハーバーは、1949年にアメリカで自殺したこと。さらに、演出家ケイティ・ミッチェルが、複数の女性作家・言論者たちの言葉を盛り込んできたこと。それらを知ったのは、帰国後しばらくたってからだった。メアリー・ボーデン、ヴァージニア・ウルフ、エマ・ゴールドマン、シモーヌ・ドゥ・ボーボワール、ハンナ・アーレント。冒頭の死にゆく兵士の姿にかぶせられたナレーションは、第一次世界大戦の戦場に、アメリカから乗り込んで病院を設立したメアリー・ボーデンの自伝的作品集からのものだった。そして、その作品集の題名こそが、『The Forbidden Zone』。観劇中には、ばらまかれた点のようなものだったものたちが、しばらくしてから、熟成されて、完全につながってくる。

 観客に自らアクションを起こさせるような強度を、作品が持っているかどうか、そこにこそ<演劇>としての重要な意味があるのではないか?どこにでも転がっていそうなテーマについて、観客に「ある、ある」とにやりと共感させる演劇作品も、たしかにあるだろう。いま旬の話題を取り上げ、「ほんとうにそうか?」と異を唱え、作り手のメッセージをじっくりと伝える演劇人もいる。さらに踏み込んで、観客という安全な立ち位置そのものに揺さぶりをかけるという戦略にも、しばしば遭遇する。しかし、東京での自分の最近の観劇は、そのバラエティーの豊富さとは裏腹に、往々にして、もはや「グーグルが予測できる」範囲の体験になってきているかもしれない。

 『The Forbidden Zone』は、自分に数々の全く新しい検索ワードを注ぎ込んでくれた。無論、<旅>の途中であったことにも起因しているだろうが、それは、むしろ<演劇>の原点としての、スペクタクルの作用ではなかったか。長々と全てを説明するわけではない。むしろ、個々の人物やセリフの背景説明は、驚くほど不親切だ。パンフレットを買っていなければ、登場人物の名前さえ分からなかったかもしれない。ただ、断片的に切り刻まれたテーマの痕跡が、怒涛のように生の<演劇>と、スクリーンの<映画>で迫りかけること、そこに、圧倒的な「きっかけ」としての力があった。観客が全く知らないテーマについて、思いもよらない手法で、めくるめく展開をみせる。そして、あとは、観客自身に考えさせる。しかも、極東の端の島国から、偶然迷い込んでしまったような観客に。それが、まさにこの『The Forbidden Zone』であった。75分しかない時間の中で、時空間を越えたスペクタクル。それは、作品との邂逅であった以上に、自らのよく知らなかった世界そのもとの邂逅であった。劇場での<演劇>とは、ほんの入り口にすぎない。だが、重要な「きっかけ」を生むことができる。スペクタクルあふれる<演劇>は、東浩紀の推奨する<旅>にも勝るとも劣らない、新たな検索ワードとの遭遇の「きっかけ」となり得る。そのことを、強く感じさせられた経験だった。
2014年8月3日(日)19:30公演

【筆者略歴】
高橋英之(たかはし・ひでゆき)
京都府出身。ビジネスパーソン。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takahashi-hideyuki/

【上演記録】
ダンカン・マクミラン「The Forbidden Zone」ザルツブルク音楽祭演劇公演
ペルナー・インゼル劇場(Perner-Insel, Hallein, Austria)7月30日〜8月10日
ザルツブルク音楽祭(Salzburger Festspiele)公演:全7公演
EUの劇場プロジェクト「Prospero」の一環として、ベルリン・レーニン広場とシャウビューネ劇場による共同制作
ベルリン公演:2014年8月28日〜30日

作:ダンカン・マクミラン(Duncan Macmillan)
演出:ケイティ・ミッチェル(Katie Mitchell)
映像演出:レオ・ワーナー(Leo Warner)
舞台装置:リッツィ・クラチャン(Lizzie Clachan)
衣装:スージー・ユーリン・ワレン(Sussie Juhlin-Wallen)
音響:ガレス・フライ(Gareth Fry)、メラニー・ウィルソン(Melanie Wilson)
照明:ジャック・ノウレス(Jack Knowles)
ドラマトゥルク:ニルス・ハーマン(Nils Haarmann)、デイビッド・タシンガム(David Tushingham)
出演:ケイト・デュシェーヌ(Kate Duchene)、ルース・マリー・クレーガー(Ruth Marie Kroger)、ジェニー・ケーニッヒ(Jennny Konig)、フェリックス・レーマー(Felix Romer)、ジョルジオ・シュピーゲルフェルト(Giorgio Spiegelfeld)、アンドレアス・シュレーダース(Andreas Schroders)、セバスティアン・ピルヒャー(Sebastian Pircher)、アンドレアス・ハルトマン(Andreas Hartmann)、シュテファン・ケシソグロウ(Stefan Kessissoglou)
上演時間:75分
英語・ドイツ語上演、ドイツ語・英語字幕
チケット料金:15ユーロ(約2,060円)〜90ユーロ(約12,330円)


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