#12 想田和弘(映画「演劇1」 「演劇2」監督)

前世代の演劇から自由になった

-平田さんの演劇方法論、演技論だとか「芸術立国論」とか、いろいろ考え方があるんですけど、初期の『東京ノート』がひとつのピークだとすると、その後の、この映画の中で出てくる『砂と兵隊』とか『ヤルタ会談』などは、若干色合いが違うと思いませんか。違うとしたらそれはどのへんが違っているのでしょう。いわゆる戦略との兼ね合いでは、どうなんでしょうか。そのあたり、内へ入ってみた想田さんのお考えをお聞きしたいですね。

想田 たぶん、もともと平田さんが現代口語演劇を目指されたときには、新劇や小劇場という既存の日本の演劇スタイルという強大な存在があって、それに叛旗を翻すというのが、平田さんの芸術活動のベースにあったと思うんです。だから、最初のころの平田さんは、かなり挑発的な言葉を使っていますよね。例えば「俳優は駒だ」とか、「せりふを言いながら今晩のおかずのことを考えていてもいい」とか(笑)。その感覚、僕もよく分かるんですよ。
 というのも、僕も観察映画を始めたときは、テレビ・ドキュメンタリーに対するアンチとして始めているので。ナレーションなんかいらないとか、事前のリサーチなんてしない方がいいとか、それまでの支配的なスタイルや方法論に対して、言いたいことがいっぱいあったんですよ(笑)。平田さんとは、そういうところもシンクロしているところがある。
 でも、最近の平田さんは、そういうことをあまりおっしゃらない。なぜかというと、たぶんもう、平田さん自身がむしろスタンダードになりつつあるから。80年代後半に現代口語演劇が出てきた頃には、「何これ、演劇?」って言われるような新奇な感じがあったと思うんですけど、今や、特に若い世代では、平田演劇はむしろ権威だし基準です。平田演劇が権威として存在することを前提とした文化状況の中で、平田演劇を見て育った世代の作家が自分たちの演劇を作っていくということが、実際に起きているわけです。
 特に、青年団は後進を育てるということにすごく力を入れていて、青年団出身の劇作家、俳優がたくさん育っています。そういう状況の中で、新劇なり小劇場なりに対するアンチ的なことを声高に訴えたり意識したりすることは、もうあまり必要ではなくなってきているんじゃないでしょうか。
 だからある意味、平田さんは、今は本当の意味で、前の世代の演劇から自由になったんじゃないかという気がしています。今は、もちろん口語は使っているんだけど、たぶん、以前ほどの過激さで口語を追求しているわけではないと思うんですよ。特に『サンタクロース会議』なんかを見ていると、むしろ、前の演劇のスタイルへの揺り戻しをちょっと感じます。『砂と兵隊』も『ヤルタ会談』もそうです。平田さんご自身が、自分のスタイルから自由になりつつある(笑)。

「砂と兵隊」写真
【写真は、「砂と兵隊」フランス公演-映画「演劇2」から。© 2012 Laboratory X, Inc. 禁無断転載】

-何となくそういう匂いはしていたんですけど、想田さんに言葉にしていただくと、なるほどと思います。『砂と兵隊』の初演を見たとき、あれほど生のメッセージを舞台に載せることを嫌う人が、と思いました。せりふや作品の中でのメッセージ性を極力押さえて、観客席から引いてみたときに舞台から何かが浮かび上がる、という方法論を平田さんは適用してきたと思うんですけど、『砂と兵隊』では、見ているうちに、あ、平田さんは何か言いたいんだということが明らかに伝わるように作ったと感じました。ご自分のメッセージ、あるいはその表現意欲が、方法論の枠を越えてあふれ出した感じでした。

想田 そうですね。

-だから、これは方法論を越えてるな、という感じがすごく伝わるんですよね。『ヤルタ会談』や『御前会議』もそうだし。平田さんに聞いても笑ってるだけで、その後、自分の方法論をもう一度問い返すような形でまとめることはまだしていない。だから、この「演劇1」「演劇2」がきっかけになって、それが出てくるといいなあと思ってるんですけどね。

平田演劇は全体の振れ幅を押さえている

-もう一度想田さんの観察映画の方法論に戻ります。想田さんの方法論は平田さんの方法論と非常に親和性があるということは、平田さんの作品を見たり、本を読んだりしたときに、ご自身でも感じたのではないですか。

想田 そうですね。すごく生意気で失礼な言い方ですが、平田さんと僕は同時代に生きている表現者だっていう感覚が、僕には最初からあったんです。平田さんの方が年上ですけど、今こういう演劇を作りたがるっていうのが、すごくよく分かる。

―それは『東京ノート』のような作品のことでしょうか、それとも『砂と兵隊』前後の、ある種不条理な、パロディめかした強烈なスタイルの作品のことでしょうか。

想田 両方ですね。まず最初に強烈に感じたのは『東京ノート』ですけど。『砂と兵隊』とか『ヤルタ会談』なんかも僕はすごく好きで、確かに以前のスタイルからは微妙なシフトがあるんですけど、だけどそれは、自分の方法論をすごく噛み砕いているっていうか、コアな部分でしか使ってないっていうか、新たな挑戦でもあると思うんですね。常に挑戦し続けている人だなっていう印象がある。
 『砂と兵隊』なんかを見ていると、止むに止まれぬところがあるんだろうな、とも思うんです(笑)。世の中があまりにも逆回転し始めているから、それが少し作品にも影響しているというか。僕なんかも、止むに止まれず最近ツイッターなんかで吼えてしまって(笑)。平田さんはツイッターはされないですけど、積極的に政治や行政と関わったりされてます。そういう中で、いわゆる「訴えたいこと」も、少しだけ思わず作品にリークしてしまう。それでもかなり抑制されていて、やはり平田演劇の範中に収まっているわけですけど、そういう「止むに止まれぬ感じ」っていうのも、同じ時代に生きていて、分かるなあっていうのがあるんですね。

-確かに、平田さんは「演劇には、人間を書く系と世界を描く系の二つがある」と述べています。それをとりあえず前提とすると、『東京ノート』はそれがうまく重なり合った作品だと思います。ただ、それ以降の『ヤルタ会談』にしても『砂と兵隊』にしても、世界を描こうという意志は感じられるんですけど、生身の人間がそこで動いているようにはあまり感じられない。そのへんに、世の中の仕組みや動きに対する、平田さんの切り取り方が現れてるなと思いますね。観察映画もそういうところがありませんか。

想田 あるかもしれないですね。特に『選挙』なんかは、社会とか世界とかいう方向にシフトした作品かもしれないし。『Peace』や『精神』なんかは、もっと人間とか個人を描こうとしているかもしれません。両方がいいバランスになるのが、作品的には理想だとは思うんですけどね。
 平田さんは、社会的な問題を描くときには、その渦中にいる人間を描かなくてはならない、人間を描くときには、その社会的背景を描かなくてはいけないっていうことをよくおっしゃいます。それは本当だなと思うんです。そのバランスはいつも、僕自身も苦労するところでもある。

映画「演劇2」から
【写真は、映画「演劇2」から。© 2012 Laboratory X, Inc. 禁無断転載】

-平田さんの作品で舞台上に現れてきた人間というのは、非常におとなしい。暴れたりは絶対しませんね。暴れると現代口語演劇を踏み出しちゃうから暴れさせないのか。それにキスシーンなどきわどい場面はない(笑)。
 僕が最初に平田さんの作品を見たのは『南へ』という作品でした。バブルのころ、お金のある人たちが、南へ向かう豪華なクルーズを能天気に楽しむという設定の芝居です。密航した少女が捕まって甲板に連れ出されてくるというのがちょっとした事件と言えば事件で、後は何も起きない。非常に精密に人の動きが描かれているけれども、その人の臭いがしないなというのが僕の印象でした。平田さんの人間関係描写というのは、強烈な臭いや暴力的な動きが排除されているのではないかと思いました。個性なのか、あるいは方法論のせいなのか、僕にはいまだによく分かりません。
 観察映画というのは、枠組みはすごく平田さんの方法論に似ているんですけど、『精神』なんかを見ると、色と臭いとドロドロした情念がよく伝わってきます。その辺の方法の違いを想田さんご自身、どこかで意識されているところがありますか。

想田 それはなかったですね。でも、それはおもしろいご指摘です。

-人間関係や情景を標本に仕立てたような印象を、平田さんの芝居からは感じます。非常にきれいで清潔でクリアで、あんまり人間としてドロドロしてませんっていうイメージです。

想田 平田さんご自身が、ドロドロした人じゃないからじゃないかな(笑)。少なくとも情念の人じゃないですよね、非常に理知的で。稽古はすごく執拗にやるし、岡田利規さん言うところの「ねちねちと」したところもありますけど(笑)。

-岡田さんは誰のことを言ってるんでしょうね(笑)。

想田 稽古はあれだけしつこくやりますけど、平田さんは、ものすごくサラリとした人ですよね。人間関係で執着するっていう感じがなくて、あの感覚がそのまま芝居に出るんじゃないかなっていうのが、ひとつですね。
 もうひとつは、物語の振幅は、映画でも演劇でもやり方はいろいろあって、例えば、ハリウッド映画のアクション物なんかだと、ものすごい振れ幅でできごとを描写していくわけです。その巨大な振れ幅の中では、もう、ドドーンとものすごい大爆発が起きるのも普通レベル(笑)。平田演劇は、ほとんど何も起きない。全体の振れ幅をすごく下方に押さえてあるので、中でちょっと誰かが声を強めるだけでも大事件レベルになる。
 そのレベルの設定の仕方でしょうか。物語の振幅の基本を、台風が来たときの波のようなレベルに設定するならば、ものすごい大都市を呑み込むような大波が来ないと、波が来たとは思えないですよね。でも、それが鏡のような水面の設定だったら、一円玉がポトンと落ちただけでさざ波が立って、それがドラマになったりするわけです。平田さんは、鏡のような水面に一円玉を落としたい、そういう作家だと思いますね(笑)。

-なるほど。平田さんが自分なりの演劇論を固めたのが1980年代、90年代ですよね。バブル時代の日本社会のある種の特性を、そのまま演劇のベースにしている、せざるを得なかったというところがやっぱりあると思うんです。一方では、それこそ地面が裂けたり、人が吹っ飛ばされたりというようなことは地球のいろんなところで起きていて、もちろん彼はそれを生身で知っているわけです。でも、芝居として作るときには、日本の、ある意味で平穏な、鏡のようなところで作ってきたんだなと、それはすごく感じますね。>>

「#12 想田和弘(映画「演劇1」 「演劇2」監督)」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 休むに似たり。

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