#12 想田和弘(映画「演劇1」 「演劇2」監督)

大学時代はすれ違い

-ニューヨークで平田さんの作品が上演された2006年、日本人でもアメリカ人でも、周囲で見た方はどんなご感想でしたか。

想田 ああ、それは聞きませんでしたね。というか、全く興味がありませんでしたね、他の人がどう思うかなんて。自分が、ああ! っていう感じだったので。そういうときは他の人の反応なんて、ほんとに気にならなくなってしまいますね。今まで気がつきませんでしたけど。

-そのときはNHKに番組を提供するディレクターとして、ドキュメンタリー、インタビュー映像を撮っていたのですね。

想田 そうですね。ドキュメンタリーのシリーズ物で『ニューヨーカーズ』っていう20分の番組があったんです。月に1本、20分の番組を、自分でネタを探して撮影・編集して作らなくちゃいけない。つまり月4週のうち、第1週にネタを探してアポイントメントを取って、第2週に撮影して、第3週に編集して、第4週に仕上げ、というサイクルをもう延々とやるわけです。かなり殺人的です(笑)。

想田 でも、それが僕にとってはいいトレーニングになりました。まず、どんなに普通の人が被写体でも撮りようによってはおもしろい番組になるってことを、体で理解しました。もちろんNHKから、ホットなネタなどを要求されることはあるんですけどね。それでも、やっぱりネタじゃなくて撮り方だなと。ある意味、ドキュメンタリー「虎の穴」みたいな感じで、実践しながら実感していったんですね。観察映画を始めたときに、先に台本なんか作らなくても、ちゃんとその人のことを見て撮っていけば、何らかのおもしろい映画、作品になるはずだと確信した背後には、その経験が大きい気がします。そういう中で、青年団に出会ったんです。

-なるほど。ニューヨークで、あるいは日本でもいいんですけど、お芝居を見る機会はそれまであまりなかったんですか。

想田 あんまりなかったですね、どっちかというと敬遠してたんで。それこそ平田さんが攻撃してたような、いわゆる芝居臭さみたいなのが苦手でした。

想田和弘監督1
【写真は、映画「演劇1」「演劇2」の想田和弘監督。撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

-東大に入学されたのが89年ですか。90年前後は今から考えると、演劇的には、ある意味目立たない時代だったという印象があります。60年代、70年代の演劇人はひと休みし、つかこうへいも80年代後半は執筆活動に向かい、野田秀樹の夢の遊眠社は大きくなりすぎた。平田オリザや宮沢章夫が表舞台に出てくるにはまだ間がある。ちょっと一服しているような時代ですね。

想田 なるほどね。ただ、今考えるとですけど、おもしろいことがあります。入学して、東大駒場キャンパスに通いだしたのは89年。当時の僕は青年団の存在さえ知らなかったんですけど、現代口語演劇の最初の代表作『ソウル市民』が完成して初演された年です。そしてその同じ年に、東大で「風の旅団」事件というのがあったんですよ。

-桜井大造さんたちの劇団ですね。

想田 やっぱりご存知ですね。いわゆる左翼的な学生があの劇団を呼んで、駒場寮で公演を打とうとしたんですけど、大学当局から許可が出なかった。でも、学生たちは公演を強行しようとしたんです。そしたら機動隊が導入され、学生が5人逮捕されたという事件です。僕はそのころ東大新聞っていう学生新聞に入って、ジャーナリストを志していた時期だったので、これは非常に大きい事件でした。機動隊にどつかれながら、ずっと写真撮ったり取材したりしてたんです。目の前で学生が逮捕される瞬間を見ましたし。ですから、そのころの僕の中での「演劇」といえば、この「風の旅団」でした(笑)。コテコテのアングラ、左翼のメッセージ性のめちゃくちゃ強い、反天皇…。昭和天皇が亡くなったのが89年の1月。自粛モードが日本全体を覆っていた頃です。東大新聞は反骨精神の強い人たちが集まってるところだったので、自粛モードに対する異議を唱える論調がすごく強くて、僕もそれにどんどん染まっていったんです。僕がもともと生まれ育った足利市は保守的な風土で、天皇の悪口を言うような人がいたら皆が卒倒するような土地柄なんですけどね。東大に入って、自由な空気に触れて、もう麻疹のように反体制治的な言説にひかれていたような時期でした。そんな中での風の旅団事件。その芝居を見てもいないのに、それを上演させないのはナンセンスだみたいなことを僕も書いていました。
 だから、平田さんとは地理的にはごく近い場所にいたのに、見事にすれ違っているんですよ。平田さんはたぶん、それこそ風の旅団的なメッセージ性の強い演劇を批判して、現代口語演劇を立ち上げたんだと思うんですね。ところが僕はまだそのころは、いわゆる「政治の季節」にどっぷり浸かっていて、青年団とかは全く視野に入ってなかった。いや、一度だけニアミスがあった。駒場東大前を歩いているときに、「アゴラ劇場」という看板に気が付いて、こんなちっちゃい劇場もあるんだ! と思ったという、それくらいですね(笑)。

-アゴラ劇場の表にロシア語の看板が出ていますね。僕は初めて劇場に来たとき、何でロシア語なんだ? と思いました。割に国粋主義的なところがあるんです(笑)。それはそれとして(笑)風の旅団の芝居は見てないんですが、その前身の曲馬舘の記録映像を先日見たら、メッセージ性が強いというよりも、情念を外の風にさらして全身で権力的なものに立ち向かう、というイメージでした。

跳んでしまうのは作家のエゴ



-ちょっと脱線しましたけど、それで観察映画としては今回が第3弾、第4弾という位置付けですね。『Peace』(2010年)は番外編となっていますが、なぜ番外編なんですか。
 (編注)初の「観察映画」は、大学時代の友人が川崎市議補選に自民党から出馬した模様を描く『選挙』(2007年)。第2弾が、岡山の精神科診療所を舞台に撮った『精神』(2008年)。

想田 あれは自分で撮った気がしていないんですね。スルスルスルーっと撮れてしまってできたんです。その感覚をどこかに残しておきたくて。

-方法論が違ったとかいうことはなかったんですか。

想田 それはありませんでした。あれが第3弾でもいいんですけどね。できたときの気分です。今思えば別に番外編にしなくてもよかったとも思いますけど。

-『精神』と『Peace』は、何となく岡山二部作のような気がするんですね。

想田 そうですね。

-『精神』を見てたら、(想田さんの奥さんの)柏木規与子さんのお父さんとお母さんがちゃんと出てる。特に、お母さんが事務所で仕事してるところが映っていましたね。

想田 おっしゃる通りです。『精神』を撮っているときに、既に二人の仕事には注目していたんですよ。交通手段が他にないので、柏木の父の運転する福祉車両をロケバスのように使わせてもらってた。義理の息子としては大胆不敵ですが(笑)。だから、義父が高齢者や障害のある方を送迎する際に、僕らも同乗させてもらうこともあった。つまり、部分的に義父の仕事に触れるというか、目撃するような感じがあったんです。
 そもそも『精神』の舞台となる「こらーる岡山」の存在を知ったのも、こらーると仕事上の関係が深い義母を通じてでした。映画を公開するにあたって、患者さんがすごく不安になられたときにも、患者さんの気持ちを最前線で受け止めて話を聞いてくれたのも義母です。義母の仕事には、その時点で非常に興味は持ってたんです。『Peace』を撮る最初のきっかけは猫だったんですけど、義母や義父の仕事ぶりをいつか映画にしたいという気持ちは、下絵としてできあがっていた。

-『精神』の舞台になる診療所は、古い一軒家を借りて使ってるんですか。

想田 そうです。

-映画に撮って公開するプロセスは、すごく丁寧にたどられていると思ったんですけど、撮られた人たちのその後を、もしご存知なら教えてください。

想田 『精神』に出てくださった方々は、最終的にはすごく喜んでくださっていると思います。公開するまでは本当に大変だったんです。公開日に飛び降り自殺をすると言われた方もいらして、本気で心配しましたし、もしかしたらこの公開は止める方がいいかなと思ったこともありました。ただ、そんなときでも、患者さんたちの中には、これはぜひ公開した方がいいと強く信じてくださる方もいてくれて、そういう方が、不安になられてる方に積極的に会いに行って話をしてくださったり、(こらーる岡山代表の)山本昌知先生や僕も話をしにいったり。みんなで乗り切った、という感じがあったんですね。
 で、いざ公開されてみると、顔を出して話をしたから社会から攻撃されるとか、排除されるとか、患者さんたちが心配されてたことが全然起きなかったわけです。むしろ共感してくれる観客の方が多かった。その経験が大きかったと思うんです。やっぱり出てよかったと、少なくとも、今のところは大体そう感じてくれていると思います。
 無理をしてるわけでもなく、特定のナレーションでその人の性格に枠組みを当てはめてるわけでもないのが、よかったと思います。

-いろんな人と出会って、パッとすれ違うだけの関係にするのか、長くその後ずっと付き合っていくのかというのには、なかなか難しいでしょうね。映像は、大勢の人が見るし、どこでどういうふうに上映されるのか分かりませんから、よく本人たちがそこを了解してくれたなあと思います。特に、赤ちゃんの口を塞いだという方が出てきて話すじゃないですか。表面的には淡々とでしょうけど、すごく葛藤があるというのがよく伝わってきた。そこまで表に出すというのはなかなか大変ですよね。

想田 本当にそれは考え込んでしまいました。迷って、出さないことも考えたんですけど、それだったら、何でこんな作品を僕が撮ろうとしているのかも、よく分かんなくなっちゃう。ある意味、跳躍ですよね。どうなるか分からないけど、とにかく跳んでしまえという感じがあって、それは診療所のスタッフや先生もそうだったろうし、患者さんもそうだったと思う。みんなで跳んだという感じがあるんですね。
 僕自身は、そういう中で何で跳んじゃうのかというと、これは作家のエゴだと思うんですけど、いい映画を撮りたい、それを見せたいという欲望が、きっとすごく強いんですね。もちろん撮られてる人のことも考えるんですけど、最終的にやっぱり跳躍してしまうというのは、本当に申し訳ないけれども、作家として行動してるんだなと思います。
 いずれにせよ、ドキュメンタリーというのは鋭利な刃物のように、下手すると人を殺しかねないという危ない側面がある。でも、うまくすると有用でもあるというか、刃物自体にいい悪いはない。それをどう使うか。少なくとも危険物であることは間違いないですね。取扱注意。そういう危険物を扱ってるんだということは忘れないようにしているつもりです。>>

「#12 想田和弘(映画「演劇1」 「演劇2」監督)」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 休むに似たり。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください