#11 相馬千秋(フェスティバル/トーキョー プログラム・ディレクター)

異文化と付き合う

-少し感覚的な質問になってしまうんですけれども、人と会うのが怖いと思ったことはないですか。要するに、相手はいわゆるアーティストであって、しかも完全に異文化の人であったりすると、相手がどういうところで自分を判断するのか、まったくわからなくて、ある意味、非常に出会い頭の勝負という部分があると思うんですね。

相馬千秋さん相馬 怖い? うーん、ないですね。自分のつたない英語力や、相手の言葉がよくわからないということで、わかり合えないことはありますけれども(笑)。むしろ、付き合えば付き合うほど怖くなるということはありますが、最初から怖いというのはないです。

-付き合っていくうちに怖くなるというのは、何か自分の手の届かない深淵みたいなものが、何となく伝わってきたりということですか。

相馬 いや、別にアーティストに限らず、どんな人とも100%完璧にわかり合えるということはないですよね。相手が日本人だろうが外国人だろうが、子どもだろうが大人だろうが、基本的に、全員とそうだと私は思っています。
 ただ、その関係性において、一緒にものをつくろうというときに、ある種の信頼関係が必要で、その信頼関係イコール批判し合うじゃないんだけれど、お互いがお互いに対して厳しくあることができるような関係性を、緊張感を持って持続させていかなくてはならない。その時に向こうから要求されることが、こちらが実際に差し出せることよりも遥かに上回ってしまったり、逆にこちらが相手に期待することに対して、相手が尻込みしてしまったりというアンバランスが起きるということも、ないわけじゃないんですね。ある部分食うか食われるかというか、そういう緊張感の中でやってこそだと思うので、そういった意味で怖いと思うことはあります。

-信頼ということですけれども、基本的には、ものをつくるという志の部分で通じ合うものがあれば、通じるはずということですか。

相馬 そうですね。ただそれも、結局ものをつくるという、ある枠組みの中での話であって、やっぱりわからない部分があるから一緒にやるんだと思いますよ。私は、わからないことがあるということには、恐れも不安感も何もなくて、逆にすべてがわかっちゃったら、やらないと思います(笑)。そっちの方が怖いかな。

世界標準の手法にそろえる

-外国からアーティストを呼ぶ時に、信頼関係を築けるかどうかによって、相手が提示する値段も10倍くらい違うんだという話を聞いたことがあります。そういうのを聞いたときに、ある種の壁というか怖さみたいなものを感じたんですが。

相馬 私がF/Tで、マネージメントの部分に関して目指したのは、やり方・方法論の部分で世界標準にすることでした。これを、初回から少なくとも3回で完成させようという気持ちでやってきたんですね。
 やはり今までの日本の演劇界、特に対海外の問題というのは、今おっしゃったように、世界標準をよく研究せずに、よく知らずにやっていた結果、ケースバイケースになっていて、かなり差があったと思うんですよね。その都度個別に対応して、あまり演劇界全体として共有してこなかったのではないかと。そのことが、ANJに入って国際プログラムをやり始めたときに、まず最初にぶち当たった壁でした。
 例えば「国際共同製作」といっても、同じ言葉を使っているのに、意味するものがそれぞれ違う。実際に、海外で国際共同製作というと、まずは製作主体が複数存在するということ。つまり複数の人がお金を出し合って一つの作品を作るという形態のことなんですけれども、それがどうも日本では、時には複数のナショナリティを持つアーティストがコラボレーションするという意味でとられていたり、解釈がバラバラだったんですよね。それで、企画を考えたり広報物をつくったりするときに意識したのは、まずは世界標準、つまり世界のいくつかのメジャーなフェスティバルが使っている手法に倣うということです。完全にバイリンガルにするとか。つまり、海外からの視線で見られたときに、まったく誤解されずに情報が発信できるような形をとる。それによって、作品の製作レベルでの誤解がなくなっていく。

-その世界標準というのは、要するに、それまで欧米の演劇界で、国境を越えた作業が行われるときに使われていた方法を踏まえて、それをきちんと日本でもできるようにということですか。

相馬 そうですね。まずそこです。

小規模予算でも国際級の中身

-2008年まで東京国際芸術祭(TIF)としてやっていたフェスティバルが、2009年からF/Tという形に変わったわけですが、これはスケールアップしたということでしょうか。

相馬 そうですね。枠組み的な話をすると、TIFは、名前は非常に立派なんですけれど、実際はNPOが単独で運営し、そこに国や地方自治体からの助成金が出ていた。ただ、助成金というものは、まずは出願=アプライしないととれない。アプライしてもとれない場合もあるわけです。
 当時、文化庁の国際フェスティバルという枠組みでは、3年につき1回分しか出さないという原則があったんですね。そうすると1回やった後の2回は出ない。そこで、ある時はフェスティバルの名前を変えて連続申請したり、まあ、あの手この手を使いましたが、限界があります。最後の2008年には、一番多いときで1億円あった助成金が、3000万円になってしまった。3000万円だと、たとえば少し規模の大きい海外作品1本さえ招聘できないんですよね。まあそういう世界です。
 こんな経営では、継続的にフェスティバルをやっていくのは難しいという状況になった頃、東京都さんの方からの話があったんです。都としては文化政策の中で、さまざまな美術館や東京芸術劇場という劇場があって、今までは、割にハコモノ中心にやってきたと。そもそも東京という街は、才能も情報も人も自然に集まってくるポテンシャルが常にあるわけですが、そこにあぐらをかいていては文化の世界的競争力がなくなる。そろそろコンテンツを盛り上げていかなければならないという話になり、各芸術ジャンルでどういった文化事業、ハコではなくプロジェクトをやったらよいのかという議論がなされたようです。
 で、演劇部門に関しては、蜷川さんが、都知事直轄の東京芸術文化評議会という諮問機関の評議員を務められていて、演劇部門はエジンバラとかアヴィニヨンのようなフェスティバルをやればいいとおっしゃったらしい。じゃあ、演劇はフェスティバルだということになり、既存のところと組んでやりましょうということで、これまでフェスティバルをやってきたA NJに話がきた。

-予算規模は、F/T09春では約3億6700万円とのことですが、TIFの頃はどのくらいだったんですか。

相馬 年度によって全然違いました。一番多いときで約1億5千万円だったと思います。少ないときでは5千万円程度。でもそこには事務局の経費、つまりANJの人件費なども全部入っていますので、実際にクリエーションに割けていたお金って非常に少ないんです。

-以前よくオリンピック招致との関係を指摘されたのですが、オリンピックは来ないけどF/Tは続くようですね。

相馬 あれは行政的には口実ですね。つまり東京都という自治体にあるお金を、まずオリンピック招致という名目でガッと集めて、それを文化に恒常的に流すための仕組みを行政の方がつくった。それが、この東京文化発信プロジェクトという枠組みです。この事業を立ち上げたことによって、東京都から東京都歴史文化財団にお金がおりて、それが演劇部門に関してはF/Tに振り分けられています。

-もし都知事が変わるとすれば、F/Tにも何か影響があるでしょうか。

相馬 それはあると思いますが、どういう形で出るかはわかりません。変わったからといってすぐにF/Tがなくなるということはないでしょうし、そう期待しますけれど、ただ、やはり行政と一緒にやっているフェスティバルですから、行政のトップが変わることで影響がないはずはない。少なくともこの東京文化発信プロジェクトそのものが、石原都政の産物なので、場合によっては、新しい知事になって、こんなものはやめろと言われる可能性がないわけではないですね。

-予算の話に戻りますけれど、アヴィニョンやエジンバラの演劇祭の予算は、どのくらいの金額なんですか。

相馬 アヴィニョンは、昔ユーロが高かった頃の計算で14、5億円くらいだと思います。エジンバラは20億円近いんじゃないでしょうか。オペラもやっているからとても大きい。F/Tなんてその5分の1とかといったレベルです。

-ヨーロッパでは、そうした大規模なものから中規模のもの、小規模のものまでたくさんのフェスティバルがあるんですか。

相馬 そうですね。ただ、ある種の権威があり、歴史があり、クリエーションの新しさで認められているフェスティバルって、せいぜい10から20くらいだと思うんですね。F/Tもすでに、その10から20の中に入っていると言っていただけることはよくあります。

既存のフレームを揺さぶる

-これまで3回実施されてきて、かなりの手ごたえを感じていらっしゃるでしょうね。それは作品内容であったり、動員面であったりすると思います。テーマについては、最初の「あたらしいリアルへ」から「リアルは進化する」、そして「演劇を脱ぐ」というふうに変わってきたわけですね。これは、ご自分の問題意識がこういう形になって現れているということですか。

相馬 そうですね。手ごたえということについては、よく聞かれる質問で「F/Tを振り返ってどうでしたか」ということがあります。その枠組み的なことは、先ほど申し上げたように、手法の面では世界のスタンダードということを目指し、それはある程度は定着したかなと思っています。
 それで、動員的なこと、数的な評価の軸ということもあるのですが、私がプログラム・ディレクターという立場で重視したいのは、やはり内容面なんですね。一番大事であって当然なのに、なかなか日本で当然と思っていただけないのは、たとえば演劇なら演劇、芸術なら芸術の一つの文脈とか歴史があり、その中で、何がF/Tによって更新されたのかということ。それを評価していただきたいですね。そこに筋が通っていないと、ただ、たくさん人が入ってよかったねといった話になってしまって、蓄積がないまま、何となくの印象や見た目の盛り上がりで判断されてしまう。それは非常に危険だなと思っています。
 もちろんF/Tは、数値的な面でも盛り上がり的な面でも、まあ、うまくいったとは思いますし、実際にそういう評価もいただいているんですけれど、でもそれ以上に、演劇史的にみてどうだったのか、ここがF/Tの最大の評価ポイントだと思っています。
 そう考えたときに、3回通して出してきたプログラムは何だったのかと。自分で自分のプログラムを評するのは非常に難しいので、むしろ皆さんがどう思われたのか、ということをおうかがいしたいのですけれど。やはり、私が戦略的に出してきたプログラムには、独自の色というものがあるじゃないですか。ごく大雑把に言って、例えばリミニ・プロトコルとかPortBのように、ある現実、つまり都市なり社会なりの現実と向き合って、そこにある種、お客さん自身を招き入れるような形の演劇、その行為によって既存の演劇というフレームを揺さぶるということをやったわけです。そのことが日本の演劇史にとって、世界の演劇史にとってどうだったのか、それを評価していただきたい、というのが一つありますね。
 もう一つは、ロメオ・カステルッチですとか、飴屋法水さんの『4.48サイコシス』などもそういう作品だったと思うのですけれど、舞台上で、ある作家性の強いアーティストが自分の世界観を提示する。その作業の中で、見たままの現実ではなくて、その作家がとらえたリアリティというものを、いかに、「いま、ここ」の舞台上で表象として成立させるのか。その新しさや独自性を追及したつもりです。それがまた、演劇史の中でどう位置付けられるのか、ということを見ていただきたい。
 そういった大きな二つの流れに対して、今の日本の小劇場の主流である、平田オリザさん以降の現代口語演劇がどう対峙したのか、ということですね。(続く>>)

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