#11 相馬千秋(フェスティバル/トーキョー プログラム・ディレクター)

今秋のF/Tは野外で

-今年のF/T11は、「劇場を捨てよ、街に出よう」ということですが、これはF/T10でも劇場から離れるということを一つのモチーフとして掲げられていたので、その流れと理解できます。都市空間の中へ、劇場空間だけに限られない形で演劇を考えるというのは、先ほどおっしゃっていた「演劇史を更新する」という問題意識の流れにあることなんでしょうか。

相馬 そうですね。別に劇場を嫌悪しているわけでも、恨みがあるわけでもないです(笑)。むしろ逆です。わたしは劇場が大好きですし、そもそも、にしすがも創造舎という劇場を拠点としていますから、そこでしかできないことがたくさんあるのもわかっています。ただ、まさに演劇というメディアの可能性を考えるときに、あるいは社会との関係性を考えるときに、いま、劇場の外に敢えて出ることが、おおきな刺激になるのではないかという問題意識があるんです。といっても、すべての作家が劇場の外に出てその力を発揮できるとは思っていません。劇場の中でこそ演劇の問題を考えられる人もいて、それはそれでいい。ただ今回のF/T11に関しては、劇場の外に出てそういった問題提起をすることを、あえて仕掛けようと。そういうフォーカスをしたいということです。 劇場の外に出て何が起こるか? 昨年F/T10のシンポジウムのテーマ2「演劇から都市を見る」で、いろんなことが議論されました。都市に出て行ったときに、演劇ないし演劇人がさまざまな他者に出会う。あるいは、劇場の中では出会わないノイズとか現実的な問題に出会っていく。そのことによって、演劇が疲れたりしては意味がないですし、その程度の演劇ならやめてしまえという話なんですが、そこへ出て行ったときに、現実から受けるさまざまなリアクションや反応を、もう一度演劇を問い直す力にできないか、ということです。

にしすがも創造舎
【写真は、にしすがも創造舎。撮影=ワンダーランド編集部 © 】

 それは私が勝手に言っていることではまったくなくて、今の演劇の世界的な傾向の一つに、劇場の外に出て行くということがあると思います。特に2000年以降、サイトスペシフィックな、リミニ・プロトコルの『カーゴ』のような作品があり、現実の中に実際に出て行って、ドキュメントをとり入れていくということが、各地で盛んに行われてきました。それをF/T11で集中的に上演できるというのは、いい機会かと思います。
 なぜ敢えて2011年にそのようにフォーカスするかというと、現実的な話としては、来年、東京芸術劇場が改修で閉まっちゃうんですね。メインの劇場がなくなり、否が応でも街に出て行かなくてはならない、ということで、家なき子になってさまようと(笑)。

-最近のお仕事で、相馬さんは、都市空間に演劇をインストールするプロジェクトのドラマターグをなさっていますが、それも今のお話の流れの中にあるんでしょうか。

相馬 まさにそうですね。F/Tに限らず、ここ3、4年やってきた仕事は、かなりそういうところに軸があります。最初は2008年10月に横浜でやった『ラ・マレア横浜』という作品です。

-ワンダーランドでも声をかけていただいて、レビューを書きました。

相馬 そうでしたね。先の『カーゴ』もそうですし、PortBの高山明さんとやっている一連の作品もそうですし、今回の飴屋法水さんの『わたしのすがた』もそうですね。F/Tのディレクターとしてというよりは、個人のドラマターグとしての興味や問題意識も、そこにあるので非常に楽しみです。

-F/T11の、何らかの仕掛けのようなことで、差支えない部分があれば教えていただけませんか。

相馬 場所をどうするかということですね。単にやみくもに外へ出て行けばいいというものではなくて、野外の吹きっさらしで演劇をやっても、よかったねということには絶対ならない。どういう場所に演劇をやる必然性を見出すかということだと思うんですね。そういう目線で、もう一度東京という街を見ている最中なんです。このだだっ広い東京の、どこで、あるいはどういうスポット、場所、空間で演劇をやったら、演劇を挿入したら、都市も演劇も、より面白くなるか。そういう視点で街を見ています。
 それにはいろんな場があり得て、特に最近面白いなと思っているのは、やはり郊外ですね。これまでは都市というと、高層ビルがあって、いかにもザ・トーキョーみたいなものが東京の象徴だと思われてきたかもしれないのですが、むしろ私たちの平熱の日常は郊外にあって、日本とか東京という街が変わるにつれて、その郊外が今、ずいぶん変容してきているじゃないですか。そのこととアジアの問題が私の中ではすごくリンクしていて。
 例えば、今、日本、特に東京でアジアからの移民って非常に増えてますよね。中国や韓国からの労働者や留学生が多いし、池袋なんかは特にそういう街なんですけど。そうすると、郊外で外国人の人口が増えているとか、そういうリアリティもあるわけですよね。今まで見えなかった東京の内なるアジアを、演劇というメガネを使ってもう一度見よう、そういうことがやりたいんですね。
 あとは、もちろん臨海部とか、自然の豊かな場所とか、神社仏閣とか、個室の中とか、民家とか、いろんな空間があり、それはもうパブリックもプライベートも含めて可能性があると思っていて、今はひたすらそのリサーチに明け暮れております。

-これまでF/Tというと池袋地域の印象がすごく強かったのですが、それは次回はかなり変わるということですね。

相馬 変わります。もちろん池袋は永遠にF/Tのホームです。豊島区が共催であることも変わりませんが、ホームである東京芸術劇場が休館してしまうので、外に出て行くということですね。

-では、多摩だったりすることもあるんですね。

相馬 そうなんですよね、どこかいい場所があったら教えてください(笑)。

アートの役割は

-相馬さんは最初に、ずっと永遠にこのF/Tをやっているわけでもないし、とおっしゃいましたが、何か将来の目標などありますか。ここ2、3年ということではおそらくないと思いますが。漠然とした話になるでしょうけれど、将来的にこういうことをやりたいというようなことがあれば。

相馬 そうですね、いろいろあるんですけどね。まず、文化政策の大きなパラダイム・前提として「文化芸術が地域の活性化に役立つ、だから文化芸術を支援しなくてはいけない」という大きなコンセンサスがあると思います。それはここ30~40年の間にヨーロッパで生まれた考え方で、日本でもまさに、地方自治体がその考えに則って、何とか地域を再生しようとしている。だから、越後妻有の大地の芸術祭にしても、あいちトリエンナーレ、横浜トリエンナーレにしても、瀬戸内国際芸術祭にしても、そういう考えがあってはじめて成り立っていると思います。これから地方にさまざまな劇場ができて、劇場法によって再活性化していくと思いますが、そういう論理というのは、当然、みんなそれぞれの都合のいいように利用・活用していくと思うんです。
 ただ、そのパラダイムに乗っかってやっていける限界も、そのうち来るんではないかという気が、漠然とですが、しています。まだちょっとうまく言えないんですけど。そういうある種の、芸術が本来持っている力とはまたちょっと違うところに存在意義を作って、それによって行政や周りの人を説得したりするやり方は、今は有効なんだけれど、それが出尽くしてしまったときに、逆にアートそのものの力が弱まったり去勢されちゃったりするようなことが、もしかして起こってくるんではないかなあという、漠然とした危機感みたいなものがあるんですね。「芸術文化は地域振興にいい」という大前提でやっていると、そうでない、全然役に立たないアートもいくらでもあるわけですよね、毒にも薬にもなるっていうか。これは毒過ぎて、地域には刺激が強すぎる、とかね。そういうものがどんどん排除されていくとしたら、それはよくないんではないか。
 リアルタイムで見てこられた方は想像がつくと思うのですが、たとえば、土方巽を中心とした、ああいう暗黒舞踏のムーブメントが、地域の活性化に役立ちますなんて言われたら、瞬間的にそれは違うだろうと思いますよね。

-かつて、土方巽が主宰していたアスベスト館が、周りの住人からの苦情が重なり、活動を停止せざるを得なくなった時期があったそうです。今は、小さな劇場でも、一所懸命近隣に溶け込もうとしていて、地方から戻ったらお土産を配るなんて話も聞きます。確かに暗黒舞踏などは、地域というようなところから見れば、極めて異物的なものですね。

相馬 そうですよね。いろんなものがあっていいし、共存していていいんですけど。公的なお金を使わせてもらっている身で言うのも何ですが、でも、そういうコンセンサスの上だけでやっていくとちょっと危険だなと思います。だからといって、それに対抗する考えやパラダイムを出せているわけではないので、まだ何とも言えないんですが。その既存のパラダイムとは違う流れを、現場を通して考えていきたいなという、すごく漠然とした話ですが、そういう思いはあります。

-劇場法にからむ議論ともちょっと関係しますね。

相馬 そうですね。一方で、アーティストが食べていくとか、安定的に劇場が運営されて、上質な作品が供給されるというのは必要なことで、それができてはじめてこうした議論も始まると思うんですね。それはF/Tが国際スタンダードになってはじめてスタート地点に立ったというのと、同じ意味だと思います。そうなったときに次のステップとして、芸術の先鋭性を損なわずに存在できるあり方、それを根拠づけるパラダイムをどうやって作っていけるか。これは本当に大きな問いなので、私自身考えていきたいし、それを考えることが、芸術の公共性を考えていく重要な視点なのではないかと考えます。

-古くから劇場に関わってこられた演劇人の方で、劇場法に反対していらっしゃる方の一つの根拠は、舞台芸術はお上のお金で作るものではない、牙を抜かれたものに何ほどの意味があるのかということです。そういう方たちは、食べていけないところをぎりぎりの状態でやり抜いてこられたから、公的な助成を得るなどということを不甲斐ないと感じるのだと思うのですが。でもやっぱり、若い人たちがみんな食べていけないのは問題で、普通に生活して演劇もできるようにしたいというのは、最低の基本的なことだと思います。そういう両面を、芸術ははらんでいますよね。昔からやってこられた方がおっしゃるのは、確かに古いのかもしれないけれど、一面の真実を含んでいるかなあと思います。

相馬 私が言うのは、そういう方のおっしゃるのとはかなり違っていると思うんですね。食えなかったら淘汰されたらいいじゃないという言い方もできるんですよね。食えない時代から生き残ってきた山海塾や勅使河原三郎さんなんかのような、卓越した才能の持ち主もいるわけで、彼らが公的な助成金を得ているからといって牙を抜かれているとは、私はまったく思わないんですね。だからそういうこととも、ちょっと違うと思うのですが。公的なお金を使うのは、道路を走ったり病院へ行ったりするのと同じように、芸術を享受する権利は誰にも当然あるので、そこに負い目を感じる必要はまったくないんだけれども、そこで文化政策の大前提の根本的な考え方の議論として、今言ったようなことを考えていきたいと思いますね。
 そういうことを考えるときに、自分自身を相対化する視点として、これから何をやっていきたいかという話で言うと、もう一度ヨーロッパだけではなくアジアを含めた海外で仕事をしてみたいなというのはありますね。日本でやっていること、自分の足元から考えて作っていくというのを今やっているわけですが、一度思いっきり相対化させる時期がきてもいいかなと思います。具体的には、そんな機会があるかどうかもまったくわかりませんから、何の根拠もないんですが。

現場の仕事

-話が戻りますが、プログラム・ディレクターというお仕事は、1年間、どのようなことをなさっているんですか。世界中を飛び回ってフェスティバルを見ていらっしゃるとか…。

相馬 海外に行っている期間は、そう長くもないですけど。だいたい年に3、4回ぐらいですか。春と夏は1~2週間ぐらい行きます。それ以外は、たとえばアジアなら週末だけパッと行ってくるとか、そういう感じですね。

-見て、選んで、交渉して、契約して、実際に呼んで来て公演する、というようなことの繰り返しなんですか。

相馬 そうですね。でも、最近のF/Tの演目だと、ただ見て選んで買ってくるというような単純なものはほとんどない。見ることはたくさん見ますけれど、それを日本でやったときに何が起こるかなとか、どうやったら日本の文脈に乗るかなとか、どうやったらF/Tの問題提起と接続できるかなとか、そういうことを考えて、アーティストと話し合う時間が長いですね。枠さえ決まってしまえば、演目数は膨大なので、担当者と情報を共有しながら、現場は担当者が中心に動いていきます。

-F/Tのスタッフは何人くらいいらっしゃいますか。

相馬 現在のコアスタッフは12名です。改めて言いますと、私と、事務局長の蓮池奈緒子、広報の湯川裕子、総務・広報の板橋園恵、営業・票券の辻奈都子、事務局長の補佐で行政関係担当の宮崎あかり、制作チームに武田知也、植松侑子、吉田雄一郎、及位友美、クラウトハイム・ウルリケ、小森あや。

-基本的には、その12人で全部回していらっしゃるんですね。あとはインターンの方ですか。

相馬 そうですね。それにプロジェクト単位でお願いするスタッフも何人もいますので、多いときだと30人ぐらいになるんですけれど。普通の劇場では、一つの作品を5人か6人体制で制作するわけですから、それを考えるとうちはほんとに少数精鋭で、しかも複数の作品をかけもちしているので、みんなほんとによく頑張ってるなあと思います。(続く>>)

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