「千種セレクション」報告(後編)

◎シンポジウムと四劇団の公演について
カトリヒデトシ

(この記事は184号に掲載された「千種セレクション」報告(前編) の続きです)
水牛編集長にメルマガで取り上げていただいたが、少し説明を補足したい、年間400本ほど観劇をしているが、当然のこと全てを見るにはほど遠い。「全国の演劇」をとても把握できるわけではない。しかし東京が演劇の中心とも思わない。できるなら地方の状況や取り組みにも触れたいと願っている。そこで昨年から注目する団体の東京外公演を見にいこうと取り組み始めた。昨年は、ハイバイ名古屋、北九州公演、東京デスロック青森公演、第七劇場北海道公演、チェルフィッチュ伊丹公演、柿喰う客名古屋、三重公演などである。普段東京で見ている団体が異なる場所、異なる空間で行う公演を見るだけでなく、その劇場がある地域の様子や演劇状況をできるだけ見聞することによって、地域の演劇の状況をすこしずつ知ることができればと思っている。

さて、シンポジウム「地域はさらに近づいていく」を通しての感想から後編をはじめよう。
司会の第七劇場鳴海が名古屋演劇の状況について聞くという進行で、東京から来たものに名古屋の演劇環境がどのように映るか、から始まり名古屋、東京それぞれの環境の話やそれぞれが抱える問題点や困難について語っていった。

ベテランの劇作家である北村想や東京公演を毎公演のようにうてる、「少年王者舘」。それに続く「B級遊撃隊」(主宰佃典彦。文学座アトリエの会に書き下ろした「ぬけがら」で第50回岸田戯曲賞を受賞)、岐阜が本拠地だが89年より名古屋で主に活動する「劇団ジャブジャブサーキット」(主宰はせひろいち)などの地元の「ベテラン」団体は健在だが、下に続く世代にベテラン勢に続く活動ができる劇団がなかなかおらず、独自性を発揮することに困難を生じているそうだ。地元での人気、集客はできる団体であっても、他地方での公演がうてるようなカンパニーには至っていない現状であるという。

人口が1100万を越える「名古屋圏」は、南は三重北部から北は岐阜、東は浜松あたりまでだそうだが、トヨタなどの国際企業もあり、独自かつ独立した経済圏、文化圏を築きあげている。そのためかえってそれが強固に働き、いわゆる「よそもの」には当初ハードルが高く、なかなかそこに飛び込めないことがあるという。

名古屋で7年前から活動する片山は、はじめワークショップを無料で開催するのも困難だったという話をした。その体質が災いし、俗に音楽業界などで「名古屋パッシング」と言われる現象、すなわち東京の公演が次は大阪に、大阪の公演が次は東京へ、と名古屋をスルーしてしまうことがあるということだ。

演劇においてもその状況があるようだが、上記の北村、佃、はせなどがいるために「劇作家」の地位が確立されている土地柄である。劇作家協会の「東海支部」が独自に「劇王」というコンペティションを7年にわたり開催している功績もある(今年度「劇王VII」は本誌、鳩羽風子氏のレビューでも紹介ずみ)。

最も名古屋圏の大規模ホールは苦戦を強いられているようだ、読者の方にご教授いただいたが、1500席前後の劇場は08年の愛知厚生年金会館の売却、本年3月での愛知県勤労会館「つるまいプラザ」の閉鎖と続き、残るは中京大学市民会館の大、中ホールのみで、抽選倍率が最高10倍に達する勢いだそうである。

一方、小規模の公共劇場は数多くある。各区には200から400ぐらいのキャパシティの「文化小劇場」の名前が冠されるものがある。今回の企画主催もその一つ千種区の文化小劇場である。

また「演劇練習館アクテノン」という公共の稽古場がある。5階建てで10数の稽古場をもつ、名前の通り演劇に特化された施設である。午前の使用料が800円から始まり、届け出により深夜0時まで延長可能でその際の延長料が30分300円という料金での使用が可能という。旧水道局ポンプ場を改築し(一時は図書館であった)ギリシア風の円筒形の建物を有効に活用し、演劇資料コーナーも備える空間である。「にしすがも創造舎」に比べても、市民が自由に演劇サークルや発表会の稽古場として使えるという環境はうらやましいものである。

文化小劇場の「名古屋市文化振興財団」が特定指定管理者になっているが、24もの公共劇場の運営資金がすべて市から提供されるという「純」公共劇場であるので、近年の厳しい状況で様々な制約があのだろうが、各館の稼働状況を見ると貸し館としての有料の公演だけではなく、市民団体の発表会など市民に身近な「公共性」のある企画が行われているように感じとれた。東京ほど民間の劇場が多いわけではないので、「官による民業の圧迫」という事態が起こることにはならないのであろう。財団も4年ごとに半分の管理者の選定が行われるそうで、現在一つの劇場が財団ではない団体による管理を受けているという厳しさもあるようだ。また、昨年「カラフル3」の報告をした時にもふれた長久手、武豊や可児などの周辺市町にも公共劇場があり、そこには市民劇団、市民交響楽団を持つものまでもが存在しているということもある。

全国を巡回する規模の大きい舞台公演する劇場の現象はあったとしても、こと小演劇演劇を制作する環境においては東京よりも「優れ」、「恵まれた」ていると筆者には感じられた。

しかし、多くの施設をかかえ、いわゆる「箱もの行政」と指摘されかねない現状は今後の低成長の時代にどのような形で継続していけるのかは予断を許さない点もあるだろう。ますますの市民・学生・小劇場による演劇状況の活性化を願いたい。

最後に参加4団体の公演のレビューをあげる。2/18観劇のものから。
よこしまブロッコリー 「惑星の軌道」。にへい脚本は、丁寧なト書き、それぞれのシーンでの緩急やリズムの設け方など、オーソドックスで実にきちんとした世界が表現されている。世界の構築が非常にすっきりとしている。

「夢」を追いかけてそれを言い訳に時間を浪費し、周りに甘え、自らを甘やかす男の現実への目覚めが主軸となる。いつまでも現実に向き合わず、それでいてすべてをふりすてて実現に邁進することもない、典型的ともいえる若者の姿がある。その男が長年付き合った女と別れ、新しい彼女との生活、妊娠という現実に直面し、バンドをあきらめ、社会人としての自立が促されていく。そこにだめな親友を見捨てられず、「同性愛」的な思いを寄せる男。故郷の同級生との巡り会いから身勝手な懐旧によって一夜限りを求める男などがからみあっていく、筋立てである。「夢」を諦めきれないため、「才能」があるか、ないかと逡巡しながらも、ずるずると「夢」を引きずり決定を先延ばしにし、貴重な時間を空費してしまうという苦い現実が描写され、「夢」が人生の劇薬であることをていねいに描かれていく。ストーリーをたどるとありきたりで陳腐な物語と思われてしまうかもしれないが、にへいの手柄はそこに「創造主」をからませたところにある。

今回人間世界を「惑星」と置き、「創造主」をそのはるか上空の軌道を回り続ける「衛星」として表す。その「創造主」の世界を、ちくさ座の舞台特質を生かし、円形舞台の周囲にみたてた。その軌道上からは現実に展開する人間世界(=惑星)には決して手の届かず、黙視することしかできない「創造主」の孤独が現れてくる。衛生からは惑星の軌道はコントロールできない、創造主が自ら生み出したものであっても、自立した個々の生には関与できず傍観しかできないと表現される。個々はそれぞれランダムに生き、運や偶然、衝動から選択を重ね、なにからも孤立している。その苦々しい生の孤独は「創造主」であっても関与できない。生の不決定性とそうした生への諦観が貫流している。そのような苦い認識を直接的でなく、穏当に表現したと思う。

shelf 「エピソード、断片-鈴江俊郎中期テキストから-」。shelfはレビューの難しい団体である。それは矢野が劇作家でなく、演出家として脚本を構成し台本を作っているというスタイルだけの問題ではない。矢野はストーリーやテーマの表現、伝達には主軸をおいていない。だからレビューで舞台の概略を伝えることはほとんど意味がない。彼がこだわり続けるのは、セリフであり、なによりものその「ことば」がどう立ち上がってくるかということにある。「ことば」がその日その時の舞台上で、役者の身体を通して発語されることを重要視しているのだ。執拗ともいえるこだわりを持っているといってよい。その発語がもたらす「ことば」の音像、印象、余白、そしてそれが他者と交換されて醸される空気になによりも表現の主力をおいているからである。

今回も戯曲の持つ、そこはかとなく醸されるユーモアが全くそぎ落とされているために観劇した回には笑いがほとんど起きることはなかった。しかしそれが傷になるわけではない。

子どもをうしなった女、そして同じ境遇を持つ夫婦、運動に敗れ自死した息子を思い出す母親。子どもの死を受け止めきれない親たち3者のふれあいが描かれ、おのおのの切実な心情の吐露がある。

暗く、正面から決して照明があたることのない中で明滅する懐中電灯、不意に落ちてくる風船などで構成される空間で役者が体を通して発声した「ことば」がたちあがり、意味を提示する。そしてその立ち上がったことばが次の瞬間には暗い虚空へと回収されていく。そこには現在の矢野が真摯に考えている「ことば」と「空間」と「時間」の関数が生み出すものへの考察が示されている。

ことばが「すれ違い」、噛み合った対話がされることなく虚空へと拡散されていく静かな経過、無駄なように思える時間の流れが示唆するのは、登場人物のそれぞれが捕らわれている子どもの死という「喪失」と、その「痛み」が癒やされる過程で必要とされる膨大な「時間」である。それを静かだが芯のあることばが発声されることにより、その響きの余韻を使って、時間の経過を方法論化する試みがあた。その静謐はしみじみと観客を浸していった。

矢野はスズキメソッドを採用し、役者の訓練を実践しているようだが、自分は「SCOT系」ではないとも言う。しかし、スズキメソッドが身体を鍛えるだけではなく、強い身体からしか発せられない深く力強い「声」が獲得できる効用を考えると、彼にとって最適な訓練であるといえる。矢野は極めて「SCOT系」であると、私は考えている。

2/26,27観劇の2本。トライフル「地上から110cm」。110㎝とは腰をかけた際の顔の位置らしい。座るでもなく、あぐらをかくでもなく、腰かけることが当たり前になってしまった時、江戸っ子はどうするんだろうか、と見ていて感じた。
片山脚本は気が利いている。諧謔に満ちている。それは、片山が江戸っ子であることに起因するようだ。

倦怠期というか、関係に煮詰まってしまい、相手のするささいなことが気にいらなくなって角をつき合わせるようになった夫婦が(今回の配役ではかなり年下の妻のようだ)もう一度心を通わせるようになる話を主軸とし、浮気相手とそこにできた子ども、肝炎で入院する父と息子の微妙に齟齬に満ちた会話、浮気がいきなり訪れ、妻と3者で会話する窮地などが展開していく。

妻が義父を心から心配していることが伝わる辺りから融和がはじまり、夫の「母語」であり江戸っ子の象徴である「下町弁=江戸ことば」を妻が使おうとし始めることで二人の未来が伺えるようになる。二人が許容しあい、互いのアイデンティティの内部に互いが入りこんでいくことが実感できるようになっていく。相手の大切にしているものが、自分にも大切になることにより、相手のグラウンドにとびこんでいき、本当の協働者になっていくという「家族の誕生」が発見される。その安堵に満ちた融和は、それは美しいすれ違いという錯覚なのかも知れないが、夫婦の共生の一歩を実感できる柔らかい終わりを迎える。
インスタントの味噌煮込みうどんをすすって地元にサービスしたかと思うと(大いに受けていた)、平然と「下町弁」をしゃべって、江戸下町の人情ものをぶつけるなど、面白いアンバランスがあった。それはご当地でよそものがご覧にかけるときの振る舞いとして、実に興味深いものであった。「そりゃいいねぇ」と媚びるとこは媚び、思い入れの深いところ、「ここは譲れねぇ」というところはぎくしゃくしても貫くという、かっこつけてばかりでけっこう生きるのが下手な江戸っ子の素顔が垣間見え、片山が大好きになった。

第七劇場 「かもめ」。作品にはいくつかの仕掛けがある。1時間という上演の制約からテキストをカットするだけでなく、同じチェホフの「六号室」「ともしび」「わびしい話」のセリフを織り込んでいる。「六号室」は精神病棟での医者と患者の話。「かもめ」の老医師役小菅紘史がこちらでも医者を演じる。「ともしび」ではと都会と田舎の対比のみならず、過ぎ去った時間への感想が述懐される。「六号室」の患者たちは病院に収容されていることに納得がいかず、医者に普通の人たちとの違いを問いただす。引用される世界はいずれも「かもめ」と同様、辺境へ外からやってきたものがここをどう変えてしまったか。過去が現在にさしこまれた結果、現在が過去からみていかに異なる世界へとなったか。ということをウロボロス的に往還するものになっている。

それにより、手に届かない時間、場所を想像したり、あこがれたりすることが「今ここ」にいることにマイナスになり、結果ここから逃げだすことしか考えられなく衝動により、「今ここ」の生を充実できなくなるという、とりかえしのつかない結果が生みだされていく。何ともチェホフ的な世界が開陳されていく。

「六号室」の患者二人はスリッパをはき、「かもめ」の登場人物が裸足であることと対比される。その境界をまたぐ、医師のみが靴を履いている。ニーナは登場時にブランコに腰掛けているが、その脇にはスリッパが揃えられている。そのスリッパは脱がれたものか、これから履くものなのか。

最後に落魄したニーナが現れ、コースチャの憧憬が成就しないのは「かもめ」で有名な場面だが、この後彼女はスリッパを履き、ブランコにたたずむのだろうか。
チェホフの作品はだめな人間たちがだめなことしかできずに事態をどんどん悪化させるという構図を持つ。ご存じのように「かもめ」は都会の有名作家が地方を訪れ、そこで知り合った若い女優志望を都会へと連れだし、結果破滅させてしまうという筋をもつ。東京から来た劇団が地方でどのように受容されるのか、興味があるところなのだが、「かもめ」を上演することのPC(ポリティカルコレクトネス)的な微妙さについて鳴海はどう考えているのだろうか。ナイーブすぎるかもしれないが、そこには無神経さがあると判断されかねないと思える。

舞台はやや上手によった位置に大きなテーブルがおかれている。その上にかもめが吊されている。机のの上下をコースチャとニーナ、患者たちが使いわける。いろいろなところに置かれた同型の椅子が後半下手に10数個まとめられ、時に慌ただしく並び変えられたりする。

机の下へ隠れたり、椅子をばたばたと動かしたりするさまが、現在そのものを肯定できず、ここで充実することから逃避してしまう、登場人物たちの生の「遅延」や「回収不能性」を現しているように見えた。

しかし、客席側からみて、机の手前、机とその周囲、机の奥側、そして背景につるされる枝振りのよい枯れ木と、舞台上が4層にも分割されている。結果それぞれの層の幅が十分に展開できないため、層を移動することが分かりづらく、なによりも正面からはせっかくの企図である4層の重なりにほとんど気づけない。

普段、野外での公演を得意とし、広い空間の中で舞台を立体的に構築することの巧みさを信条とする第七劇場が、劇場内で行うことに多いに課題がのこった。境のない場所でどこまでを演技空間と把握するか、それをどう見せていくか、つまり空間の把握とそのコーディネイトに戦略的なひらめきがあるのが鳴海演出の最大のおもしろさなのだが、ちくさ座のような円形のほれぼれする空間でも「狭く」感じられてしまうのには、困ったものである。広い空間を縦横無尽に築き上げるのも魅力ではあるが、そこにある空気の量とそこに落とし込める空間の質をきちんと把握できるようになってもらいたいと思った。
(初出:マガジン・ワンダーランド第184号、2010年 4月14日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
カトリヒデトシ(香取英敏)
1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校に勤務し、家業を継 ぎ独立。現在は、企画制作(株)エムマッティーナを設立し、代表取締役。 個人HP「カトリヒデトシ,com」を主宰。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katori-hidetoshi/

【上演記録】
“千種セレクション vol.1”~あなたは劇場と恋をする~
名古屋市千種文化小劇場 ちくさ座(2010年2月18日-20日、25日-27日)

■1週目【ウィークA】2月18日(木)~20日(土)
よこしまブロッコリー/shelf
18日(木)19:00
19日(金)19:00
20日(土)13:00/☆トーク/17:00
■2週目【ウィークB】 2月25日(木)~27日(土)
トライフル/第七劇場
25日(木)19:00
26日(金)19:00
27日(土)13:00/☆トーク/17:00

■1ウィークチケット 3,500円(2団体鑑賞可能)[日時指定あり・全席自由]
■2ウィークチケット 6,000円(4団体鑑賞可能)[日時指定なし・全席自由]

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