連載企画「外国人が見る小劇場」第4回

-そうですか。どんな写真でしたか。

チェントンツェ 確か海の中に裸の人がいました。もしかしたら山海塾の写真だったかもしれませんし、大駱駝艦だったかもしれない。五井輝さんの写真も載っていたかもしれません。写真を見て、これはダンスの本質だ、本当のダンスだと直感しました。クラシックバレエでもなく、モダンダンスでもなく、ジャズでもコンテンポラリーでもなく、本当のダンスはこれだって。もちろん、まだ何も知らなかったのですけれど、それが最初の印象でしたね。

-なるほど、衝撃を受けたのですね。

舞踏に取り組む

-舞踏を本格的に勉強しようと思ったのは、大学に入ってからですか。

チェントンツェ 大学に入って日本語、日本文学を勉強したのですけれど、それは偶然でした。わたしはそれほど日本に興味はなくて、もともとは中国語を勉強したかったのです。父はわたしに経済学を勉強してほしいと希望していて、でも、わたしはそれに抵抗していました。ちょうどそのとき父は日本と取引があったので、私は日本語を勉強するというと許可が出ました。

-80年代後半から90年頃にかけて、日本はバブルの最盛期でしたからね。貿易をなさっているお父さんとしては、じゃあ日本語だったらいいよ、ということになったのでしょうか。

チェントンツェ そうです。日本語だったら何かの役に立つと思ったのでしょうね。だから、わたしは大学での勉強と自分のダンスの興味が一致するなんて、最初から考えていませんでした。わたしの入学したヴェネツィア大学東洋学科にはダンスなどの専門科目がなかったので、わたしはひとりで研究し、ひとりで卒業論文を書きました。

-先生もいなかったんですか。

チェントンツェ 二人の先生たちパオラ・カンニョーニ先生とボナヴェントゥーラ・ルペルティ先生は個人的に日本の芸能専門家ですけど、そのころ演劇論とか演劇史についてではなく文学史の授業でした。98年に卒業してから、私はカンニョーニ先生のおかげで同科で日本文学史と日本演劇史を教え始めました。日本演劇史に関しては初めての講義でした。それには二つの授業科目があり、一つは一般的な古典芸能史で、二つ目は身体論と演劇性を中心にした戦後の前衛舞踊でした。つまり舞踏における肉体論について考えたことを教えました。

-高校生のころ雑誌で舞踏を発見したけれど、その関心はそのまましばらくは眠っていたんですか。舞踏への興味はどこで蘇ったんですか。

チェントンツェ いいえ、舞踏への関心はずっとあったんです。大学へ通いながら(趣味として)自分のためにダンスをやっていました。1995年に初めて岩名雅記の舞踏ワークショップが近くの町でひらかれたので通訳しながら受けました。岩名はフランスで活動している舞踏家です。そのワークショップを受け、もしかしたらいつか卒業論文を「舞踏」で書こうと思っていたので、それが舞踏に本格的に取り組む始まりでした。その後、イタリア人の舞踏家ピエールパオロ・コッス( PierPaolo Koss)さんのワークショップを何回かヴェネツィアで計画して、参加しました。彼はイタリアで最初の舞踏家ではないでしょうか。ですから、大学の勉強とは別にいろいろ活動していたんです。

土方巽の「革命」

-研究と実践・ワークショップを別々に進めていたけれど、大野さんの舞台を見てからその両方が結びついたということですか。

チェントンツェ 舞踏に関しては、ずっと何年も実践ばかりで、学問的研究はやっていませんでした。卒業論文を書こうと思ってから、具体的に舞踏を取り上げるのではなく、方法論を研究しようと考えていました。そのころはまだイタリアで手に入る舞踏に関する資料は少なく、どういうふうに「舞踏の身体性」を学問的に説明できるかといろいろ考えました。日本語の資料では、たとえば土方巽さんの弟子の三上賀代さんの著作(『器としての身体―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』)と『激しい季節』があって、その本と新聞を研究しました。他の資料では、例えば、アントニン・アルトー、人類学者ヴィクター・ターナー、ヨーロッパの革命的な(演劇運動の、肉体を重視する)グロトフスキ、そしてその弟子であり、人類学者と演劇人エウジェニオ・バルバさんの著書などを読んで、どこにつながりがあるか、全然違うか、を比較して考えました。

-日本に来る前に考えていた舞踏のイメージは、来日してさまざまな公演を見たりワークショップに参加したりして豊かになりましたか、それともどうも違うと思いましたか。

チェントンツェ それは難しい質問ですね。考えますと、たぶんそんなに違いません。そのころ考えたことは今も考えています。

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