#11 相馬千秋(フェスティバル/トーキョー プログラム・ディレクター)

演劇史的な位置づけこそ見てほしい

 2009年に始まったフェスティバル/トーキョー(F/T)は、三回の開催を通じ、常にその内容に注目が集まる、見逃せない演劇祭としての地位を確立しています。しかしその一方、実際のところF/Tがどのように運営され、何を目指して開催されているのか、十分知られているとは言えません。「F/Tの顔」であるプログラム・ディレクターの相馬千秋さんに、興味の赴くままお聞きしました。
 インタビューは2月3日に、にしすがも創造舎で行われました。マガジン・ワンダーランド第232号に掲載の予定で準備を進めていましたが、急きょ大震災特集号としましたので、一週間遅れの第233号でお送りします。(聞き手 水牛健太郎、大泉尚子、都留由子@ワンダーランド)

フランスで舞台芸術と向き合う

-昨年11月28日に前回のフェスティバル/トーキョー(F/T)10が閉幕して、今はもう次回に向けての準備をしてらっしゃるんですか。

相馬千秋さん相馬 そうですね。F/T10を実施する前から、F/T11のことはいくつか仕込んでいまして、F/T10の最中はその進行がストップするので、10が終わって一段落して、今はまた11の準備をしている段階ですね。

-ではまず、相馬さんご自身のことからうかがっていきたいのですけれども、いわゆる演劇少女でいらしたのですか。

相馬 まったく違います(笑)。よく聞かれるんですよね。女優をやっていたんですかとか、演出をやっていたんですかとか、大学で演劇サークルをやっていたんですかとか。そのいずれにも私はまったく当てはまらず、むしろ演劇だけはやっていなかったという人間です。もともと文学とか美術が好きで、いわゆる文化系女子でした。
 大学時代も音楽のサークル、オーケストラをやったり、仏文科だったので文学をやったり、あとは美術、いわゆる現代アートも好きで、見たり勉強したりしていました。それから映画も大好きでかなり見ていたんですね。そういうふうに、アートは普通に享受していたにも関わらず、演劇だけは見事にやっていなかった(笑)。

-大学卒業後、フランスに留学してアートマネージメントと文化政策を専攻されたということですけれども、そうすると、具体的な分野としては、少なくとも留学当初は、美術などをイメージされていたということでしょうか。

相馬 そうですね。まあ文学の研究を続けたいという気持ちもありつつ、でもよくあるモラトリアム学生というか、大学4年出たところで何者になれるわけでもないですし、かといって普通の企業に就職するような社会性があったわけでもなく、何となく、まだあと数年はいろいろ見聞きしたいということで、フランスに行きました。
 そこで、舞台芸術と本当の意味で出会ったと思うんです。私はリヨンに留学していたんですけれど、劇場が街に根付いている。大学院のすぐ隣がリヨン国立オペラ座で、本当に徒歩30秒くらいの所にあって、学校帰りにそこで、フォーサイスの振り付けた作品が10ユーロで見られる。オペラ座は非常に大きいハコですので、ダンスとかオペラが主軸ですけれども、それ以外にも街にいろんな小劇場があって、そういう所に見に行くようになって初めて、舞台芸術がこんなに豊かなものなんだなあということに気付きましたね。
 劇場文化だけではなくて、普通に暮らしていても芸術的な環境があるんですね。リヨンは人口100万人ほど、日本でいうと仙台くらいの規模の街です。そこに劇場があり、現代美術館があって、それらを中心に、ダンスと現代美術のビエンナーレを毎年交互にやっているんですよ。ですから、自分から求めていかなくても、向こうから来るくらいの存在感で、街にアートが根付いていた。アートが社会に浸透していること自体を皮膚感覚として享受できたことは、自分にとっては非常に大きかったですね。

-学生料金で安いということもあったんですか。

相馬 もちろんそうですね。そもそも税率が違う国のことを比較しても仕方ないですけれども、たとえばフランスでは、25歳以下だと、すべての国鉄の料金が半額になるカードがあったりするわけです。若い人が、自由に移動して自由にいろんなものを見聞きすることに対する、社会的コンセンサスがある。劇場にしても見切れ席なんかは本当に安い料金で見ることができたので、その辺はよかったですね。

-そういう環境を日本においても実現したいといった、ある種の将来へ向けての方向付けが、フランスで経験を積まれる間にできたということですか。

相馬 そうですね。要するに日本にいた時は単なるアート好きというか、もうちょっと言っちゃうと、自分もあわよくば表現者になりたいなみたいな漠然とした気持ちも当然あったわけです。でも、向こうに行くことで、むしろ社会と表現をつなぐ部分で、まだまだ日本でやるべきことがあるいうことに気が付いて、そこを自分の中心的な課題としてやっていきたいということを自覚できました。

-留学先を卒業後、しばらくフランスにいた間のお仕事としては、具体的にはどのようなことをされていたのですか。

相馬 向こうのアーティスト・イン・レジデンスに、4か月間、住込みで働いたりしました。当時、私はまだ明確に演劇やダンスをやろうとは思っていなかったので、そこはビジュアル・アートというか、今でいうところのメディア・アートですかね、割とテクノロジーとか新しいメディアを使ったアートを創作するレジデンスでした。プジョーという車の会社がありますよね。あのファミリーが持っていた邸宅が、スイスとドイツの国境付近にあって、そこを改装したレジデンスでした。
 それから、パリのセーヌ川に「バトファー」という船のアートスペースがあるんです。川の上に蒸気船を持ってきて、そこがオルタナティブ・スペースになっている。そこで日本の現代音楽、電子音楽のフェスティバルがあって、制作アシスタントをやったりしていました。その時は日本から80人くらいアーティストを呼んできたので大変だったんですが、その時に、グラインダーマンとか大友良英さんとか、日本で活躍なさっている方々と出会うことができました。

-レジデンスは住込みでやるものなんですか。

相馬 そこの地域が本当に田舎なんですね。一番近い駅から車で30分みたいな世界で、住み込まないと働けないんですよね。衣食住を提供してくれていて、あとは若干のフィーも出ました。すごいんですよ、コックが3人いて、朝昼晩とご飯が出てくる。巨大なテーブルを囲んで、アーティストとスタッフみんなで夕食を食べたりとか。日本では想像しがたいですね。
 私は、半分インターンみたいな形で、住込みで働いていましたけれども、正規雇用の方々も10人以上はいました。メディア・アートが専門だったので技術者がいたんですね。当時はまだインターネットも過渡期だったし、カッコいいウェブページなどができ始めた頃なので、そういうデザイナーもいました。日本語なんてまったく使わない環境です。日本人はおろか、アジア人も私しかいないようなところで、その地域の周りはプジョーの車会社の労働者ばかりでした。

-そこは、財政的にはやっぱり公共のお金に拠っているんですか。それともプジョーから、いくらか助成などが出ているんですか。

相馬 おそらく建物自体はプジョーが行政に払い下げたところだと思うんですよね。それで行政が無償で、アートセンターに貸しているということだったと思います。ただコックを3人雇ったりしたせいか、しばらくして潰れてしまったんですけれども(笑)。

-フランスには、合計何年くらい、いらっしゃったんですか。

相馬 丸3年いました。

-ずっとフランスにいようとは思われなかったんですか。

相馬 思いましたね。やっぱり環境がいいですもの。労働時間に対する収入だとか、住環境とか余暇の時間とか、生活の豊かさみたいなことで言ったら、普通はもう比べ物にならないと思います。その分もちろん税金は多く払いますけれど、豊かさ指数は絶対向こうの方が高いとは思いましたね。
 ただそのことと、自分がその社会の中でできること、したいことというのはまったく別の問題。やっぱり日本に帰ってこようと思ったのは、フランスにいると、別に自分がいなくてもシステムができていて回っているわけですよ。そこで外国人としてやれることが、ないわけじゃないですけれど、やはりメインはフランスと日本とのインターフェイスになるってことじゃないですか。それはしばらくやればいいかなという感じで。日本は当時フランスと比べてまだまだ整っていないこともありましたし、何より自分の足下から考えていく作業を一度きちんとやらないと、根無し草になってしまうなあという危機感がありました。

日本で「中東シリーズ」手がける

-それで日本に戻ってNPO法人アートネットワーク・ジャパン(ANJ)に入ったということですね。

相馬 そうですね。まあ入ったというか、拾っていただいたというか(笑)。当時市村さん(市村作知雄ANJ会長)は、ANJをNPO法人にして、今のF/Tよりずっと小さい規模ですが、東京国際芸術祭(TIF)というフェスティバルをやっていました。ちょうど国際担当の方が退職された後で、1人くらい語学ができて、若くて生意気そうな人間を探していたということらしいんですけれども。

-では、お互いにグッドタイミングということで。

相馬 そうですね。私は日本の演劇についてはほとんど何も知らなかったのですが、たとえば演劇でも、ダムタイプのようにクロスジャンルなものは見ていたし、ジャンルにこだわるというよりは、そのフェスティバルという枠組で何ができるのかとか、社会にどう働きかけられるかいうところに興味がありました。
 そういう意味では市村という人は、単に作品を作って見せることだけに執心しているプロデューサーではなくて、環境そのものを変えていくことに取り組んでいたんですね。企業メセナ協議会と一緒に企画を考えたり、アーティストの創作環境の部分の改善だとか、文化政策の部分のシナリオ作りとか、そういうマクロな目線でやっている数少ない舞台芸術のプロデューサーだったと思います。他に誰を知っていたわけでもないんですけど、この人だったらついてっても大丈夫みたいな直感ですかね(笑)。

-ANJに入られて、はじめての仕事が、プロフィールに挙げておられる「中東シリーズ」になるのですか。

相馬 国際担当だったので、中東シリーズの前から海外からのアーティストやゲストを招聘して公演やレクチャーをコーディネートしたりとかしていました。かなり雑多な仕事も沢山やっている中で、中東シリーズというのが、自分が企画の段階から関わって立ち上げたものだったので、プロフィールにはそういうふうに書いています。

-これまでされているお仕事を拝見しますと、外国からアーティストを呼んできたり、また行政とアーティストをつなぐなど、大きく捉えると、いろんな違う世界をつなぐというような側面があると感じます。なかなか誰にでもできることではないと思いますが、ご自身では、ある種の適性、あるいは、そういった仕事に関わる理由などを自覚されることはありますか?

相馬 自分ではわからないですね。向いているのかどうかもわからないし、できているのかどうかもわかりません。全然できていないと思われているかもしれないという恐怖もありますし(笑)。そこはもう、自分では何とも言えないところですね。ただ少なくともそれを選んだということ、他を選ばなかったということに、自分なりの考えがあったことは間違いないと思うんですよね。もちろん後から、結果的にこれでよかったということはいくらでも言えるわけですけれど、まだそのことに関して、自分で自分を固めたくないっていうのもあるんです。
 つまり、今はこういうフェスティバルという枠組みの中で、プログラムをつくり、かつそれを通して、ある主張をしていく立場ですよね。そういう形で、演劇というメディアを通してやりたいことをやり、社会に自分の考えを表している。でも、それ自体は変わっていくと思うんですよ。当然、それを一生やるわけでもないですし、そこで得られた問題意識を、また次の展開に発展させていきたい。
 私はANJという一つの組織に属していますけれど、実は、そこでやってきたこともかなり変わってきているわけですね。最初は中東シリーズということで、海外からアーティストを呼んできて一緒に作る中で考えていこうということを、2004年から2007年くらいまで集中してやっていました。2006年から2009年までは横浜を中心に、具体的には、急な坂スタジオの立ち上げから企画運営までやっていました。そこでは、横浜市という地方自治体に、現場の立場からいろいろ進言したり、文化政策という大きなシナリオを作る仕事を、一緒にさせていただいたと思っています。
 だから、一応所属は変わらないんですけれど、携わっていることや、その都度捉えている現実というのはどんどん変わっていて、そうした問題意識の変遷によって、とりうる手法も、あるいは自分自身の活動の定義も変わってきていると思いますね。(続く>>)

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