青年団リンク RoMT「the real thing」

◎説得力ある人物造形に成功 洗煉された舞台表現のセンス
片山幹生(早稲田大学非常勤講師)

「the real thing」公演チラシ『the real thing』は、『ハムレット』の登場人物による不条理劇『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(1967年)の作者として知られるトム・ストッパードが1982年にロンドンで発表した作品である。日本では1986年に文学座で『リアルシング』のタイトルで上演されている。活発なことばのやりとりの中で虚実があいまいになっていく、いかにも一筋縄ではいかなそうな演劇的仕掛けに満ちた刺激的な作品だった。ことばによって幻惑されるスリリングな展開に観客も気を抜くことができない。
田野邦彦が主宰する青年団リンクRoMTの公演を見るのはこれが初めてだった。演出家はこの難物を丁寧に読み解き、戯曲に仕掛けられた技巧を効果的に増幅させた上で、説得力のあるリアルな人物造形に成功している。スピーディな展開の中で、様々な趣向をスマートに提示する洗煉された舞台表現のセンスも印象的な舞台だった。

作品は一言で言うと、夫婦間に生じる不信と愛の不毛についてのシニカルな演劇的注釈である。何組かのカップルが登場するが、物語の展開の中心となるのは、女優と脚本家のカップルである。

冒頭は劇中劇から始まる。とある家庭の応接間、ローテーブルを前に男(マックス)が一人で酒を飲んでいる。テーブルにはトランプでピラミッドが作られている。ほんのわずかな衝撃で崩れてしまうトランプ・カードのピラミッドは、これから語られる夫婦関係の脆さとその関係の遊戯性を暗示するものだ。そこに旅行に出ていたらしい彼の妻(シャーロット)が帰宅する。既にかなり酩酊した様子の夫は、妻の神経を逆なでするような諧謔的態度で執拗に妻に絡む。国外に行っていたはずの妻がパスポートを家に置き忘れていたことから、彼は妻の不貞を確信したのだった。屈折した物言いでねちねちと妻を問い詰める彼に、最初はおどおどしていた妻も最後には逆上し、夫を残して家を出て行く。一人、部屋で暗く沈みこむ男。音楽が鳴り、暗転している間に、場が変わる。

「the real thing」公演1
【写真撮影=金子由郎 提供=青年団リンク RoMT 禁無断転載】

夫婦関係の破綻の様子をリアルに描くこの劇中劇の場面は、この作品全体を要約するものであり、後に続く物語を予告するものである。この後強迫観念のように、似たような場面が繰り返し出現することになる。

次の場も、とある家の室内で展開する。テーブルやソファなどの調度品の配置に変更が加えられたことで、冒頭の場とは別の家であることが示されるが、特に特徴のない平凡な応接間である。先ほどの場で部屋を出て行った女性(シャーロット)が、別の男(ヘンリー)と一緒にいる。次いで先ほどの場で妻に浮気された男(マックス)が、この二人の家にやって来る。さらにこの寝取られ男の妻(アニー)であるらしい別の女性がやってくる。四人は友人同士らしい。簡単なホームパーティらしきものが始まる。

第一場が劇中劇であることをこの時点では知らされていないので観客は困惑するはずだ。時間軸も舞台上では明示されていない。シャーロットとマックスの間には多少のぎこちなさはあるが、激しく憎しみあっている感じはない。注意深く四人の会話の内容を追っていくうちに、冒頭の場面はこの家の主人であるヘンリーが書いた劇作品の一場面であったことがぼんやりとわかってくる。ヘンリーは脚本家で、シャーロットとマックスは役者として、先ほどの場面を演じていたのだ。アニーはマックスの妻でやはり役者である。実際の夫婦関係はシャーロットとヘンリー、マックスとアニーという組み合わせであることが、会話のやりとりを通してわかってくる。

しかし観客がこの組み合わせを認知した途端、この関係は舞台上で破綻を示し始める。ヘンリーとアニーが不倫関係にあることが舞台上で提示されるのである。そしてこの不倫関係は観客に提示されてから程なく、二組の夫婦関係は解消されることになる。

マックスとアニーの間で、冒頭の劇中劇が再現されたかのような、別離をめぐる諍いの場面が演じられる。哀れなことにマックスは、劇中劇の中でだけでなく、その外側でも寝取られ男を演じるはめになるのだ。ねちねちと不貞をなじるマックスに、アニーは愛想をつかし、彼のもとを去っていく。

冒頭の劇中劇の場面はさらにもう一度繰り返される。前述の場の後、アニーとヘンリーの不倫カップルはそれぞれのパートナーを捨てて再婚する。次の場では時間が何年かたっている。アニーとヘンリーの間には、既に倦怠の空気が生じているようだ。

「the real thing」公演2
【写真は「the real thing」公演から。撮影=金子由郎 提供=青年団リンク RoMT 禁無断転載】

アニーは地方公演で共演した若い俳優(ビリー)と恋愛関係にあることが劇中劇の「稽古」を演じる場面によって示唆される。ヘンリーはアニーの浮気を疑い、いらいらしながら彼女を待つ。そして妻が帰宅すると、まさに冒頭の劇中劇でマックスが演じた男のように、ヘンリーは疑惑を執拗に問い詰めるのだ。しかし彼が冒頭の劇中劇の作者でもあることがわかっているだけに、観客はヘンリーの悲しみとやりきれなさを素直には受け取ることができないはずだ。冒頭の劇中劇は、劇時間の中では、最初に書かれたはずだ。つまり作家であるヘンリーから見ると、自身が過去に書いたとある夫婦の離別の場面が、その後に起こる「現実の」夫婦関係の破綻を予言していることになる。虚構が現実を先回りし、予言するというパラドクスに既に二度惑わされている観客は、流石に三度目の再現には警戒せざるを得ない。

最終的にはヘンリーとアニーの関係の破綻は劇中では回避される。アニーが支援していた社会運動家の兵士、ブローディが釈放され、この夫婦の家を訪問する。この兵士のがさつな言動は、彼の人間としての底の浅さを露呈させ、アニーを失望させる。そこにかつてのアニーの夫、マックスが再婚したという連絡が電話で入る。この二つの出来事は夫婦を和解へと導くきっかけになる。しかし延々と「虚構内虚構」と「虚構内現実」の交錯する中で恋愛関係の変転が演じられてきたこの芝居が本当にハッピーエンドを迎えることができると誰が信じることができるだろうか。少なくとも最後の場面で電話をとったヘンリーの口調と表情には、大きな欺瞞と諦念の雰囲気が漂っているように私には見えた。

この作品は全体としては愛の不毛を主題にしていると言ってよいだろう。しかしこの主題の扱い方は相当に屈折していて、愛の虚構性への問いかけは、劇中劇という形を利用して、メタ演劇な形式で提示される。冒頭で提示された虚構の別離の場面が、舞台上の「現実」の恋愛関係を拘束するかのように再現される。劇中のカップルは虚構の別離をなぞるようにして、現実の別離の場面を繰り返し「演じる」ことを強いられる。さらにこの「演技」は多重構造の中で行われている。登場人物たちの多くは「役者」という属性を与えられおり、俳優たちは現実世界の役割をそのまま舞台上で演じているのだ。主人公の一人であるヘンリーの職業は脚本家である以上、作品の作者自身と姿を重ね合わさずにはいられない。

作品の中で材料として用いられている劇中劇は、ヘンリーが書いた冒頭の離別場面だけではない。この他にも、ストリンドベリの『令嬢ジュリー』(ただしこの作品について、私は上演中には気づかなかったのだけれど)、ジョン・フォードの『あわれ彼女は娼婦』、そして社会運動家兵士ブローディが自らの政治的信念を劇化したテレビ・ドラマ脚本(この脚本はヘンリーによって大幅に手直しされたようだ)が、作品の中で劇中劇の材料として用いられている。これらの劇中劇の「虚構」は、劇内の「現実」との境界があえて曖昧になるようなやり方で挿入されている。

もともと戯曲に存在していたこの「虚構内虚構(=劇中劇)」と「虚構内現実」の入れ子構造が、今回の演出ではとりわけ強調されているように思えた。場の転換では音楽が流れ、照明は暗くなり、椅子や机などの場所移動が行われるのだが、音楽が止まり、照明が明るくなったときに現れるのは、先ほどの場とはたいして変わり映えのしない場所である(たいていはどこかの家の室内)。注意して台詞を追いかけていかないと、今この場で演じられているのが「劇中劇」なのか、それとも「劇内の現実」なのか、観客は混乱してしまうに違いない。そうした混乱を誘発するかのような作りがあえてされているのだ。

劇の各場では、その場に登場しない登場人物たちが、照明の当たっている中央で演技している役者たちを、じっと見つめていたりするという演出が用いられていた。作品のメタ演劇的構造を強調するための仕掛けである。三方を観客席に囲まれた舞台配置もまた、舞台上での演技が、その場にいないと見なされている第三者(=観客)の視線に常に晒されていることを強調している。

この芝居の登場人物はどの人物も饒舌であるが、その演技スタイルと対話のやりとりは、翻訳劇であるという制限にもかかわらず、青年団風にリアルな再現が行われていた。技巧的な仕掛けに富んだこの作品を、深い人間心理のドラマにしたのは、丁寧なテクストの読みに基づく人物造形の確かさである。とりわけ脚本家ヘンリーを演じた仲俣雅章のニュアンスに富む演技は大変興味深いものだった。私は彼の演技に、自分の作った作品と自分の関係する女性との恋愛に振り回される脚本家の深い退廃の気配を感じ取った。アニーを演じた村田牧子の特徴的な美貌も魅力的だったが、アニーは複数の男性を振り回すファム・ファタルの役柄でもあるだけに彼女にはもう一、二歩踏み込んで、無防備なエロティズムを表現してもらいたかった。

チラシと当日配られた配役表に添えられた文章では作品内容については触れられていなかった。しかしこれだけ込み入った作品である。作者と演出家、役者たちの仕掛けに幻惑されることを楽しむ芝居とはいえ、引用されている作品への言及など、鑑賞のためのゆるやかなガイドになるような簡単な作品紹介があったほうが観客には親切だったはずだ(演出家による観念的テクストや上演にまつわる思い出話よりも)。

ところで作品タイトルである『the real thing』(ほんとうのこと)はいったい何を指しているのだろうか? 複雑な入れ子構造によって虚構と現実のドラマが交錯するこの作品では、観客が「虚構」だと思ったことが「現実」に、「現実」だと思ったことが「虚構」へと、メタ演劇的構造の中で揺れ動く。こうした劇全体の構造が、愛の移ろいやすさの比喩になっている。真夏の逃げ水のように、愛はその実体を捉えようとしたその瞬間に逃げ去っていく。RoMTによる『the real thing』では、入り組んだメタ演劇的仕掛けの中で、恋をする人間心理の微細な移ろいがリアルな表現で再現されている。作者の考える愛の真実性は、演劇的虚構と現実の交錯で示されるメタ演劇的構造そのものの中に、おそらく幾分かの皮肉と諦念とともに、示されているのだ。(観劇日:2007年9月11日)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第62号、2007年10月3日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。現在、早稲田大学ほかで非常勤講師。ブログ「楽観的に絶望する」で演劇・映画等のレビューを公開している。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/

【上演記録】
青年団リンクRoMT「the real thing 」(文学座+青年団自主企画交流シリーズ
こまばアゴラ劇場(2007年9月5日-11日)

作:トム・ストッパード
訳:吉田美枝(『リアルシング』、劇書房、1986年)
演出:田野邦彦

出演:
仲俣雅章
村田牧子
征矢かおる(文学座)
酒井和哉
村井まどか
川辺邦弘(文学座)
バビィ(桃唄309)

スタッフ:
美術/鈴木健介
照明/西本 彩
音響/薮公美子
舞台監督/桜井秀峰
宣伝美術/京
宣伝写真/山本尚明
制作/RoMT+野村政之
総合プロデューサー/平田オリザ
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
共催:文学座/青年団

前売・当日共
一般:3,000円 学生・シニア(60歳以上):1,500円 高校生以下:1,200円
プレビュー・平日マチネ 一般:2,000円

★演出家とのアフタートーク:
9/7 19:00の回終演後・・「the real thingの20年」ゲスト:坂口芳貞(文学座)
9/10 19:00の回終演後・・「交流企画がもたらすもの」ゲスト:斉藤祐一(文学座)


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