MIKUNI YANAIHARA PROJECT「青ノ鳥」

◎世界のノイズ化とアンコントロール いまのリアルを舞台に上げる
中西理(演劇コラムニスト)

「青ノ鳥」公演チラシMIKUNI YANAIHARA PROJECT*1「青ノ鳥」*2(吉祥寺シアター=9月24日マチネ)を観劇した。インターメディア・パフォーマンス集団、ニブロールを率いる振付家・ダンサーである矢内原美邦はそれ以外にも最近はoff nibrollなど別働隊的な公演を行うことでその活動範囲を広げている。そのうち「演劇を上演しよう」というプロジェクトがMIKUNI YANAIHARA PROJECT(ミクニヤナイハラプロジェクト)である。

もっとも「演劇」とは書いたがそれは「矢内原美邦による」というカッコつきの「演劇」である。見て一目瞭然矢内原の「演劇」は普通の演劇とは大きく異なるスタイルを持つ。

前回の「3年2組」が上演された年(2005年)のwonderland年末回顧「振り返る 私の2005」にこんな風に書いた。

コンテンポラリーダンスの旗手が叩きつけた演劇への挑戦状が「3年2組」だ。会話体としての台詞を温存しながら、その台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることで、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせ、それが音楽や映像とシンクロしていくことで、高揚感が持続する舞台を作りあげた。

こうした問題意識・方法論的な実験性は今回の「青ノ鳥」にも引き継がれている。

実験演劇というと寺山修司らに代表される60年代演劇とその後継者が連想するが、90年代に利賀フェスティバルを中心に展開された〔P4〕すなわち青年団の平田オリザ、山の手事情社の安田雅弘、ク・ナウカの宮城聰らの行った演劇的実験も実はそれに劣らないものだった。私は個人的にそう考えている。

2000年以降に先人に匹敵する方法論・スタイルに対する問題意識で現れた劇作家・演出家にチェルフィッチュの岡田利規が挙げられる。しかし、矢内原も岡田と双璧かもしれない。両者の立ち位置の違いを言えば岡田が演劇の内部からの改革者の色彩が強いのに対し、矢内原はあくまでアウトサイダーとしてそれに対峙しながら、平田・安田・宮城らが行っていた実験を引き継ぐような作業を行っている。以前にポツドールの三浦大輔について「松尾スズキ的主題を平田オリザ的手法で描く」と書いたことがあったが、それと似た言い方をすれば「青ノ鳥」は「平田オリザ的主題を安田雅弘的な手段で描いている」といえそうだ。

「青ノ鳥」はそこには絶滅したはずの生き物たちが今も住むという森の近くにある生物研究所を描いた群像会話劇である。主要登場人物は動物学者、植物学者、昆虫学者と多岐にわたるが、すべてなんらかの意味で生物ないし生態系を研究する研究者たちだ。彼らは自らが従事しているそれぞれの研究についての思いを語る。この舞台を見てまず最初に思い起こしたのは青年団の「カガクするココロ」「北限の猿」「バルカン動物園」*3、いずれもサル学の研究室を描いた平田オリザの連作シリーズとの類似である。理科系の学問を研究している研究室が舞台として描かれているという表面的類似(そういうものはほかにも多数ある)だけでなく、研究所という閉ざされた世界における研究者同士の対立などコップの中の嵐を描いているように見えながら、実はその内容はメタフォール(隠喩的)な形で様々な価値観がせめぎ合うこの世界そのものの似姿を描いていく。そこに共通点を感じたのだ。

矢内原美邦と平田オリザでは演劇(あるいはパフォーマンスも含めて)の表現スタイルという意味ではあまり似通ったところはない。むしろ対極的にも思われるが、実はこの二人は主題に対する構えにおいてはすごく近いかもしれない。描かれるモチーフにしても「青ノ鳥」だけなら偶然の一致と済ませることもできるが、そのほかの作品でも一致点が多いようなのだ。矢内原が最初に作った「演劇」作品はガーディアンガーデン演劇祭参加作品となった「ノート(裏)」であった。この作品はその後、演劇的要素も取り入れたダンス作品「NOTES」へと変化していくのだが、表題(タイトル)からして平田の代表作「東京ノート」を連想させる。

事実、神戸アートビレッジセンター(KAVC)の「NOTES」のアフタートークで矢内原は「東京ノート」について触れ、最初に「ノート(裏)」を構想した時には「東京ノート」のことは全然意識していなかったし作品も見てなかったと語った。つまり偶然の一致だったわけだが、後で「東京ノート」のことが気になり、作品も実際に見て、作者の考えていることが非常によく分かったという。しかしそこで描かれている世界については「そこで描かれているものは私たちが感じている今のリアルとは違うとも感じた」と語った。

つまり「NOTES」は矢内原美邦版のもうひとつの「東京ノート」だったということもできるかもしれない。そもそも、ニブロールの場合、舞台において「この世界の縮図を描く」という方向性は「駐車禁止」「コーヒー」といった初期作品からしてそうだったし最新作である「NO DIRECTION,everyday」でも作品のそうした方向性は揺らいでいない。また、そこで描かれるモチーフという意味合いでいえば「3年2組」の同窓会も「上野動物園再々々襲撃」をはじめいくつかの作品で平田が頻繁に利用するシチュエーション(状況設定)であった。

矢内原と平田の作品を見て共通項を強く感じるのはどちらも「私たちが生きているこの世界はこのようなものなのだ」ということを提示する、それが作品の存在理由と思わせるからだ。もっとも、例えば平田の「バルカン動物園」などと比べると矢内原の登場人物のせりふや設定には実際にありそうだと思わせるよりも相当にデフォルメされている。いわば漫画的といえる。その分寓話性も感じさせるが、「バルカン動物園」におけるサル学者と脳医学者の決定的な価値観の対立と類似の構造が森の研究に対する動物学者、植物学者、昆虫学者のともに相容れない対立において描かれ、そうした対立構造は「世界のありよう」を写している。

もっとも、平田のことを持ち出すだけならわざわざ〔P4〕を取り上げる意味はなかった。90年代の日本現代演劇の大きな流れを見ていくとき、平田らによる「関係性の演劇」に対し、宮城と安田の「身体性の演劇」が対峙されるという構図があった。なかでもその実験性においてもっともラジカルだったのが、「ハイパーコラージュ」を提唱した山の手事情社=安田雅弘の試みだった。「ハイパーコラージュ」とは状態のさまざまで、様式的にも異なる様々な演劇的要素が同じ舞台に立ち同時多発的に並存する、というものなのだが、その発想の同時に舞台に上がった演劇要素のうち最初あるものが地であるものが図であったのが、ある瞬間を境に突如、地と図が逆転する。いわば演劇におけるコペルニクス的転回ともいえそうだが、そういう作品を作りたいという安田の野心があった。ところが結局それは十全な舞台作品として結実することなく試行錯誤のなかで雲散霧消してしまう。山の手事情社も「身体性の演劇」「語りの演劇」としてより様式的な安定度の高い「四畳半」と呼ばれる現在のスタイルに変わっていき、90年代におけるもっともラジカルな演劇実験と思われた「ハイパーコラージュ」はいつのまにか放擲されてしまった。

「青ノ鳥」公演
「青ノ鳥」公演

「青ノ鳥」公演
【写真は「青ノ鳥」公演から。撮影=飯田研紀 提供=プリコグ 禁無断転載】

今回の「青ノ鳥」を見て思い出したのは「訳が分からないけれど面白いところもある」と言われた「ハイパーコラージュ」期の山の手事情社なのだ。戯曲としては「関係性の演劇」のような構造を含む一方で、実際の舞台は「関係性の演劇」の本質である世界のスタティック(静的)な構造の提示ではなくて、むしろそれをノイズ化してとことんアンコントロールな方向へと展開していく。「3年2組」の時にすでに試みられた台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせるという演出は今回も継続して採用されるが、今回はそれに加えてマイクで拾ってもほとんど聞きとれるかどうかというささやくような小さな声で台詞を言わせたり、逆に台詞を叫ばせたり、あるいは場合によっては台詞をなくして、動きだけの場面とすると同時に一種の映像として台詞をスクリーンに映し出しようなさまざまな演技スタイルがひとつながりの場面のなかである時は継起的にまたある時には同時多発的に起こり、それは映像や音楽などそのほかの要素と一緒に舞台上でコラージュされていく。

当然、台詞はほとんど聞きとれなかったり、ひどく聞き苦しくて分かりにくかったりするのだが、もちろんこれは確信犯である。役者・パフォーマーが未熟だからこうなるわけではない。普通の状態での台詞回しの技術が無効になるほどの身体的な負荷を要求し制御不能な状態を舞台の上で見せることに矢内原の主眼が置かれているからだ。

もっとも速射砲のような台詞回しや激しい動きを伴いながらの台詞にニュアンスをこめることを不可能にするほど大声で叫ばせてのパフォーマーに要求するスタイルは単に気まぐれにされるわけではない。先に挙げたように「私たちが感じている今のリアル」を舞台に上げることにその目的があるのだとすればすべての台詞がうまく聞き取れて、その意味がきちんと伝わり、その結果としてある種の静的な構造が提示される世界よりも、断片的な情報が飛び交い、それを能動的に見る側が再構成することでしか、体験できない動的でかつノイズに満ちた世界。そういう世界モデルの方が2000年代の現実において「よりリアル」と矢内原が感じているからではないかと思う。

前作の「3年2組」について私は年間ベストに取り上げるなど非常に高く評価した。めったにないほどきわめて刺激的な舞台だとも感心させられた。「21世紀の夢の遊民社」とも書いたのだが、どうやらそれは例外的な意見で矢内原試みは一部のダンスファンや舞踊批評家の注目を得るのにとどまり、演劇サイドからはほとんど黙殺された。ネットの感想などでの評判も賛否両論というよりはっきり言って否定的なものが多かった。単純に台詞が聞きとれないような下手な芝居は許しがたいというようなことがあったみたいだ。「夢の遊民社」の名前をあえて出したのは遊民社には当時、俳優の技術的な欠陥により台詞が聞き取れないという悪評があったのだが、今考えてみると、あれだけ息も継がないようなすばやい動きで動いた後、すぐに台詞を言えというのもどだい無理な話だ。野田秀樹の芝居がNODA MAP以降は英国留学で西洋的な演劇概念に毒されたためか、そういうポジティブな乱れがあまりなくなってしまったのはきわめて残念なことだ。あの当時の野田は幾分か現在矢内原が試みている問題群を共有していたのではないかと考えるからだ。

一方、山の手事情社がなぜ「ハイパーコラージュ」を放擲したかははっきりしたことは分からない。当時の舞台を見ながら私が考えていたのは「図と地の逆転」という安田の発想は極めて興味深いがそこには人間の生理についての齟齬がある。実際にはそういうことは起こらないのではないか、という疑念だった。

台詞は時間軸に沿って語られる。ある一定の長さの台詞を聞き取り、意味を知るには一定時間そこに集中することが必要。台詞のある場面があって、その同じ舞台にダンスのように動きだけの演技をする人がいるとすると必然的に観客の神経は台詞のある方に集中してしまう。残りはバックダンサーになってしまうのだ。この場合、残念ながら図と地の逆転は起こらない。

もっとも、安田の考えているようなことが絶対起こらないのかというとそうではない。それが起こるのは同時多発のどちらにも台詞がない場合だ。上海太郎舞踏公司の「ダーウィンの見た悪夢」などに代表される一連の作品群がその典型だが無言劇の場合はそれは起こるのだ。あるいはある種のダンスの場合は例えばフォーサイスの作品などがそうだが、同時多発に舞台上で起こる複数の事象がコラージュされて作品となるというのはむしろ当然のように起こっている。

「青ノ鳥」公演
【撮影=飯田研紀 提供=プリコグ 禁無断転載】

さて、矢内原の作る舞台はどうだろう。ニブロールの舞台もパフォーマーに加え、映像や生演奏の音楽などが同時多発的に展開しコラージュされるという意味でハイパーコラージュといっていいだろう。問題はこれに言語テクストが加わったMIKUNI YANAIHARA PROJECTはどうなるのか、である。これはそんなに簡単ではない。「青ノ鳥」を見て思ったのは台詞が存在すればやはり観客はその意味を知りたくなる。単なる音のようなモノとしては聞き取りがたい。発話の「記号性」「意味性」でなく、「モノ性」「身体性」が矢内原の演出を通じて重要度を増しているとはいえ、「青ノ鳥」においても台詞の意味は作品の構造のなかで依然重要な要素である。むしろ、今回矢内原が試みた方法ならば観客は聞き取りにくい台詞をなんとか聞き取るために台詞への注意力をより強められる。平田オリザは観客の能動性を高める手段として、同時発話の会話のどちらかを選択的に聞きとらせることを試みたが、「青ノ鳥」の聞き取りにくい台詞も同様な効能を持つかもしれない。

台詞がある場合でもそれを断片化していくことで、コラージュ的な処理は可能で、舞台でそれを実現しているのが維新派であり、少年王者舘である。維新派は台詞を単語レベルに分断化、少年王者舘は単位時間あたりの言語情報の密度を人間の処理が可能なレベル以上に上げていくことで、その意味性を自壊させていく。それは冒頭にも書いたように言語テキストを用いても舞台のドライブ感を失わないための手段でもあるが、少なくと矢内原はテキストの断片化というこれらの方向性は選択していない。しかし、まだ「3年2組」「青ノ鳥」の2作品だけからではそれが今後どういう方向に進んでいくのかについてはまだ未知数の部分も多い。「青ノ鳥」も「3年2組」と比較すればそれぞれの場面で役者がどんな演技をするかについての手数(てかず)が大幅に増えたのは確かだが、ここでは決定的な方向性が提示されたとは言いがたい。試行錯誤の最中であろう。そういう中で彼女自身の関心はおそらくそこにはないとは思われるが、山の手事情社のハイパーコラージュの実験は興味深いものであっただけに90年代に安田がやり残したその可能性の中心に現在の矢内原の試行錯誤がどのように交差していくのかにも私の興味は膨らむのである。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第63号、2007年10月10日発行。購読は登録ページから)

(注)
*1:MIKUNI YANAIHARA PROJECT「3年2組」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050717
*2:MIKUNI YANAIHARA PROJECT「青ノ鳥」準備公演@STスポットhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060702
*3:「バルカン動物園」レビューhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000024

【筆者略歴】
中西理(なかにし・おさむ)
1958年愛知県西尾市生まれ。京都大学卒。演劇・舞踊批評。演劇情報誌「jamci」、フリーペーパー「PANPRESS」、AICT関西支部批評誌「ACT」などで演劇・舞踊批評を掲載。岡田利規(チェルフィッチュ)、三浦大輔(ポツドール)らをいち早く評価するなど小劇場演劇の批評眼に定評がある。演劇、ダンス、美術を取り上げるブログ「中西理の大阪日記」主宰。
・wonderlandサイト寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nakanishi-osamu/

【上演記録】
ミクニヤナイハラプロジェクトvol.3「青ノ鳥」
http://www.nibroll.com/
吉祥寺シアター(2007年9月21日-24日)

作・演出・振付:矢内原美邦

出演(あいうえお順)
足立智充
有坂大志
稲毛礼子
柴山美保
鈴木将一朗
高山玲子
長谷川寧
渕野修平
光瀬指絵
矢沢誠
山本圭祐

★ アフタートーク
21日ゲスト:河井克夫・小浜正寛(ボクデス)
22日ゲスト:佐々木敦/ナビゲーター:前田愛実
23日ゲスト:松本力・桜井圭介

公演スタッフ
映像:松本力、高橋啓祐
音楽:桜井圭介、スカンク
衣装:安食真(‡‡irishcream‡‡)
宣伝美術:石田直久
イラスト:河井克夫
舞台監督:鈴木康郎
照明:森規幸(balance,Inc.DESIGN)
音響:牛川紀政
制作:中村茜

主催:ミクニヤナイハラプロジェクト/財団法人武蔵野文化事業団
助成:アサヒビール芸術文化財団
協力:急な坂スタジオ STスポット
企画・制作:プリコグ
http://precog-jp.net/2007/07/vol3.html

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