連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第5回

 ペーター・ゲスナーさん(せんがわ劇場芸術監督)
◎演劇と町をつなぐ

 旧東ドイツ・ライプツィヒ出身のペーター・ゲスナーさんが、東京都調布市のせんがわ劇場芸術監督になって3年。市民中心の専属アンサンブル活動やユニークな自主企画などで、公共ホールの新しい試みとして注目されています。小劇場を地域の文化活動拠点としてきた狙いや成果をじっくりうかがいました。(編集部)


||| 1年の半分は自主企画公演

―この企画では、劇場法(仮称)の話題も出ている中、いろいろな劇場の運営方法や課題などについて、お話をうかがっています。こちらは、2008年にオープンされましたが、調布市せんがわ劇場ということで、市立の劇場ということですよね。

ペーター・ゲスナーさんゲスナー そうです、市の劇場。それはとても大事なことです。プライベートではなくて、NPOも入ってない。最初は、もっと大きな劇場みたいに、文化財団がクッションになるという可能性もあったらしいんです。でもここのホールは、120人くらいしかお客さんが入れない、割合に小さなところですから、調布市が直接やることになった。それで急に、ソフト面はどうすればいいかということで、私が呼ばれたんです。プログラムは、最初からかかわらないと、なかなか立ち上げられませんから。で、私には、1年の間に半年間は、自分のプロデュース、自分の製作で作品を作ろうという願いがあったんです。

―劇場の予算や、働いていらっしゃる方の人数などを教えていただけますか。

ゲスナー 予算は割合に少ないです。大きい額に聞こえるかもしれないですけど、半年間は貸し小屋にしているので、残り半年間の事業で1500万円(チケット売上を除く)くらい。それでプログラムを作るというのは、マジックみたいなもんです。普通はできない。プライベートな活動なら、ボランティアで頼むこともできるんですけど、みんなにきちんとお金を払わないといけないから、基本的に無理です。
 オープン当時は、公務員と嘱託が3人ずつの6人が働いていました。ここには事務所も2つあるんですけど、狭くて3人くらいしか働けないスペースなんです。その人数で、オープニングのイベントを2か月間やったんです。それを見て、調布市が大変さを少しわかってくれ、嘱託を2倍の6人にしてくれました。今働いているのは、その9人+東京舞台の技術家2人。東京舞台は照明会社ですけど、その2人は照明だけでなく、音響と舞台監督も含めてやってくれています。それ以外は私。でも私は桐朋学園芸術短期大学の准教授でもあります。ボランティアではないですけど、みんなの中で、もらうお金は一番少ない(笑)。少ない報酬で今までずっとやってたんです。

―予算の1500万円というのには、人件費は入ってないんですか。

ゲスナー ここを運営・管理する予算は別にあるんですよ。この1500万円はイベントを作るためのもの。いずれにしても、調布市の税金から出てるお金ですね。最初のうちはほかの助成金も多少ついたのですが、それにしても2000万円以内でやらないといけないんです。で、結果的にどうなったかというと、市から見てもやりすぎちゃった(笑)というくらいで。

―やりすぎたっていうのは、予算を超過したということですか。

ゲスナー No、全然。予算をオーバーしたことは1回もないです。仕事をやり過ぎちゃった。夜10時以降まで働かないと間に合わないといった状況があったり。最初の頃、みんなすごく忙しくなって、これはやっぱり減らさないといけないということで、3年間でだんだん減らしました。
 嘱託は、募集も働き方も、難しい問題があってね。本当にプロとして働いているような嘱託を集めるのは簡単じゃなかった。それほどの報酬も出せないですしね。また、働けるのが1か月に16日くらい。だから「その担当は今どこにいるんですか?」「今日は来ません」とかね。作品を作る時は、それじゃあ困るじゃないですか。そういう厳しい状況でしたけど、安藤忠雄の造った立派な建物もあるし、ホールも小さいけどいいものだし、照明も新しいし、何もないよりよっぽどいいですね。そういう楽観的な見方をしてきました。
 そしてちょっとずるくてね。はじめにたくさんのことをやらないと、後からはなかなか増やせない。だいたい、最初の年は割合お金があるんです。先に行くほど、減らされる。だから将来を考えながら、これもこれもこれもやって、何が残るだろうか? くらいな感じで。それもあって、やり過ぎちゃったんですね。

―半年がプロデュース公演で、あと半年がいわゆる貸し小屋ということでしょうか。割合は半々ですか。

ゲスナー きっかり半年ごとに分けているわけではなくて、時期は重なったりしていますが、割合はそんな感じですね。

||| 市民と一緒に演劇を

―芸術監督の仕事を依頼された経緯をうかがえますか。地元の桐朋学園で教えていらしたからということでしょうか。

ゲスナー 実は、市は最初に蜷川幸雄さんにやってくれ、と頼んだらしいです。蜷川さんはその時、桐朋の学長で、忙しすぎてできない。それで桐朋のほかの誰かということで、私が選ばれたようですね。他にもいろいろあるけど、まあ、あんまり詳しくは…。

―もともとはドイツで演劇をしていらして、奥さんの関係で来日されて北九州で活動、その後こちらに来られたんですよね。

ゲスナー そうですね。北九州に行った時は、ゼロから自分の劇団「うずめ劇場」を立ち上げました。5、6年やった頃、第1回利賀演出家コンクールで最優秀演出家賞をとった。2000年のことです。それで認めてもらい、急に助成金がいろんなとこから出て、劇団で国内各地や外国も回りました。そして桐朋学園から、来てもらえないかという依頼があったんです。
 で、私は北九州でも、街づくり―演劇と街をつなぐというコンセプトは、もっていたんですね。神社や寺、学校、ホテルの前など、あちこちで演劇をやってました。2年前には、北九州市から呼ばれてね。小倉に紫川というすごく大きな川があるんですけど、そこに野外ステージを造って、地域の人たちと演劇をやりました。だから、地域で働くとか、そこの人たちのために何かするのは、確かに私にとても合ってたんですね。
 私もかかわっていた北九州芸術劇場は、今もとてもがんばっています。この劇場ができる前、地元にはたくさんの劇団があったんです。でも、劇場がオープンしたら、東京から大勢の人たちが来て、そこで働く人たちも、東京の人間がとても多かったですね。つまり、北九州でずっとがんばってきた人たちが、あんまりそこで働けなかった。その人たちは、あまりいい気持ちはしなかった、という問題がありました。ただ、劇場をきちんと機能させたいと思ったら、そして予算もあったら、東京から、経験者やプロを呼びたいという気持ちもわかるんですけどね。あそこは大きいから、あのやり方でいいかもしれないんですけど。私はいつも、もっと市民と一緒に働く、一緒に作る方向でできないかなと、ずっと思ってたんですね。

―こちらの芸術監督として、まず考えられたことは何ですか。

ゲスナー ここはすごく小さい劇場で、予算も少ない。じゃあ、専属劇団―せんがわ劇場アンサンブルを作らないといけない、それしかないと考えました。で、ここに、アンサンブルのメンバーが集まった。素人もいるし、そうじゃない人もいるけど、ここでゼロから演劇を立ち上げようという意欲のある人たち。できるだけ調布市の人たち。調布市在住じゃない人もいますけど、交通費を払えないんですよね。それに100%ボランティアというのも失礼だなあと思ってました。
 それで最初は、調布市は税金から予算を出すんだから、チケット代は全部そのまま、市に返さないといけないという考えだったんですね。それに対しては「それは絶対ダメです、ありえない」と主張しました。チケットを売るのに、みんながんばるわけですから。収益を、違うところに使うのではなくて、ここに残す方法を見つけないといけない。そうするためには、クッションが必要かな、ということで、実行委員会を作りました。実行委員には、白百合女子大と桐朋学園の先生1人ずつと、商店街の人たちが、合わせて9人くらい。年に4、5回集まって話し合います。で、チケット代を残すことができるようになり、アンサンブルのメンバーに、少しだけどギャラを払えました。

―うずめ劇場の方が、お手伝いなさったりもするんですか。

ゲスナー うずめの人は3人いて、1人は役者で、1人は役者兼アンサンブルスタッフ、1人は嘱託ですね。その彼女が嘱託になってくれることは、私の願いだったんですけど、一般の募集に応募して、結局選ばれました。私は外国人だし、ちょっと心細いから、私のことをよく知ってる人が、1人はそばにいてくれればいいなあと。それ以前に一緒にやっていて、自分を理解してくれる人がいてくれることは、たぶんどんな芸術監督にも必要だと思いますよ。
続く>>


「連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第5回」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: yasu sato
  2. ピンバック: J. Nishimoto

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