連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第5回

||| 芸術監督にはプロデューサーのセンスも

―先ほど、芸術監督とプロデューサーというお話が出ましたが、それについてもう少しうかがえますか。

ゲスナー 運営検討委員会としては、ここには来年以降、芸術監督を立てないで、代わりに音楽プロデューサーと演劇プロデューサーかコーディネーターを入れたいみたいですね。私も委員会のメンバーとして大分議論しているのですけど、それを絶対ダメとは言いません。でも結局、お金がなくて、複数の人にきちんと支払うことができないから、どの分野も全部見られる人―ゼネラルプロデューサーが必要なんです。だからといって、その人のフルタイム分が払えるかと言うと、それも無理かもしれない。そのへんは今後の大きな課題になるでしょうね。
 たとえば、このちっちゃな劇場で上演したばかりの「オンディーヌ」でも、参加者は、受付から演技者まで全部入れて60人くらいです。その60人の人たちに、自分はメンバーの一員だ、みんなで一緒にやっているんだという気持ちにさせることは、私にはできても、プロデューサーにはなかなかできません。なぜなら、私は演出家として毎日稽古場にいて、みんなといつも話せますが、この後のシステムでは、プロデューサーは毎日来られないから、同じことはできない。ここの嘱託の制作の担当者は、仕事が多いですから、ほとんど稽古に来られない。私にあまりよくない状況です。芸術監督がいなければ、芸術家の立場で働ける人がいなければ、劇場全体がすぐに公務員風の働き方になる。やっぱり、演劇人とそうでない人の間には大きなギャップがあります。その意味では、私は演劇人の芸術監督という方が大きなメリットがあると思います。

せんがわ劇場
【写真は、せんがわ劇場の入口。撮影=宮武葉子 禁無断転載】

 もちろん、プロデューサーと芸術監督が一緒に働くのがベストではあります。結局実現しなかったのですが、最初の頃に考えていたのは、芸術監督とプロデューサーの両方が揃う、ということでした。私のような芸術監督の隣に、上田さんのようなプロデューサーがいれば、調布市は安心していていい(笑)。平田オリザさんは、それだけではなくて、芸術監督とテクニカル・ディレクターと経済面でのプロデューサーが必要で、それを法律で定めたいと言っていると私は理解しています。私は経済面の担当は、公務員の人がやってもいいと思うのです。芸術監督ときちんとしたプロデューサー、この2人はいるべきだというのが、私の経験から得た考えです。さらに、ちゃんとしたテクニカルの人がいたら、すごいですけどね。
 私はここで芸術監督という肩書きですけれど、半分、いや75%くらいはプロデューサーとして働いたといってもいいくらい。プロデューサーのセンスを持った芸術家でないと、おそらく平田さんのいう芸術監督はできません。自分のことだけをやりたい人が芸術監督になったら、たぶん大失敗です。

―先に、ここではゲスナーさんが一番安い報酬でやっていらっしゃるとお聞きして、驚きました。芸術監督に充分な報酬があれば、いいものが作られると思うのですが、日本ではそういう発想がないのでしょうか、それとも、予算がないから、この安い報酬でやってくださいというのでしょうか。

ゲスナー そのへんはわかりません。でも、だから平田さんは、私のことをあまり例に使わないのかもしれませんね。少なすぎる報酬で頑張りすぎている、犠牲的にやり過ぎているとかね(笑)。こんなに少ない報酬で、こんなに立派なことができるということになってしまうというデメリットもあるかもしれません。

―具体的な金額も、お聞きしてもよろしいでしょうか。

ゲスナー 額は月に10万円。正確には9万4000いくらかです。最初からそう提示され、それでもやりますと私は言いました。途中、もうちょっと増やしてくれないかと言ったのですが、ずーっとそのまま。もちろん、演出をすると演出家として別に報酬が出ます。でも、演出家としても、私は外の基準より安いです。

―アルバイトのような金額ですね。他のところの芸術監督と比べるとどうなんでしょう。破格に安いということはありますか。

ゲスナー 平田さんがキラリ☆ふじみの芸術監督になった時は、あまりいっぱいもらってないと聞いたことがある。アドバイザー的な存在ですけどね。私とは、働く量が違うと思います。私は桐朋学園の教師ですから、すごく貧乏というわけではありませんよ(笑)。それで、ここにずっと毎日来ることはできません。契約では週に8時間くらい。しかし結局、それでは終わりません。芝居を作っている時は毎日来ますし、そうじゃない時も、いっぱいやることがある。アンサンブルでも、いろいろ問題が出るんです。裁判もありました。関係していた人が腰痛になって、調布市に賠償金を求める裁判を起こして、私にも請求が来ました。人間がやっていますから、さまざまなことが起きる可能性があるんですね。
 この報酬でこの活動はあり得ないと、私も思っていますが、理想を持って働くということでやってきたんですよ。外国人として、日本の劇場の芸術監督になったという責任もすごく感じていましたし。外国人にも、韓国人をはじめとして、才能のある人たちはたくさんいます。その人たちに、今後ここで芸術監督をやってもらうという可能性もあります。
 日本はこれまでもこれからも島国ですから、ヨーロッパのように、外国人に対する特別な感情がなくなるというわけにはいかないと思います。でも、各地の地方都市の劇場が、貸し館だけでは物足りない、もっと何かやりたいとなったら、芸術監督をやれる人はそんなにたくさんはいないし、そんなに多額の報酬を払えないとなると、日本人だけでは間に合わないということもあるでしょう? その時に、外国人を使うという方法も考慮に入れてほしいと思いますね。日本ではまだ、外国人がこういう立場には立つことはあまりないけれど、ドイツでは、外国人が劇場で人をリードする立場に立つことは、そう特別なことでもないんですよ。

||| 演劇は社会のどこで必要?

―日本と違って、ドイツでは公のお金が、劇場に非常に多く注ぎ込まれていて、演劇というものが国のお金によって成立している面があるとよく言われますね。

ゲスナー そうですね、日本とは全然違います。演劇に携わる人は、みんなちゃんと毎月報酬をもらえますから。それと、働く人数もまったく違います。このくらいの規模の劇場なら、必ず50人以上が働いていますね。門番、警備員さんまで入れて。それが、システムとして長く続いています。今ドイツでも、それはやりすぎではないか、この町とこの町の劇場は一緒にできないか、といった意見も出てきています。節約の時代ですから。でもやはり、レベルは全然違います。といっても、ドイツやオーストリアやスイスのようなシステムが世界中どこにでもあるわけではありません。フランスやイギリスではそれに近いものがありますし、ロシアもがんばっていますけどね。
 日本は、ヨーロッパと同じようなレベルですよね。つまり、私たちの国はモダンな「ビン・ラディン大嫌い政策」(笑)をとっています。みんなひとりひとり孤立している。その方が物が、たとえばテレビもPCも売れますからね。でも、社会としては大変な状況ですよね。そこでは、何が、人間関係や人間らしい振舞いを大事にするのでしょうか?
 スポーツはそれに該当するひとつかもしれませんが、勝つか負けるかだけで、結果がはっきりし過ぎています。演劇は、歴史が始まった頃から、今、何が必要かあるいは足りないかを考えさせたり、忘れたことを思い出させる役割を担ってきました。そういうことが今の時代に必要だから、平田さんのような人もいるし、私もここでやっています。ですから日本でも、演劇に公のお金をかけるべきだとは思いますけどね。

―演劇と社会の関係ということが出てきましたが、もう少しうかがえますか。

ゲスナー 蜷川幸雄や鈴木忠志が演劇を始めた頃は、安保闘争もあり、革命の時代でしたよね。あの人たちは今、演劇の世界では神様です。蜷川は認められているし、鈴木も経済面で恵まれている。でも、その後の世代、たとえば鴻上尚史や亡くなったつかこうへいなんかはどうでしょうか? すごくがんばったのに、社会からまったく認められていない。太田省吾は、京都で大学の先生にもなりましたから、何とか評価されたのかもしれませんが。
 今の時代、演劇は社会の中のどこで必要とされているでしょうか? 大事にされているのは、平田オリザと宮城聰くらいじゃないでしょうか。今、演劇人は、われわれは社会の中で大事な存在ですよ、と主張しなくてはならない時代ではないでしょうか?
 ドイツでは300年前に、ゲーテやシラーがやったことです。ナショナルシアターを作る運動をするなどしてね。日本の演劇人の大きな病気は、社会からなかなか認められないというコンプレックスだと感じていますが、私は、それを少しでもなくすために働きたかったんです。
 ここで今井雅之が「THE WINDS OF GOD―零のかなたへ―」という公演を行ってくれました。神風特攻隊を扱った特別な作品ですね。歴史のタブーに踏み込み、左翼的な考えの人からは、右翼的だと言われますけど、すばらしい作品だと思います。私と同じくらいの年の彼は、もう20年以上もこの芝居をやっています。
 彼には、学校では歴史をはっきり教えないから、あなたの作品はとても意味があると思うと伝え、その演出で、若い人たちがやれないかと提案しました。この芝居をやるのは、身体が大変なんですよ。彼はちょっと考えてから引き受けてくれ、1か月半の間ここに来て、オーディションで選んだ8人と、毎日10km走ってから軍隊的なトレーニングを3時間やりました。みんなすごい身体になりましたよ。日本もドイツと同じで、戦争については恥ずかしい歴史が多いですね。でも、そのことを無視するのではなく、それを踏まえた上で日本のプライドを認め大事にする、それがこの芝居のいいところだと私は思っています。ほかに、私が演出した「愛ってなに?」という芝居があります。ドイツで、もう35年間も毎年上演している芝居です。男と女がはじめて出会う頃の、ファーストキス、はじめてのセックスって何? みたいなね。ジェームス三木とコラボレートし、彼に翻訳してもらいました。これもタブーに関する芝居ですね。石原慎太郎都知事は、そういうことは学校で教えなくていいと言ってますが、それは認められない。それは、いわば街づくりですね。社会として必要な、やらなくてはならないこと。

―今の日本の演劇には、社会的なテーマを取り上げるというような、社会的な側面が欠けているというお考えですか?

ゲスナー いいえ、演劇の中で社会的なことを扱うことは多いと思うんです。でなければ、何をやるんですか? 特に小劇場ではね。
 たとえば、ドイツで人気あるポツドール。最近も、大きなフェスティバルに呼ばれてとても評判がよかった。ここのも社会的な作品ですが、ただ、せんがわ劇場では、裸のたくさん出てくる作品はなかなかできませんから、ポツドールは呼べません。私の演出した「ねずみ狩り」もね。「オンディーヌ」だって本来のやり方なら、胸も出すし、エロチックな場面もあるけれど、それはここではやれません。どこまでやれるか、私も3年間のうちにいろいろ経験しました。いいことをやりたいと思っても、やり過ぎてしまって観客の気持ちが離れてしまうとか、それはいつも微妙ですね。どこまでならやっていいか、どこからがやり過ぎか。それをうまく見つけるのはすごく難しいです。
 私が思うに、日本の演劇全体の中で、蜷川さんなんかは、自分たちの若い頃は、今と比べてもっと社会を考えていた、と絶対に言いそうです。確かにそうなのかもしれません。でもよく見ると、今でも演劇の人たちは、他の分野に比べたらずっと社会を考えています。無意識にしても社会を考えなくてはやれないのです。
続く>>

「連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第5回」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: yasu sato
  2. ピンバック: J. Nishimoto

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