連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第13回

||| 勝ち組負け組の仕分けを恐れる

-文化庁の審議会の状況は、裏でどういうふうになってるかは、よく分かりませんけど、形の上では着々と進んでます。論点が整理されて、一応、法律を作る前段のたたき台のようなものが公表されています。いったん行政の審議会に乗ると、何らかの形で結論が出る。法律案のようなものが出てくるのは間違いないでしょう。そうなると、やはり状況はガラッと違ってくる。少なくとも今まで議論された中身で言うと、全国で20~30くらいの拠点劇場と、もう少し規模の小さいところを決めて、あとは貸し館とか公共ホール、公民館とかの活動をやってくださいと、三段階に分けている。
 劇団が独自に活動して生活できるくらいの財政基盤を作るのは難しいから、劇場にそういうお金を投資して、その劇場が劇団に活動の場を与えるようなシステムを作る、というふうに進んできますよね。大石さんが先ほど提起されたように国立劇場を作って集中的に、道州制があっても対応できるような仕組みを作るのと、そういう現存のものをセレクトして予算を劇場にプールさせるような仕組みでは、メリット・デメリットがあるような気がします。その辺は、どういう判断するのでしょう。

大石時雄さん大石 指定管理者制度もそうだと思うんですけど、ある部分は悪法だと思いますけど、有効に作用してる部分もある。自然淘汰っていう意味でも、悪い膿がたくさん出た。割といい加減にやってきたところがいい加減じゃなくなったとか。まあ、悪法だろうが良法だろうが何かが出て転がれば、いい面と悪い面は必ず出てくる。それを学んで、よりいい方にもってくるのが人間の知恵でしょう。劇場法も作られたら困るとは必ずしも思わないんです。
 「劇場法ができても、うちは劇場もあるけど、集会所だから関係ないもんねー」って、いまはわざと言ってるんです。それは、地方都市に必要な公共文化施設は、どういう役割をこれから担うべきかと模索して実験してがんばっているのに、公共劇場はこうあるべきだとか芸術監督をおいて集団をもって作品を作っていくべきだ、とか言われる。「日本の舞台芸術を牽引する演劇作品を作っていくべきだ」という言葉が尊敬する人たちの口から出てくるわけです。
 ただ、そうすることによって、日本人特有の勝ち負け論になっていくのが許せないというか、それは阻止したいですよ。
 いまは北九州芸術劇場にいる津村卓さん(館長・チーフプロデューサー)と2人で、公立の文化施設として初めて、兵庫県伊丹市に舞台芸術専用のアイホールを立ち上げました。その時から津村さんは貸し館をばかにしちゃあいけないと言い続けてきました。ぼくは、彼の言葉をその後もずっと心に秘めています。世田谷パブリックシアターでは貸し館担当でしたし、可児市文化創造センターでも、貸し館を担当しなければその施設を知ることにはならないとすごく重視してきた。ここアリオスでもそうです。だけど貸し館事業をばかにする、勝てない地方の公共駐輪場がごとく言う論調があって、こっちが勝ち組あっちが負け組みと全部仕分けされる。劇場法ができて、拠点劇場を奪い取ったのが勝ち組で、そこの担当者は褒められる、負け組は左遷されるような状況が来ないでしょうか。それをすごく恐れます。
 だけど、できることで何かが起こるから、そのことを否定するものではない。まあ、どっちみち、法律ができてくるときは、政治家が官僚と政治的な文脈の中で作りがちで、日本の芸術文化政策の文脈で作られるかどうか分からない。政治的文脈・駆け引きの中で、何気なくピュッと法律が通ったとしても何かが起こるのだから、それはそれでいいかもしれないなとは思いますけどね。
 だから、私ならばちゃんと、明確に国の芸術文化政策として劇場を造ります、それは何のために造るかというと道州制に向かいます、それがわが党の考え方ですと提示すればいい。
 東北州の都が仙台になり、そこに劇場とコンサートホールを国立で造りましょう。そのためのお金が必要です、そのための法律ですと言えばいい。あとは地域を拠点として、小学校・老人ホームなどに音楽・演劇・ダンスなどのアーティストを連れて行って、国民生活を豊かにしていく。そういうことをきちんと示す。だから、東京など大都市の公共劇場と、いわきみたいな地方都市の公共文化施設のあり方はこうであるべきだということを絵で描いて、一遍に提示すればいいんですよ。
 そうすると、芸術に関係ない、興味ないという人たちでも、日本のこれからのあるべき姿、地方都市のあるべき姿を考えざるをえないでしょう。日本の人口の60%が東京・大阪・名古屋に集中しようとしている状況の中で、少子高齢化の進む地方自治体では、そうしないとホールだって劇場だって要らないという方向にいっちゃいます。震災をもっけの幸いとして、劇場はつぶれたんだから要らないとなってるし、切られていくばかりでしょう。そういうふうになるんじゃなくって、もう少し機能性と役割分担を、演劇なりクラシック音楽なり、劇場なり美術館なり、とにかくあらゆるものに対して、役に立つんだよということをきちんと具体的に見せないといけない。そうしないうちに、瑣末なところだけで論議してても、全体としていい劇場にならない、いい社会にならない、いい国にならないと思います。
 例えば「芸術はすばらしいですよ」って言ったって、「お前らは芸術やってるからそう言うんだろう」っていうふうになりませんか。やっぱり、芸術に興味がある人間も芸術以外の分野のことを、芸術に興味がない人間も芸術分野のことをきちっと対等に話し合えるような国にしていかなければ、原発の問題だろうが、何の問題だろうが、いい方向に解決していかないだろうと私は思うんです。

||| 「誘われ」続けていわきへ

-大石さんは、伊丹のアイホールの仕事が演劇のスタートでしたか。

大石 もともとは高校生のときに、いま劇団☆新感線座長のいのうえひでのりに演劇部に誘われたのが始まりです。大阪芸術大学にも彼に誘われて行きました。いのうえは在学中に劇団☆新感線を旗揚げ、私も1度だけ出演させていただきました。当時結婚したい女性がいましたので(笑)サラリーマンになると決めて、読売新聞社系の広告代理店にプランナーとして就職して働きました。2年間その会社にいたのですが、職場の先輩たちの話題が会社の愚痴か、奥さんや子供の話ばかりだったので、自分もこのままそうなってしまうのが見えてしまって、それでまあ、辞表を出しました。でも、会社を辞めた本当の理由は、結婚しようと約束をしていた女性に、捨てられたからです(笑)。じゃあ、結婚するために会社勤めをしていたのだから、結婚しないのなら好きな道を進むか、と。それが1984年の末です。大阪の扇町ミュージアムスクエア、近鉄劇場小劇場のオープンが1985年。仕事を辞めて正月に実家に帰っていたら、大阪で演劇プロデューサーだった方から電話がかかってきて「近鉄劇場がオープンするから手伝ってくんない」なんて言われて、何となくこの仕事を始めたわけです。
 劇団☆新感線はそのころ、それまで上演してきたつかこうへいさんの作品を止めたとたん、動員が2800人からいきなり400人に激減。借金ばかりが膨らんでいたので、それはまずいよ、ということになって、私が設立した会社が劇団☆新感線のマネジメントもするようになったのです。劇団☆新感線を手伝いながら、扇町ミュージアムスクエアや近鉄劇場に来る東京の劇団の制作を引き受けるようになった。
 2年後の1987年に伊丹アイホールの話が立ち上がって、当時扇町ミュージアムスクエアの支配人だった津村卓さんが「大石、手伝え」って言われて一瞬で決めてしまった。
 その後、劇団☆新感線の東京進出をある程度成功させたんですが、身体を壊して入院してしまいました。そのとき高萩宏さん(現在、東京芸術劇場副館長)がアメリカ留学から帰って来て、グローブ座の支配人に決まった。部下がほしかったんでしょうね。誘われたのでグローブ座に入った。「子供のためのシェイクスピア」っていまも続いていますが、山崎清介さんに演出を頼んだのは私なんですよ。私があの企画の制作担当でしたから。ところがグローブ座の経営がうまくいかなくなって困っていたら、新国立劇場と世田谷パブリックシアターの運営に参加しないか、と支配人の高萩宏さんに声がかかったんですよ。
 それで、高萩さんが私を含む当時の制作チームを連れて世田谷に行くことになりました。5年たって佐藤信さんが世田谷パブリックシアターの劇場監督を辞めることになって、私も辞めることにしたんですが、ちょうどそのとき、当時世田谷パブリックシアターの技術課長だった桑谷哲男さんが岐阜県の可児市文化創造センターに館長として行くことになり、なぜか私も一緒に可児市に行くことになった。流れ流れての人生ですね(笑)。
 だから、自分で物事を考えて決めたことはひとつもない。演劇を始めたのはいのうえに誘われて、大阪芸大に進学したのもそう。まあ、自分で決めたのは会社を辞めたことだけですかね。東京に出たのは高萩さんに誘われて、信さんに誘われて高萩さんと一緒に世田谷に行って、桑谷さんに誘われて可児に行って、また信さんに誘われていわきに関わることになった。

-いわきに関わるようになったいきさつは。

大石 もともとアリオスは、佐藤信さんが設計コンセプトをつくるのを引き受けて、照明、音響、舞台機構などハードに関しては世田谷パブリックシアターの優秀な人たちが協力しました。ソフト面は大石がいいだろうと電話がかかってきて手伝うことになったんです。
 2002年の7月に可児市文化創造センターをオープンさせて、その翌年3月に信さんから電話があって、4月にはいわき市の担当者と東京で会いました。いわき市の担当の方と、新しい文化交流施設の組織や人選までいろいろ考えていく中で、自分はそこには行かないという前提で物事を進めていました。ところが可児の方でいろいろあって、桑谷さんが退任され、後任の館長が衛紀生さんに変わることになった。そこで辞めることになった。そういう事情でいわきに来たわけです。伊丹が5年、世田谷が5年、可児が5年、いわきは今年いっぱいで5年になります。

-高萩さんとはどこで知り合ったんですか。

大石 高萩さんとは、1985年に近鉄劇場・小劇場がオープンしたときに知り合いました。近鉄小劇場は、石橋蓮司さんの劇団第七病棟「ビニールの城」公演でオープンして、そのあと劇団青い鳥や渡辺えり(当時は渡辺えり子)さんの劇団3○○などが毎年大阪に来てくれるようになり、近鉄劇場は、鴻上尚史さんの第三舞台や野田秀樹さんの夢の遊眠社なんかが来たんですが、そういう劇団の現地制作、つまり大阪でポスターを貼ったりチラシをまいたり、当日のケータリングの面倒を見たり打ち上げの場所をみつけたりしてたのが私の立ち上げた会社でした。高萩さんはそのとき夢の遊眠社のプロデューサーだった。それで何回か一緒に仕事してたので、それ以来の付き合いです。(>>


「連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第13回」への10件のフィードバック

  1. ピンバック: 川口聡 (川口総司)
  2. ピンバック: 森忠治 chuji,MORI
  3. ピンバック: 平松隆之
  4. ピンバック: 川口聡 (川口総司)
  5. ピンバック: DoukeshiBot
  6. ピンバック: kawamuraTomomi
  7. ピンバック: Ima_iwaki
  8. ピンバック: 高野しのぶ
  9. ピンバック: seri kurosawa

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください