◎歩行の底に潜む根元的なリズムと時間
竹重伸一
私は舞台芸術には社会に対する思想的な批評性と美的強度が必要だと思う。どちらかならば備えている舞台を時折散見するが、両方となると極めて稀である。その両方を兼ね備えている「グラン・ヴァカンス」は私にとって今年日本で上演されたコンテンポラリーダンスで最も大きな収穫の一つであり、日本のコンテンポラリーダンスの真のオリジナリティーを示すものとして海外ツアーなども望みたい所だ。
この舞台には原作がある。2002年に刊行された、現代日本SFを代表する飛浩隆の唯一の長篇「グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ」である。物語の舞台は南欧の港町を模した仮想リゾート<数値海岸>の一区画<夏の区界>。そこでゲストである人間の訪問が途絶えてから1000年、取り残されて永遠に続く夏を過ごしていたAIたちが突然街のすべてを無化しようとする謎の存在ランゴーニに率いられた<蜘蛛>の大群に襲われる。その内わずかに生き残って<鉱泉ホテル>に立てこもったAIたちの絶望にみちた一夜の攻防戦が描かれている。大橋は3・11以降現実と立ち向かうためにはフィクションの力が有効だと感じていた所にこの小説に出会い、土方巽の舞踏譜のようにこのテキストをベースにダンスの振付をしようと思い至ったらしい。
特に振付として素晴らしく、この舞台全体の要となっているのが「無人の廊下を歩く者」と題された第3幕である。原作ではフェリックスという仕立屋のAIがホテルのいつ尽きるともない無人の廊下を回想しながら一人で歩いている内に、埃のような蜘蛛に身体と精神を糸をほぐすように残らず捲き取られてしまうという僅か5ページ半程のシーンである。この部分を大橋はダンサー16人全員の40分弱の群舞としてダンス化した。
規則的な低音が響く中、身体中の関節を歪ませて踊り続けたダンサー達はラストの一時、横一列に並んで観客をしっかり見つめながら両手をゆっくり振って歩く。この瞬間私が感じた戦慄は、後から思えば舞台鑑賞後に読んだ原作で描写されているフェリックスの「ひょこひょこと歩くリズム」が見事に舞台化されたという驚き、歩行というごく単純な行為の底に生命の根元的なリズム・時間が潜んでいることが暴き出されたという驚きであったのだ。
つまり身体という物質とその運動を通じてそれらを貫いている「無限」なるものの存在、言い換えれば「時間の直接的現前」を束の間感じさせてくれたのである。ここで重要なのはフェリックスが「回想しながら」歩いているという点で、歩行という現在時に属する行為の中に過去の記憶が噴出することによって、時間は現在時の呪縛から解放され、身体に潜む過去の時間が重なって時間そのものの深みを顕わにする。そしてラストで舞台上手上のスクリーンにも引用されていたが、原作に「ランゴーニがフェリックスのすべてを洗いざらい持ち去った後も、その廊下の閉ざされた歩幅の中で、ひょこひょこというリズムだけがしばらく拍動していた。」とあるようにその時間は人類誕生に先行し、人類が滅亡した後も存続している宇宙の根元的な時間なのである。そして同時に忘れてはならないのは「時間の直接的現前」はダンサーの肉体の変容=メタモルフォーゼを伴うということである。この幕の始めに横一列に並んで現れたダンサーたちの肉体は幕の最後に再び横一列に並んで歩き始めた時には既に肉体の質が変容してしまっているのだ。この第3幕以外にも第2幕「苦痛の記憶」の中の4人のステラが便器で自慰に耽るシーンなど、この舞台での大橋は肉体のメタモルフォーゼにかなりの注意を払った振付を行っている。これは大橋の作品では初めて感じたことで、彼が原作から最も刺激を受けたのがこの肉体がメタモルフォーゼする感覚だったということがよく分かる。
しかし原作と舞台全体の印象はかなり異なったものだ。原作はAIたちが登場人物のSF小説の体裁を取っているが、実は主人公の少年ジュール・タピーを中心とした生々しい人間ドラマともいうべきものが強く印象に残る、最後にはどこかヒューマンな希望を感じさせるファンタジックな物語である。それに対して舞台の方はというと、登場人物の役柄とダンサーが一対一で対応していないために人間ドラマという面は希薄になり、ダンサーはよりAI的で、全体から受ける印象は終末論の色濃いものだ。そしてその終末に導いて行くものこそ第3 幕の歩行で表現された宇宙の根元的なリズム・時間なのである。これは原作の拡大解釈と言っても良いものだが、この拡大解釈は原作より舞台を魅力的にしていると思う。原作を現代の寓話として読むことは不可能だが、舞台の方は可能だし、私はそう読みたい。
【写真は、いずれも「グラン・ヴァカンス」公演から。撮影=GO 提供=大橋可也&ダンサーズ 禁無断転載】
そうすると原作で終末を迎えたのは仮想リゾート<夏の区界>であったが、舞台では現代社会そのものに見えて来る。AIに擬せられたダンサーたちは反転して、現代人の自画像になる。考えてみればこのあまりに高度にシステム化された資本主義社会に生きる我々は一見日々自由に選択して生きているように見えて、実はあらかじめプログラム化された指令に従って生きているだけなのかもしれないのである。それは宇宙の根元的なリズムからはあまりにも掛け離れてしまって既に限界を迎えているのではないだろうか?
そしてもう一つ原作との違いで重要なのは、舞台では野澤健が四つん這いになって演じたスウシーという名の兎の扱いである。原作では無残にも殺されて丸ごと煮られてしまうスウシーは、舞台ではAIたちがジュールと老ジュール以外全員殺された廃墟を唯一生き残って舞台を這い回る存在として描かれている。それは私には大橋が「人間」の枠外にいるスウシーの存在に未来へのかすかな希望を託したように感じられた。
つまりこの舞台で最終的に大きくせり上がってきたのは唯物論的な神=自然である。原作は「罪」というテーマも扱っていてランゴーニの存在は悪魔のようでもあり、むしろキリスト教に近しいものを感じさせるだけにこれは大橋独自の世界観と言って良いだろう。大橋可也&ダンサーズの作品でも「帝国、エアリアル」までは個々のダンサーの横の繋がりが徹底的に分断されていた分、ダンサーの踊りは不在の垂直的・超越的な神(それはしばしば演出的に振付家としての大橋自身の存在と重ね合わされていた)への絶望的な呼びかけのように感じられた。だがそうした超越的な神への呼びかけは最早この舞台からは消えている。この世界観の変化により可能になったこの舞台の群舞の振付の濃密さ・緻密さを十分に堪能しながらも、以前にあった垂直的な緊張感の希薄化に物足りなさを感じている私がいるのも事実である。
2008年にこのワンダーランドに書いた「明晰の鎖」公演の評で私は大橋可也&ダンサーズ作品の二つの特徴を記した。(註)その内二つ目の「ダンサーの特権的な技術を否定し日常的な身振りを取り入れている」という点はこの作品でも依然貫かれていると思うが、一つ目の「個々のダンサー間の絶対的な距離とディスコミュニケーション」という点では明らかに変化が見られるように思う。この方向での頂点は前述した同年末の「帝国、エアリアル」であろう。14人のダンサーの肉体が残酷なまでに分断されたまま舞台上に孤独に屹立する姿は圧倒的で、現代社会で人間の肉体が曝されている仮借ないリアリティーを鋭く描き出すことに成功していた。それは群舞といってもユニゾンなどはなく、舞台上に提示されていたのは「ダンス」というものから決定的に離れた「肉体の存在学」であった。しかしこの作品は傑作ではあったが、同時に作品としてこれ以上先に進めない袋小路でもあったと思う。実際大橋可也はこれ以後微妙に舵の方向を変え始めた。「コミュニケーション」と「メタモルフォーゼ」、そしてより「ダンス」する方向へと。その変化の流れの一先ず行き着いた先がこの「グラン・ヴァカンス」ということになるだろう。結果この舞台は最早「普通の」振付作品として観られるものに創り上げられている。
最後に牛川紀政の音響と大谷能生、伊藤匠、舩橋陽のライブ演奏が振付の潜在的な意味を見事に浮かび上がらせていたことを付け加えておきたい。特に第2幕「苦痛の記憶」のアナーキーなフリージャズと第3幕全編。牛川の音が舞台の骨組みとなるデッサンを精緻に描いていたとすれば、3人のライブ演奏は色彩、それもダンサーたちの踊りには欠けている原色に近い色彩で舞台を艶やかなものにしていた。
(註)竹重伸一「消費社会と明晰さへの抵抗 慎重かつ根底的なアプローチで」(大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」)
【筆者略歴】
竹重伸一(たけしげ・しんいち)
1965年生まれ。舞踊批評。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『音楽舞踊新聞』『シアターアーツ』等に寄稿。また美学校などのダンス関連の企画にも参加。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takeshige-shinichi/
【上演記録】
大橋可也&ダンサーズ「グラン・ヴァカンス」−飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ』(早川書房)より−
シアタートラム(2013年7月5日-7日)
振付・構成・演出:大橋可也
音楽:大谷能生、伊藤匠、舩橋陽
ドラマトゥルク:長島確
クリティカルアドバイザー:佐々木敦
出演:皆木正純、古舘奈津子、とまるながこ、山田歩、唐鎌将仁、平川恵里彩、檀上真帆、後藤ゆう、山本晴歌、阿部遥、野澤健、後藤海春、三浦翔、中山貴雄、香取直登、玉井勝教
映像:石塚俊
舞台美術:大津英輔+鴉屋
衣装:ROCCA WORKS
照明:遠藤清敏(ライトシップ)
音響:牛川紀政
舞台監督:原口佳子(モリブデン)
振付助手:横山八枝子
演技指導協力:兵藤公美(青年団)
写真:GO
制作・デザイン:voids
[ポスト・パフォーマンス・トーク]
7/7(日)14:00の公演終了後
出演:飛浩隆(『グラン・ヴァカンス』原作者)、佐々木敦(批評家・早稲田大学教授)、大橋可也
[チケット料金]
一般:3500 円 U19(19歳以下):2000円、U29(29歳以下):3000円
主催:一般社団法人大橋可也&ダンサーズ
提携:公益財団法人せたがや文化財団・世田谷パブリックシアター
後援:世田谷区
助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)
協力:公益財団法人セゾン文化財団、株式会社早川書房