マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」

◎食卓は待っているか?
(座談会)林カヲル+藤倉秀彦+麦野雪+大泉尚子

「わかりやすさ」をめぐって

藤倉秀彦:6月に上演されたマームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」。本題に入る前に、この作品の大まかなアウトラインを説明します。舞台は海辺の小さな町で、中心となる登場人物は、長女、長男、次女の三人。ある夏、長女と次女がそれぞれの娘を連れ、長男がひとり暮らす実家を訪れる。集まったひとびとは卓袱台をかこみ、食事をするわけですが、三人きょうだいの思い出の場であるその家は、区画整理によって取り壊されることが決まっているんですね。 物語のなかでは、二十年前(長女の離郷)、十六年前(父の死)、十五年前(父の死の一年後)、現在という四つの時間軸が交錯します(エピローグ的な「一年後」「二年後」の場面もありますが)。お馴染みの「リフレイン」の手法で舞台上に断片的・反復的に描き出されていくのは、三人きょうだいのそれぞれの過去と現在であり、失われてしまったもの、失われゆくものへの哀惜の思いです。そして、家の中心につねに存在するのは、彼らの「帰るべき場所」の象徴とも言うべき食卓だった…という、まあそういう感じの話ですね。細かい話はあとまわしにするとして、全体の印象はどうでした?

麦野雪:「ほどよい」ことによって一般に受け入れられるし、落ち着いて見ていられる。ストーリー的にはごくごく普通の話なので、より多くの観客を獲得するんだろうな、という印象はしたんですけど、でも、その分なくなったものが大きかったような気がするんですね。たとえば、すごく暗いものとか、執念みたいなもの、過剰なもの、というのがほどほどの演技、ほどほどの作り方というのによって、失われているのではないか。それが残念。

林カヲル:わたしも、わかりやすくなった、と思いましたね。台詞もこんなにわかりやすくていいのか、あるいは藤田貴大さんが自分の思いを登場人物にそのまま託しているように思えてならないところがたくさんあって、率直と言えば率直なんですけれど、こんなに無防備に言ってしまっていいのか、っていうのがね…。そこに率直であることのよさもあるんですけど、作品としての厚みに欠けるところもある、と思いました。それと、台詞だけじゃなくて、動きが、前はいろんな奇妙な動きというか、ある種ダンス的な、あまりお話とは直接つながってこないような動きが、台詞と並行して進んでいくところに面白さがあったと思うんですけど、それがほとんどなくなって、普通に動いて普通にしゃべっている、と。あのへんも以前のほうが面白かったなあ、というところですね。

【写真は、奥左から林カヲルさん、麦野雪さん、手前左から藤倉秀彦さん、大泉尚子(編集部) 撮影:ワンダーランド 禁無断転載】

藤倉:「わかりやすさ」という問題ですけど、たとえば『Kと真夜中のほとりで』はある意味、わかんない部分がずっと最後まで残されているわけですよね。なんでKという女の子が自殺しちゃったのか、とか。まあ、間接的な暗示みたいなものはあるんですけれど。結局、わかんないことが重要だ、という話でもあったような気がするんです。そういう、いい意味でのわからなさ、というのが、今回はなくなってしまって…。まあ、わかりやすくなったけれど、わからなさが持つ面白さが、目減りしてしまったのかな、と。

麦野:乞局(こつぼね)のことを思い出したんですけど、初期の乞局は、裏で進行していることや、隠された世界観の厚みと怖さというのが、ちょっとずつ舞台に現れてくる。比較できるかどうかはわからないけど、いままでのマームとジプシーは心情的な過剰性が、演技のうえの過剰性と重なって、心の水面下の部分を感じさせた。しかも物語もよくわからない部分があった。そのあたりが整理されすぎちゃっている気がしますね。

:今回の作品の後半は『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト』を再構成して取り込んでいますけれど、その時の卓袱台が全体を通して出てくるんですね。舞台の中央に卓袱台があって、それを乗せた盆がぐるぐる回る。

麦野:同心円。

:そうですね。食卓は待っているか、という台詞が繰り返されますけれど、それは具体的にいえば卓袱台なんです。藤田さんの作品はいつも漠然と現代の話だと思って見ていますが、卓袱台は明らかにちょっと昔、という記号性を持っている。この作品では電話も携帯ではなく固定電話です。『通過』もそうだったのかな。なんだか『サザエさん』みたいですが、たとえば服装がそういう時代性を示さない、性別もはっきりしていないようなものであるのに対して、食卓が卓袱台なのが気になります。
 あとは、卓袱台だと、中国料理店の円卓と同じで主人の座る場所が特になくて、あの場合も、あの家を守っているのは長男なんですけど、ああいう座り方をすると、長男の特権性というのがまったく出てこない。しかも卓袱台がまわるから、さらにいっそう長男―次女みたいな関係とか、親と子供みたいな序列もなくなってしまう。それに俳優の実年齢がそんなに違わないという問題もあって、二つの世代のいろんなひとが集まっているはずなのに、同じようなひとたちがごちゃごちゃと卓袱台のまわりに座っているという印象になっているんですね。たぶん、卓袱台のそういう機能は意図しているとは思うんですけども。ただ、最近卓袱台というのは見かけないものなので、どうしてかなあ、というのは疑問なんですけどね。

藤倉:意外と、テーブルと人数分の椅子だと場面転換が面倒だから、という身も蓋もない理由があるのかもしれませんね。

でんぐり返し

大泉尚子(ワンダーランド):身体的なところでは、『Kと真夜中のほとりで』は台詞とは直接関係のない激しく大きな動きが入っていましたが、今回はシンプルな動きでしたね。でんぐり返しでみんないっせいにまわって、それを契機にもう一回リフレインする、みたいな。あれはじっくり感傷にひたらせない、という意図があるのかな、と思ったんですけど。

麦野:場面転換みたいな感じがしました。

藤倉:わたしも映像的な場面転換―ぱっと場面が変わります、みたいな印象を受けましたが。

大泉:変わるんだけど、またもとに戻るということですよね。つぎに進むんではなく、同じことをまたくり返す、その切れ目っていう…。

麦野:「はっきりさせない」方法の一環かな、と思いました。口ごもるとか、言いさすとか、最後まで言いきらないとか、今回非常に多くて。あのでんぐり返しは言いさしと同時に場面転換も兼ねている。わたしはとても、上手いと思いましたね。

藤倉:たしかに「ここで場面が変わります」というのがわかりやすい。みんな舞台に直接座り込んでいるから、いつものように立って動けず、それでああなったのかもしれませんけど。でも、あれは身体の動きとしては変化に乏しいですね。わかりやすいけど、以前のような魅力がない。

大泉:でも、かなりしつこくやってましたよね。

麦野:全体として動きが過剰じゃないから、でんぐり返しが目立つのでは? 動きも激しくないし、わけがわかんなくもないし、運動量も少ないし。そのかわり落ち着いて演技しているから、可笑しい面がいっぱい見えてきた。子供が喧嘩するじゃないですか。あそこなど楽しかった。

:身体性で言うとね、わたしもでんぐり返しというのは、今回で言えば盆がまわるのと同じ円運動ですけど、そんなに面白いものではないと思うんですね。ただ、吉田聡子が大事にしていたコップを割られてしまって凄く怒る―尋常じゃなく、躯が痙攣するようにして怒るでしょ。あそこは凄いな、と。あそこはちょっと突出していて。だけど、あそこだけだな、と思いましたけど。

麦野:小さい子が本気で怒る怒り方ですね。子供たちが全身全霊で生きてる感じが、際立っていたと思う。

:で、しかも、怒る原因が他人から見れば大したことない、っていう。あそこだけなんですよ、そういう身体性を感じられたのは。

麦野:あと、あの女優さん…召田実子さん。「富士山行ったけど、何もなかった」と言って、ぴょーんと跳ねる(笑)。ああいう身体性というか、彼女っていいなあ、と。

:そうですね、あそこもいいですよね。

リフレインと本質

:マームとジプシーというと、リフレインということになるんだと思うんですけど、リフレインが人気のもとかというと、どうもそういうふうには思えないですね。リフレインをするから人気が出ているとか、リフレインが客にとって凄く楽しい、ということではないと思うんですよ。多くの観客が、それが好きで見ているとはあまり思えないんですよね。では、どこがいいかと言うと、センチメンタリズムっていうのかなあ…。かならずしも否定的に言っているつもりはないし、センチメンタリズムだから悪いとも言わないんですけど、でも、そういうところが魅力なのではないか、と思うんですけどねえ。

藤倉:マームとジプシーの芝居というのは、わかりにくところはもの凄くわかりにくいんですけど、反面そういうストーリーライン的なところはシンプルでセンチメンタルでわかりやすい、と思うんですよ。

:「センチメンタリズム」ですが、やっぱりこの言葉に含まれる批判的なニュアンスもこめてそういう言葉を使っているわけです。リフレインをなくしてみると、残るのはちょっとセンチメンタルな話というところがあるんじゃないでしょうか。だけど、「リフレインを取っても耐えられるか」「リフレインを取ってしまったところに本質がある」と言うと問題がある。本質はセンチメンタリズムじゃないか、っていうふうに言えば、批判したことになるのかっていうと、それはたぶん違うと思うんですね。リフレインを取っちゃったときには、本質的なものもたぶん取られてしまっていて、その残ったところだけについて言っても、たぶん藤田さんには批判は届かないだろうと思うんですよ。じゃあ、リフレインがどういう効果を持つかというと、同じ台詞を何度も何度もくり返すことによって、台詞の意味が深まるようにはあまり思えないんですね。まあ、もっと言ってしまえば、深まるような台詞でもないんじゃないか、と思うんですよ。

藤倉:ただ、意味の多層化というか多重化は生じている気はするんですよ。深まってはいないものの。

:リフレインによって何かがそこで付け加えられているのは確かで、それは当然、効果にもなるし、観客に対してより強く訴えかけているのですけれど、意味の深まりではないように思う。

藤倉:音楽のフレーズをくり返して、しかもくり返すごとにちょっとアレンジを変えていくみたいな、そういう感じの魅力なのかな、と。そして、そこにはある種の構造性みたいなものあるかな、と。

麦野:わたしも追憶とか喪失とかというのは―センチメンタルでもいいんですけど―かならずしも否定的ではなくて…人間にとってとても大事なものだし。それを描くことと、リフレイン手法は一体だという感じがあるんですよね。しかも、言葉のリフレインだけじゃなくて身体リフレインがともなってくる。そこがこの劇団のいちばん中心になるところでしょう。で、先ほどの「くり返しても台詞の意味は深まらない」という指摘は、凄く面白い(笑)。感覚が強まり、高まり、興奮していく。それによって生み出されるのは、意味の深まりというより、感情の切実さや切迫感でしょう。あともうひとつ、くり返しは、観客がそこに意味づけをする余裕を与えるんじゃないか、と思うんです。たとえば、あるフレーズをくり返し歌うとき、二回目以降は最初に歌ったときとまた違う感情を込める。観客は同じ台詞であっても違うものを見る―投影していくことができる、と。

【写真は、手前左から藤倉秀彦さん、大泉尚子(編集部)、奥左から林カヲルさん、麦野雪さん 撮影:ワンダーランド 禁無断転載】

大泉:もしリフレインなしで、このストーリーをベタにやったら、観客は気持ちよくセンチメンタルな気分になれないんじゃないですか。藤田さんは、盛り上げることだけじゃなく、冷ますことにも意識的なんじゃないかな、と思うんです。たとえば、でんぐり返しをくり返すことによって、感傷にひたれない感じを作る。簡単には号泣させないぞ、と。まあ、最後には号泣するのかもしれないけれど。冷ますところを上手に入れつつですね。ただ、究極のセンチメンタルが目指すところなのか、それ以外の何かなのかという、そこはとても気になるところではあります。いずれにしても、感傷を扱う手つきはとてもしなやかだと感じます。

麦野:でも、わたしはちっとも泣けない。みんな泣きたいのでしょうか?

藤倉:藤田さんの芝居って、泣けるのかというと、泣ける芝居じゃないような気がしますよね。『モモノパノラマ』のラストでは、わたしのとなりの席の若い女性が号泣してましたけど(笑)。

:リフレインがね、センチメンタリズムを救うテクニックだとすればですよ、それは大したことがないじゃないですか。そうではないと思うんですが。ただ、そのままで提示したらベタすぎる。だけど、リフレインというフィルターがそれを中和させるとともに、そこから生まれる感情を強化することにもなって、上手い具合に観客を泣かせることができる、というふうに見えてしまう。そこが、ちょっと引っ掛かるんですね。
 結果として、センチメンタリズムが上手く表現されているから、物語としておセンチなのはいいでしょう、というのかな。それが許される口実になっているようにも見える。何でもないような台詞、何でもないようなシーンがリフレインされることによって、ある種の強さを持ってくるっていうのかな。観客に対してより強く訴えかけてくる力を持っているんだけど、これも何でもないような言葉とか、シーンに力を与えるための「テクニック」だとすれば、そんなに大したことないことになってしまう。リフレインって本質的な意味とテクニカルな効果が混じり合っていて、いろいろなことがつい技に見えてしまうんですね。それは見る方の責任かもしれないですが。

麦野:言葉やシーンの「繰り返し」は他の劇団でも行なっていますが、マームのリフレインは、内的言語というか、内的時間の表現だと思うんです。つまり、心の動きの言語化であり、身体化。外界の出来事と内面の動きという位相の異なる二重の時間が交互に現れる。その方法は能にも通じるし、独特の魅力を感じます。心は行ったり来たりをくり返しながら、少しずつしか進まなくて、かけがえのない一瞬を慈しむことになるから、時間が引き延ばされ、結果的にセンチメンタリズムとつながりやすいのだと思う。

幻の伊達市

:今回の作品に限らず、彼の作品のなかでふるさとから出ていくひともいれば、帰ってくるひともいるわけで、だいたい帰ってくるひとというのは、どっちかというと故郷に錦を飾ることができないで、あんまり上手くいかなくて帰ってくる、というパターンが多いと思うんですけど…ふるさとは温かく迎えてくれるっていうのかな。藤田さんが北九州で作った『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』でも、尾野島慎太朗演じる男がひさしぶりに戻ってくる。で、友だちが温かく迎えてくれる、という感じですよね。

藤倉:たしかに藤田さんの芝居だと、ふるさとって最終的には受け入れてくれる場所として描かれていますよね。戻ってきたけど居場所がない、みたいな描き方は一度もしていないような。今回も含めて、実家が物理的になくなっちゃう、というパターンはあるにしても。

:『あっこのはなし』という、マームとジプシーではないところで藤田さんが書いて演出したものがあって、あっこという女の子が帰ってくる話なんですけど、彼女はいろんな男と付き合っていて、かなり評判が悪い。で、何となくふるさとに居にくくなって、女優になると言ってふるさとを出ていったのかな。だけど、結局女優になれなくてまた戻ってくる、と。ふるさとには彼女にひどい目に遭わされた男たちがあいかわらず住んでいるんですけど、彼女のために歓迎会を開いてくれるわけですよ。まあ、それなりに引っ掛かりはあるものの、歓迎してくれるわけです―彼らにとっては楽しくない思い出がある女性を。これなんか見ていると、決して円満に出ていかなくとも、ふるさとは温かく迎えてくれる、っていうのが彼の作品の構造だなっていうふうに思いますけどね。「食卓は待っててくれるかな?」という問いに対して、「待ってるんだ」と言葉で言うかどうかは別にして、彼の作品のなかでは、そういうことになっているんじゃないですかね。

大泉:チラシには「26歳のときに書いた作品を、リユースして再構築してみよう」とあります。ポストパフォーマンス・トークで、藤田さんは26歳だった三年前といまの違いを言っていて、いま藤田さんは故郷である伊達市の名誉市民的な立場なんですって。三年前は非常に不安定な時期―劇団も大変な時期で、「帰れるか、帰れないか」という問題は、飛行機代があるかどうか、という次元の問題だった。ところがいまは、胸を張って帰れる、と。そこの違いについても語っていましたね。

藤倉:ただ、今回の芝居に関しては「帰るべき食卓」ってほんとうにあったのか、という疑いも感じますね。ほんとうは存在しない、美化された食卓の情景なんじゃないか、と。記憶に回帰しているのではなく、存在しない妄想に回帰しているようにも見えるんですよね。

:あんこという旅人が出てくるでしょう。で、彼女が、ずっと旅をしているわけですけれども、「帰る場所が必要だと思いました」みたいなことを言いますよね。あれっていうのは、公演のチラシに藤田さんが自分の言葉として書いていることとほとんど同じなわけですよ。「旅しながら、帰る場所を探して彷徨っている」と。結局、あんこの言っていたことをもっと長く言うと、そういうことになると思うんですね。さっきから凄く彼自身の心情が舞台に出ているというのは、まあ、こんなところもそうで。あの女の子が言っているというのは、ほとんど藤田さんが考えていることなんじゃないか、と思えるところがあるんです。

藤倉:わたしは彼女の台詞が納得行かなかったですけどね。外部から旅人がやってきて、たまたまある家に一晩泊まって、そこのようすを見て、こういう帰る場所が欲しいなあ、というのは…(笑)。

:あんこという女の子は初演の台本に出てきますけど、あんなことは言わないわけですよ。ああいう、わかりやすいことというのかな。あるいは、これがどういうお話なのかを説明してくれるような台詞というのは、初演台本にはないんですよね。ただ、あの女の子は、だいたいなんであんな知りもしないひとに「泊めてくれ」って言うのかもわからなければ、言われた側が何の疑いもなく泊めてあげるのもよくわからないですけど、今回ああいう台詞を言うことによって、あの女の子の出てくる意味がはっきりしてくるというか、演劇的な機能がはっきりしてくるわけですよ。
 あんこの言っていること、イコール藤田さんの考えと強引にまとめてしまうと、藤田さんにとって、帰る場所って、旅することと裏表になっているわけです。帰る場所があって旅しているというわけではなくて、旅することと「帰る場所探し」が並行しているんだと思うんですよね。つまり、帰る場所があるから旅しているんではなくて、帰る場所はないんだけど、旅しているうちに帰る場所が見出だされる。あるいは妄想というか、作り出されていく、ということなんじゃないかと思うんですよ。しかし一方で、帰る場所は伊達市だっていう言い方もできるわけですよ。実際に帰ることができるのか、できないのか、という問題はあるにしても。だけど、帰る場所を探しているんだ、というところもあるわけで。なんかそこは二重になっているというのかな…。
 だから、ありもしない、ほんとうはなかった「帰る場所」を探している、というところはあるんじゃないかな。一種の幻の伊達市ということなのかもしれないし、幻の食卓ということなのかもしれないですけど。

食卓は待っているか?

麦野:さっきも言いましたが、はっきり言い切らなかったり、言い淀んでいることが目立ちました。タイトルがそもそも「そこ、きっと」と、言い切らずに終わってます。そこきっと「何なのか?」を探したり、考えたりする芝居なのかな。「帰れない」と「帰りたい」のあいだで引き裂かれ、たゆたっているような。

藤倉:「言い切らない」という問題ですが、以前マームとジプシーについて話をしたとき、林さんが指摘されてましたけど、『塩ふる世界。』でも、母親が「死んだ」という言い方はしなかったんですよね。「いなくなった」でしたっけ?

:そうですね。

藤倉:はっきり言わないんですよね。

:ただ、今回のラストシーンはね、はっきり言ってたんですよ。そこだけは、何んでこんなにはっきり言うのかな、というところが疑問なんですよね。

麦野:三回くらい言ってなかった?

藤倉:凄く聞き取りにくい台詞でしたけどね。『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト』のラストシーンもやっぱりああいう感じでしたよね。あれもどっちつかずの発言に聞こえたんですよ。『通過』では次女が、家がなくなっちゃって、戻る場所がなくなったけれど、こういう場所はまた見つかるのだろうか、みたいな台詞を言うわけです。それに対して次女の彼氏は「見つかるよ」的なことを言いますよね。それって、ほんとうに「見つかるよ」「大丈夫だよ」って言っているようにも取れる。でもそのいっぽうで、とりあえずその場を取り繕うために、駄目だとわかっていながら言っている、というふうにも聞こえるんですよね。

大泉:それは「見つからない」ということ?

藤倉:見つかるかもしれないし、見つからないもかれしない。ただ、ここで「見つからない」と言ってしまうのはあまりにも可哀想じゃないか、だからせめて口ではそう言ってあげよう、というふうにも聞こえたんですよ。

:わたしも今回思った疑問は『通過』のときも思ったことで、少し単純じゃないかなと思ったと同時に、だけど、堂々と言っているわけじゃなくて、舞台は暗くなっちゃうし、ちょっと聞き取りにくいし、そのへんのニュアンスっていうのは、帰る場所はあるんだ、と強く打ち出しているようには見えない。この台詞を文字どおり取るべきなのか、そうじゃなくて事実として言っているんじゃなく願いとして言っているのか、あるいはいちおう「ある」って言っているけど、言っている本人もかなり迷いつつ言っているのか、というところがあんまりよくわからないところではあるんですけど。
『帰りの合図、』と『待ってた食卓、』は三人きょうだいが出てくる、というところが共通しているだけで、ほとんどお話としては関係がないんですけど、ラストのところはどっちもよく似ているんですよね。今回「食卓が待っているのかな、どうかな」という台詞が何回もくり返されますけど、あれがどっちの作品にも出てきていて、最後にそれが出てくる、と。わたしはどっちも見ていないので、本で読んだだけですけど、『帰りの合図、』のほうは「食卓が待っているかな、どうかな?」という疑問で終わるわけですよ。『待ってた食卓、』のほうは「どうかな?」というお姉さんに対して、かえでが―彼だけが家に住んでいるわけですから、「待っているよ」ということを最後に言って終わる、と。だから、『通過』の終わり方とよく似ているんですよね。決して、「何か言わないといけない」ということはなく、『帰りの合図、』みたいに疑問で終わることだってできた、と。だけど『待ってた食卓、』では今回と同じようにかえでが「大丈夫だ」というようなことを言って終わらせている、と。そこのところは、どっちがいいのだろうか、という…彼自身が二つの終わり方をやっているわけで、どっちがいいのかなあ、というふうにも思うんですけどね。

麦野:いま、藤田さん自身が揺れているのかもしれないですけど、この作品に関しては「食卓、あるかな? あるかな?」とくり返しつつ、結局何度も食卓をかこむ。そのことによって、「食卓はある」って言っているような気がしますね。食卓が待っている―どういうかたちで待っているかはわからないけど、そこはきっと人間にとって大切な「何か」なのだ、っていう。その場の顔ぶれは変わっているのかもしれないけど、それでもひとが集まって食事する場所がきっと「ある」―そういうことを今回の作品に強く感じました。
(2014年6月22日、世田谷区の公共施設にて)
(構成:藤倉秀彦)

【略歴】
林カヲル(はやし・かをる)
 中年会社員。つかこうへいにやられて以来、観客歴は何十年。劇評を書き合い演劇について語る「劇評の会」を結成し、劇評の一部を同じメンバーで発行するメルマガ『世田谷劇報』に掲載している。長い不景気の中、給料は減って仕事は増え、観劇本数は右肩下がりの一方。観客生活の未来は厳しい。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hayashi-kaworu/

藤倉秀彦(ふじくら・ひでひこ)
 1962年生まれ。翻訳家。訳書にゴードン・スティーヴンズ『カーラのゲーム』、エリック・アンブラー『グリーン・サークル事件』、インガー・アッシュ・ウルフ『死を騙る男』(以上、東京創元社)など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujikura-hidehiko/

麦野雪(むぎの・ゆき)
 春の大雪の日に生まれる。幼い頃からパフォーマンス好き。2000年頃から演劇批評を書き始める。2005年に林カヲル氏、藤倉秀彦氏と「劇評の会」を結成。毎月一回劇評を持ち寄り、とことん語り合っている。休会は一度もありません。

大泉尚子(おおいずみ・なおこ)
 京都生まれ、東京在住。2009年よりワンダーランド編集部に参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/oizumi-naoko/

【上演記録】
マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」
東京芸術劇場シアターイースト(2014年6月8日-22日)

作・演出 藤田貴大

出演
石井亮介 伊東茄那 荻原綾 尾野島慎太朗 川崎ゆり子 斎藤章子 中島広隆 成田亜佑美 波佐谷聡 召田実子 吉田聡子

舞台監督:森山香緒梨
舞台監督助手:加藤唯、丸山賢一
音響:角田里枝
照明:南香織
照明オペレーター:伊藤侑貴
衣装:スズキタカユキ(suzukitakayuki)
演出助手:小椋史子
当日パンフレット:青柳いづみ
宣伝美術:本橋若子
制作:林香菜、古閑詩織

主催:マームとジプシー
共催:東京芸術劇場
提携:(公益財団法人東京都歴史文化財団)芸術文化振興基金
助成:公益財団法人セゾン文化財団

チケット料金
前売り・予約|3,000円 当日券|3,500円 高校生以下 前売り・予約とも1,000円


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