10.家族(という)劇における「観客」としての老人について(廣澤梓)
ここでは「て」という家族の物語において、常に蚊帳の外にいる老人に注目したい。
唐突に始まった葬式のシーン。掲げられた遺影には、笑顔を浮かべる若い女性の姿がある。葬儀に集まった家族の物語は、ここから進行していく。少し時間を遡って、菊枝と呼ばれる彼女の最後の日、次々に彼女の住む家に家族が集まってくる。見た目には不相応に、おばあちゃんと声をかけられる菊枝は、彼らの祖母なのだそうだ。
そして徐々に分かってくるのは、この祖母を慕って集まってきている(ように見える)家族が、長年にわたって父親のDVに悩まされてきたということである。
この家族の集まりは、長女が提案したものであった。寝たきりの祖母の家に、家族みんなで集まろう、と。バラバラだった家族が関係を築いていく、そのきっかけとしてのパーティー。しかし、集まったからといっても、過去はそう簡単に水に流せるものではない。
父の暴力は、他の家族の間をもぎくしゃくさせている。4人の兄弟の中で、幼いころ特に父親の暴力を受けたとされる長男は、性格が「ひねくれて」おり、二男とは顔を合わせるたびに衝突をする。そんな長男によって、長女の企ても非難され、ひとつになる、ということへの絶望が色濃く表れる。
ところで寝たきりの菊枝は、舞台の端に設置されたベッドの上にいつもいる。その上、認知症を患う彼女は、家族の顔すらもはや分からない。彼女はおばあちゃんと親しげに呼びかけ、食事を口元に強引に運ぼうとする人々の親切に戸惑いの表情を見せる。「私はもういいですから」と繰り返す菊枝の言葉は、彼らによって常に聞き流され、なかったことにされているようだった。
一見菊枝に気遣いを見せているような光景の合間に、家族は遠慮することなく、彼女の眼前で、諍いを始めることもある。菊枝の家の居間は、長男の趣味である車の部品が散乱し、居間としての機能を失っている。まだ菊枝が生きているのだから、このような真似はやめろと言う二男に対して、長男は菊枝が死んだらいいのか、と反論する。しかし彼女はただ黙って、その光景を見つめ、戸惑いの表情を浮かべるのみである。
泣いたり喚いたりする家族の出来事を見ているだけで、そこに介入することのない彼女の姿は、客席で劇を見つめるしかない観客に重なった。私には、この辛い境遇の家族を、自分に置き換えて考えることはできなかったし、またそれらを笑い飛ばせるほどに対象化することもできなかった。劇中の私の状態は、菊枝と同じように戸惑っていた、と言うのがいちばんしっくりくる。
しかし、同じような境遇の彼女がいるという一点だけで、舞台上の光景を見つめることができていたのかもしれない。ベッドの上を動けない彼女と同じく、客席に縛り付けられた観客としての私は、劇中観客としての菊枝を通してのみ、家族のドラマと関係を結ぶことができそうだと思った。
ところで、劇中において菊枝は長男の言葉を借りれば、家族が集まるために「使われる」存在である。家族によってその中心に据えられながらも、なぜ自分がそこにいるのかまるで分からない。(長男との会話の中で、彼女は彼が誰であるのかを理解したように見えるシーンがあったが、それも束の間の出来事だった。)つまり、中心人物が家族のドラマの外側にいるのである。いわば中心にぽっかりと空洞をたたえた家族の物語は、しかし菊枝の遺体を火葬炉へと運ぶ家族の共同作業によって結ばれることになる。
菊枝の不自由な体の象徴として、俳優が常に手にしていた木製の手のオブジェ。これは例えば、自ら食事をしようとスプーンをここに握らせ、そこからスプーンが滑り落ちることで、身体のこわばりを表現していた。集まることによってかえって家族の溝が深いことが明らかになり、更にその溝が深まった夜にあの世へと旅立つ彼女は、この「手」をベッドに置いて、すたすたと歩き舞台の中央にあるテーブル=ステージに立つ。
その後、遺体となって家族に運ばれることで、菊枝は実際に家族のドラマの中心に立つことになる。彼女がいよいよ存在しなくなった途端に、家族がこうしてひとつになるのだから、皮肉なハッピーエンドである。菊枝は亡くなることで、見知らぬ人に親しげにされる戸惑いや恐怖から解放されただろう。そしてバラバラだった家族が一瞬かもしれないが、一体感を持てたのであれば、物語的には大団円と言えるのかもしれない。劇中観客がドラマに参加することで、劇はエンディングを迎える。
さて、菊枝を通してのみ舞台に眼差しを向けることができていた私は、彼女が家族の物語に回収されたことで、自分をどこに位置付けていいのか、行き場を失ったように思われた。しかし、そうだった。演劇が終われば、観客は劇場を後にすることができるのだ。
(2013年5月25日14:00の回 観劇)