ハイバイ「て」

15.ひらこう(兒島利弥)

 「あなたの手を見せてください。」

 小学生の頃に友達から受けた心理テストを思い出した。「手を見せてください」と言われて掌をだすのか手の甲を出すのかで性格がわかるというものだった。友達から「やっぱり掌かぁ」なんて言われてイラついたことは今でもはっきり覚えている。しかし何の心理テストだったかは全く思い出せない。思い出すのは、心理テストの後、機会があれば手の甲を出してやろうと注意深く生活していたということだけだ。まったく変なことを思い出してしまった。

 前半と後半で視点が変わるこの芝居は、思い込みというものが自分の中で簡単に作りこまれてしまうことを分かり易く説明してくれた。手を見せると言ったら掌だ。という思い込みと一緒で、手の甲という選択肢だってあるのにそれに気が付かない。だからと言って、掌を出すのが間違いなわけじゃないし、手の甲が正解かと言われればそれもまた違う。手の甲という選択肢が自分の判断材料にないだけだ。

 劇場に入ると客席があり、その先に舞台が設けられ、さらに奥にまた客席がある。今回の「て」という作品は、客席同士が向かい会うように作られている。僕は入口側ではなく、舞台奥の方まで歩き、さらに奥の端っこの客席に座った。向こう側とこちら側の客席で二つの視点から舞台は見つめられている。こういう客同士の顔が見える舞台設計が実は好きで、「さらしさらされる舞台」だと思っている。

 向かいのお客さんを一通り眺めてから舞台に目を移す。天井には、デジタル数字の8の形に組んだ角材が吊るされ、その四隅にさらに角材を取り付けて屋根のような格好にしている。四隅に取り付けられた柱は下の部分が煤けて細くなっていた。火事でも起こったのかなと想像してしまう。舞台中央には客席に対して縦になるように棺がベッドの上に置かれ、その上に手の玩具が置かれていた。火事で、棺で、手の玩具で。音楽も何も流れていない。お化けとかあまり好きじゃないんだけどな。そんなことを思っていたところ、舞台上に最初に姿を現したのが、唇を真っ赤にさせた唇お化けだった。

 この最初に前説をやった口紅を異様に塗りたくったお化けが、本作品「て」の作演出であり、母親を演じた岩井秀人だと気付いたのは舞台がもう少し進んでからだ。岩井秀人だと気が付くよりも、この作品が自分の中で“あたり”であると確信する方が早かった。冒頭で「この作品絶対好き!」と僕に思わせた要素はなんだったのだろうか。

 その唇お化けの二男、次郎(富川一人)の視点から描かれた前半は、子供が積み木を組んでいくのに似ていた。真剣でいて、しかしどこか危なっかしい様子で何かを作り上げようとしていく話になっていた。

 それまでバラバラだった家族が、認知症になったおばあちゃん(永井若葉)の為に集まることになった。しかしそれは建前で、この集まりに別の目的を持って臨んできた奴らがいた。もし本当に皆がおばあちゃんの為だけに集まったのなら、おばあちゃんもあんなに放置されなかっただろうにね。そいつらがおばあちゃんをだしにしてまでやりたかったことは、家族の全員集合だった。

 家族皆が集まる。ということに一番執着していたのは弟次郎だと思う。長男の太郎(平原テツ)が遅れて参加するということを聞いて「最初から全員じゃないじゃん」とか言い出す場面があった。彼にとっては全員が集まることに何か意味があるように感じた。が、一人でこの家族の中に入るのは嫌なのか、気後れなのか、友達の前田(高橋周平)をちゃっかり連れてきているのだ。これは何だかずるいと思った。家族の場に友達を連れ込むことで、友達を絶えず緩衝剤みたいな役割をさせたいのだろう。うむ、ずるい。でも僕自身弟だから知っている。弟はずるいのだ。

 長女よしこ(佐久間麻友)も似たような目的を持っている。この集まりの言いだしっぺはよしこだ。次郎が全員集まることに意味を感じているとしたら、よしこは家族らしいことをする、しているということに意味を感じているのかもしれない。「家族みんなが集まって、なんだかとっても楽しいね、イェイ!」みたいな。そんな想像上の家族をここでやりたいのだろう。

 約束通り長男が遅れて参加し、ようやく全員が集まったと思ったら、今度は母親が電話で外に出ていく。次は姉と妹が口論になり、腹を立てた妹が家を飛び出してしまう。全く思い描く通りに行かないことに焦りイラついた弟が、これまでの父親への鬱憤も相まって父親と殴り合いの喧嘩になる(殴りかかるところで取り押さえられるが)。よしこの旦那和夫(奥田洋平)が父親を羽交い絞め状態で外へ連れ出していく。

 そんな風に、皆の為に働きかけているようで実は自分の為に動いているため、頑張れば頑張るほどいろいろとほころびが出来てしまう。子供が自分よりも大きな家を積み上げようとして、欲張って積み木を重ねる度、どこか一部が落っこちてしまう。子供の遊びだと微笑ましいが、大人のこういった姿は痛々しく映ってしまう。どちらも一生懸命には変わりないのに。

 後半は母親視点で同じところを繰りかえしていく。その視点変化に合わせて、役者の立ち位置と道具の場所を対象の位置に変えてくる。そうすると舞台を180度回転させたことと同じ効果になり、次郎視点では背中を向いていた場面が母親視点では正面を向くようになる。母親の視点になったことで大きく変わったのは太郎の印象だった。

 傍若無人で無干渉人間のただただ嫌な奴だと思っていた太郎が、母親視点ではおばあちゃん子でおばあちゃん思いのむっちゃいい奴に変身してしまった。つまり、僕はまんまと思い込まされていたわけだ。不良・雨・公園・捨て犬、この四つのキーワードを出されたら、大抵の人が連想する少女漫画のようなあのギャップ。今まで馬鹿にしていたけど、確かにギャップでキュンとなるね。太郎も僕も男だけどさ。この感覚は面白かった。実生活が弟という立場である僕は、完全に前半の次郎視点でシンクロしていた。なので母視点では自分の浅はかさを思い知らされた。往復びんた状態。手の表ビタンとされたらすぐに裏でビタン。手の表と裏いたい。…表裏一体(くるしいな)。別の物語のように思えても、場面や状況は同じであって、ただ視点が違うだけというなんとも不思議な感覚。何が正解とかじゃなく、そのすべてが正解だし、そのすべてが合わさっていない分すべて不正解な感じ。わぁ、何かを語ろうとして何も語れていないこの歯がゆさ。

 「手を見せてください」という心理テスト。掌を出したときと手の甲を出したときで、結果が全く違うものになってしまう。手という一文字に対して各々が持つイメージ(思い込み)で、答えが変わってしまうのだ。その答えが自分にとって良い結果なのか悪い結果なのか、それは悩むところだろう。しかし手をどう解釈し判断したか、そこに正解不正解は無い。

 この舞台「て」も、二つの視点を出されたが、だからと言って母親の視点の方が大切だとか、正解だとかそんな話ではない。今いる状況を、僕たちは今までの経験と、蓄積してきた情報から判断している。それは人によって全く違う。違うからいいんじゃないの? 太郎のようなときめきが起こるんじゃないの? ということなのだろうと思った。
(2013年5月22日19:30の回 観劇)

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