2.岩井の女装と揺るぎない母について(水牛健太郎)
「て」では、ハイバイ主宰で作・演出の岩井秀人が一家の母・通子を演じている。女装であり、女形ということになるが、そこに引っかかる観客はまずいないだろう。日本では歌舞伎や新派、大衆演劇でも女形は普通の存在である。テレビの世界にも、美輪明宏、美川憲一、ピーターなど、昔からコンスタントに女装者がいたが、近年マツコ・デラックスの登場などによりブームの様相を見せており、このまま定着しそうだ。
女装をした岩井が母親役として観客にすんなり受け入れられるのも、そうした文化的伝統抜きでは考えられないことだ。つまり日本では女装した男性が出てくれば、舞台の上ではその人は女性であるという暗黙の設定を観客は当然のこととして受け入れ、特別に違和感を持ってみることはない。
これは世界的には決して普通のことではなく、三橋順子著『女装と日本人』(講談社現代新書)によれば、一九九二年には青山円形劇場で予定されていた「欲望という名の電車」公演で篠井英介がブランチ役に決まっていたところ、上演権を持つテネシー・ウィリアムズの遺族から強硬な反対があり、上演は中止になったという(のちに二〇〇一年に遺族の理解を得て篠井のブランチ役は実現した)。
岩井の母親役はこのように、女装に寛容な日本の文化が成立させているものだが、その一方で、ただの女形にとどまらないニュアンスを感じる。二〇〇九年のハイバイの「て」再演では母親役を菅原永二が、二〇一一年に「その族の名は『家族』」と改題して行った公演(岩井の演出だが、ハイバイ公演ではない)ではユースケ・サンタマリアが演じているようだ。この作品の母親役は男性、という岩井のこだわりも面白いが、察するに、女優を起用した場合、主に夫役との間に生じる「男女」の生々しさを避けたものではないか。この役は母親であるが、身体的な意味での女性性は必ずしも求められていないのだ。
そしてその中でも、岩井自身の母親役には、また格別のニュアンスを感じる。菅原やユースケの母親役は見ていないから何とも言えないのだが、岩井が演じたのとはまた違ったものになったのではと推測される。それは何なのか。このニュアンスを、何とか言語化してみたい。
直観的に言って岩井の母親役に似ているのは、ドリフターズのいかりや長介、そして「欽ちゃん」こと萩本欽一による母親役だ。テレビ番組のコントで、二人は割烹着を着て、多くの子供たちに囲まれていた。子供たちは、いかりやの場合はドリフの他メンバーやアイドル歌手などのゲスト出演者たち。萩本の場合にはイモ欽トリオとか松居直美、気仙沼ちゃんなど萩本の弟子にあたる人たちと、やはりゲスト出演者たちである。
いかりやや萩本の母親役は、二人がその場におけるリーダーであり、座長であることと切り離せない。「ほんとうにしょうがない子たちだねえ」などと言いながら場を仕切り、いかりやならば時に子供たちの逆襲を受ける。萩本ならば視聴者からの葉書を読む。そのようにして、その場の揺るぎない中心であることを示す。いかりやや萩本のコントの家庭には父親が出てこなかった。そもそもいないのか、それとも高度成長期の多くの家庭と同様、遅くまで働いていて帰ってこないのか。いずれにせよ、座長が父親役ではなく母親役を演じるという、誰ひとり疑問を感じずにいたパターンは、父親不在の日本の家庭のリアル、そして父権よりも母権が強いと言われる日本社会の基層に触れた表現であったことは間違いない。
「て」の山田家も子供は四人だから、ドリフなみに多い。そして岩井はハイバイ主宰であり、作・演出で、座長と言っていい立場にある。ただ、この芝居には夫がいる。横暴で自分勝手、妻と子供たちを長年、暴力によって支配下に置いてきた男である。
しかし夫がいてもやはり、山田家の中心は母系にある。家の土地は母親の実家の井上家のもので、名義人はたぶん、床についている通子の母・井上菊枝だと思われる。菊枝はかつて、父親との対立で家にいられなくなった山田家の長男・太郎を保護する役割も果たした。通子と協力して子供たちを育ててきたのである。
長年家にカネを入れず、横暴にふるまってきた夫はいまや、子供たちから相手にされなくなっている。思えば夫は、そもそも山田家における自分の地位が危ういものであることをよく知っていたのだろう。自信がなく、人間としての包容力もないから、暴力によって妻や子供を押さえつけることしかできなかった。いまや子供たちの心は母親と共にあり、通子も「全員で多分私のこと助けてくれるからね」と揺るぎない。この作品はまさに、パワーバランスが決定的に通子に傾く瞬間を描いていると言える。菊枝はそれを見届けて世を去り、女系家族の家長の座が通子に継承される。
岩井が通子を演じるとき、そこに説得力が生じるのは、通子が山田家の中心であり、子供たちをしっかりと掌握していることと、座長・岩井の立場とが観客の中で重なるからだろう。
この作品は、岩井の実家での出来事をほぼそのまま描いたものであるという。岩井は次男の次郎にあたる。ほぼ同じ出来事を二回繰り返すが、最初は次郎の目線、二回目は通子の目線で描かれている。
岩井の分身である次郎の視点の次に母・通子の視点が提示されること、それに加えて岩井自身が通子を演じること。この二つが意味するのは、この作品は岩井の視点が母の視点に同化していく過程を描いている、ということだろう。
次郎の視点によれば、父親との葛藤は言うまでもないが、兄弟姉妹間にも問題は多い。兄・太郎は性格がねじ曲がり、病気の祖母に対して思いやりがない。仕切り屋の姉よしこと妹かなこのいさかいも気になる。家族はまとまりようがないように見える。
通子からもそうした問題自体は見えている。しかし、通子は母として、それぞれの子の立場を理解し、愛情の絆でしっかりとつなぎとめている。太郎が自分の母・菊枝と最も関係が深く、その死を悲しんでいることは通子にはよく分かっている。長女よしこが婚家で苦労をして、自分を頼って引っ越してきたことも分かっている。よしこは山田家という女系家族で、通子の次の家長になる存在だ。だからこそきょうだいをまとめようと一生懸命になっているのだし、通子はそれを認めている。そして次女かなこは通子にとっては可愛い泣き虫の末っ子だ。まだまだ子供っぽいところがあるが、通子はいつでも母としてその思いに寄り添い、慰めてきたのである。
通子から見れば、四人はみんな自分の可愛い子供で、悪い子は一人もいない。子供一人ひとりとの関係は揺るぎないものだから、横暴な夫さえ押さえ込んでしまえば、この家には大きな問題はない。四人の子供が協力して菊枝の棺を運ぶ姿は、家族の継承と絆を象徴する場面そのものである。通子の母性愛がいま、山田家で勝利を収めた。
母性愛にも問題はたくさんある。だから本当は、この家にもまだまだ問題は尽きないはずだ。ただ、岩井演出ではその問題は前面には出てこない。そういうものとして、岩井演出は既に完成の域に達している。
しかし実は、この脚本は、女性俳優を起用して母親の女性性を前面に出す演出も可能だと思う。その時、家族に潜むさらに奥深い問題を描き出せる可能性を秘めている。ただ、それは岩井ではなく、別の演出家―おそらくは女性演出家の仕事になると思う。勇気ある女性演出家の挑戦を待ちたい。
(2013年5月31日19:30の回 観劇)