キリンバズウカ「マチワビ」

2.街も待ちもマチのうち(丸山浩木)

最初に広げた大風呂敷を最後にうまくたたみ切れなかった作品。たとえるなら、そんな感じだ。観終わった後に心地よい余韻は残らなかった。

『マチワビ』は、東京から二時間隔てた北関東のさびれた街「沼原」を舞台に、ミエダ家の三姉妹をめぐる人間関係を群像劇タッチで描く。街の花形だった遊園地・沼原グリーンランドの人気とその衰退を時代背景として、ミエダ家の状況は時間の流れとともに大きく変わる。父親の失踪、母親の他界、そして次女マイコの芸能界デビュー。三姉妹の関係にも必然的に変化が訪れる。ミエダ家を取り巻く人物たちもそれぞれに小さな悩みを抱えながら、少しずつ前に進もうとしている。

こう書くと、三姉妹を中心とした、なんてことのない群像劇のようだが、そうではない。まず、次女マイコの超能力という超自然的な要素が導入されており、劇的リアリズムにどう折り合いをつけるのかという課題がまず突き付けられている。さらに、街の住人ではない外部の人間が一人紛れ込むことで、物語にはサスペンスと緊張感が生まれているのだが、ここにもサスペンスの解消とその方法におけるリアリズムの問題が潜んでいる。三姉妹の人物像とその関係をしっかりと描きながら、これらの要素もまとめて処理しなければならないというのは、最初からハードル設定が少し高かったと言えるかもしれない。

本作は、タイトルがほのめかすとおり、「街」と「待ち」の二重の意味を併せ持つ「マチ」が重要なキーワードとなって、物語全体を貫いている。三姉妹の生まれ育った沼原という「街」は、いわゆる田舎である。このような舞台設定を持つ典型的な物語の例にもれず、本作においても、田舎に住む者の都会=東京への憧憬や進出を、人物を描く際の構図として用いている。

予知夢という特殊能力を持って生まれた少女マイコは、未来に起こる出来事を予言し、次々と的中させていくことで一躍世間の注目を集め、ついには芸能界デビューを果たす。これを見た幼い妹チエは、芸能界に憧れの気持ちを抱く。チエの想いは根が深く、小学校入学前から現在に至るまで、十年以上経っても衰えることがない。強力である。芸能関係者にスカウトされることに期待をかけながら、東京まで足を運んでバイトをするほどなのだ。
けっして華々しくないマイコの芸能生活の様子を垣間見ている観客の目には、チエの芸能界への執着は、やや過剰に映る。これはチエのマイコに対する女性としての嫉妬から来るものだととらえるのが常道だろうが、このわかりやすい物語においてそれをほとんど匂わせていないのは気になるところだ。チエにとってはおそらく、芸能界ではなく東京に進出することこそが本意なのだと解釈したほうがしっくりくる。マイコの持つ超能力は、いわば東京進出へのパスポートである。だから、その能力にチエは固執する。それは「街」から脱出するための必要十分なスキルなのである。

もうひとつの「マチ」を意味する「待ち」は、すたれゆく街と運命をともにして生きる住人が、それぞれの人生に起こる変化を期待する姿勢を示唆している。そのはずである。だが、この点については必ずしも判然としているわけではない。というのも、現状に不満を抱き、未来に何かを期待しながら普通に生きている人たちの「待ち」わびているさまがそれほど描かれていないからである。

むしろ、本作において印象的な「待ち」は、冒頭のシーンで見られる。夜の遊園地で、誰かと待ち合わせをしているかのようにベンチに座っているマイコが謎めいた男と出会うシーンである。なかば不自然な二人の出会いを引き金に、男の正体を明かさずにサスペンス状態を作り、観客を作品中に引き込んでいく。観客は物語上の空白を埋めようとしながら物語を追うことになる。これは効果的と思えたが、物語が進むにつれてその有効性が怪しくなってくる。

謎に包まれている人物の正体をサスペンスの中心に据える場合、最初にうまく観客を誤解に導き、人物の正体を明かした際に合点がいくような種明かしを用意していなければならない。しかし、本作においては、この仕掛けは不発に終わった。男がマイコのファンであると思わせるように会話が展開されていながら、実際はそうでないことがマイコの対応の仕方でほぼ明らかになっていたからだ。

芸能界に身を置く人間であれば、赤の他人から接触されたときにそれが自分のファンであるかどうかという視点を持つだろうし、ファンの可能性がある人物を自宅へと招きいれたりはしないだろう。仮にマイコが男をファンの一人として見抜けなかったとしても、マイコが単なる親切心から行動しているとは、二人の会話からは到底思えない。だとすると、マイコは男との出会いをその予知能力によって予見していたと見るのが自然である。
しかし、男がマイコのファンではなく自殺志願者であることが明らかになるくだりでは、意表を突かれたというよりも、腑に落ちない感覚のほうが強かった。男が自殺志願者らしき素振りを見せる場面はあったものの、それも不自然さが前面に出ていたし、他の人との距離感の取り方や会話においても自殺を志願する動機が感じられなかった。男の正体を解き明かすことによるサスペンスの解消という、物語における大きな仕掛けの一つがここで機能不全に陥ってしまっている。

にもかかわらず、冒頭の「待ち」のシーンから生まれるサスペンスは、物語上ではその有効性が疑われるとしても、別の面で効果を発揮しているのである。つまり、サスペンス状態において物語を体験する観客には、「待ち」の心理が働くのだ。観客は先の展開を読み、その読みが的中することを「待ち」望むようにして物語を体験する。このような想像力を駆動して観客は、物語の展開によって導かれる結末を「待ち」わびることになる。結果としてサスペンスの仕掛けは、この物語の核心を担う役割を果たしている。

このように、『マチワビ』は「マチ」をキーワードに構成され、さまざまな要素が盛り込まれており、興味深い作品ではあるものの、人物造形や物語の筋の信憑性といった点では不足感が否めない。群像劇であるがゆえに、複数の人物を等価に扱おうとした結果かもしれないが、全体として人物が散漫に描かれている感じもあった。もう少し特定の人物の内面を掘り下げてもよかったかもしれない。

物語の筋について言えば、細かい部分はさておき、もっとも重要と思われる姉妹の「能力」をめぐる結末に疑問が残った。夢の中で見た男の自殺を食い止めるというマイコの行為は、すわなち、予知夢の実現を阻止することで、自らを呪縛する超能力を原理的に無効化し、自由を獲得しようとする試みであったはずなのだが、最終的には、チエも長女ユミコもマイコと同じようにそれぞれ超能力を持っていたことが示される。この点の解釈はさまざまだろうが、やはりすんなりと納得できるものではない。

さらに付け加えると、ミエダ家の母親の声によるナレーションは、ときに説明過多であるだけでなく、物語を俯瞰的に眺めることを強いるような押しつけがましさがあって好感を持てなかった。ただ、ナレーションを担当した池谷のぶえの声には温かみがあり、母性がにじみ出ていたことは記しておきたい。

本作が抱えるいくつかの難点を和らげるものとして補足すれば、作・演出を手掛ける登米裕一の脚本家らしい手際の良さによって、物語の運び自体はそつがなかった。また、折々のシーンで笑いを誘うセリフの応酬や巧みな間の取り方に、脇を固める役者陣の能力が発揮されたのは救いだった。これらによって、少なくとも次回作への期待はつないだと言ってよいだろう。
(2013年9月21日14:00の回観劇)

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