キリンバズウカ「マチワビ」

4.「持っている」人の選択(水牛健太郎)

 優れたエンターテインメント作品だ。大詰めの場面で主人公である三姉妹の次女と三女が窮地に陥るが、三女の超能力(?)で悪い奴が消えてしまい、ハッピーエンドで幕となる。ご都合主義と言えば全くその通り。だが、それまでに三姉妹が観客から取り付けた共感からすれば、それぐらいは許されるだろう。エンターテインメントは現実の世の中がいかにままならないものか知っている大人が、ひとときの「嘘」を楽しむためのもので、基本的に何でもあり。悪党がテレポーテーションで富士の樹海に飛ばされるぐらい、ぜんぜん許容範囲だ(もちろんちゃんと伏線もはってあった)。

 エンターテインメントはそのかわり、粋で、楽しくなければならない。この作品はその点も見事だ。現実味と現実離れの割合の絶妙さ。池谷のぶえのナレーションは、作品との距離感が心地よく、途中で実は天国から三姉妹を見守る母の声だと分かる趣向も面白い。舞台装置はデザインもしゃれていて、考え抜かれた配置は滑らかなストーリーテリングを助けている。登場人物は、悪役である芸能プロダクション社長ムコウジマ(折原アキラ)を除いて、いい人ばかり。演技は軽妙で、笑わせたり、時にしんみりさせたり。物語は観客の心をしっかりつかんで、最後はその真ん中に、暖かいものをすとんと落としてみせた。

 ふだんもっとごつごつした、アート寄りの作品を多く見ているが、それだけにたまにこういう作品を見ると胸にしみる。上質のエンターテインメント作品は、手練れの作り手の、それまでに蓄積した経験や、磨いたスキル、そして何より情熱あってのものだということを、忘れてはいけないと思う。こういう作品は、見て楽しむのが何よりの評価。しかしそれでは劇評にならないので、思いつくことをちょっと書いてみるが、野暮にならなければいいなあと思っている。

 三姉妹が主人公ということで、チェーホフの「三人姉妹」を思い出す。ただ三姉妹だからというのでなく、まだ若い(「三人姉妹」も「マチワビ」も三女は二十歳前後の設定)のに既に両親を失っていること、一方で(まだ?)子供もいないこと、さびれた地方都市を舞台にしており、それぞれモスクワと東京という首都との距離が一つの問題になっていることも共通している。更に言えば、登場する男はみんな弱いことも。

 作・演出の登米裕一が「三人姉妹」を意識したかどうかは分からない。頭の片隅にあるかもしれないが、それもどちらでもいい。つまりはそれだけドラマを構成しやすい一つのフォーマットだということだ。たとえば最近再演されたナイロン100℃の「わが闇」も、ほぼ同様の設定を使っていた。ちなみに三作品ともに、長女は働き者、次女は外で働いておらず(「わが闇」「三人姉妹」では次女のみ既婚者で主婦)、三女は夢見がちで人生模索中、である。

 フォーマットの同一性がはっきりしているだけに、「三人姉妹」と比較することで、「マチワビ」の特色が、明確に浮かび上がってくるはずだ、というのが本稿の狙いとなる。それでは、その特色は何か、と言えば、それは「超能力」だ。

 そんなこと、「三人姉妹」と比較しなくたって分かるよ! と言われる予知夢を見た。かまわず話を進めると、要するに「何が身を助けるのか」という話だ。「三人姉妹」の彼女らは将軍の娘で、世が世なら働くこともない。しかし早くに両親を亡くし、男兄弟のアリョーシャの不出来もあって、収入を確保する必要に追われる。長女は教師、次女は教師の妻、三女も最後には教師になるのだが、つまり、いざという時、上流階級として身に付いた教育が身を助けている、ということだ。

 「マチワビ」のミエダ三姉妹も、両親を失う。そこで「生きて行かなければ」「働かなくてはねえ」となるが、そこに「超能力」というジョーカーみたいな要素が入ってくることで、人生に対する期待値が大きく揺り動かされることになる。次女マイコ(加藤理恵)は予知夢の能力を活かして一躍テレビのスターになるが、やがて予知夢が見られなくなり、失意のうちにミエダ家に戻ってくる。燃え尽き症候群みたいになって、いまだに家にこもり、何もできない状態だ。一方三女チエ(松永渚)は幼いころから華やかな世界への憧れがあり、次女に対する嫉妬に苦しむ。

 無駄に夢を見させて、肝心な時はちっとも思い通りにならず、かえって持ち主を苦しめる「超能力」。これが「才能」のメタファーであることは見やすい。作品中では長女ユミコ(黒岩三佳)と友人で地元FMのDJハル(こいけけいこ)の間で「才能」を巡るシビアな会話があり、そこでハルに「何も持ってない」と言われてかっとしたユミコは、秘密にしていたスプーン曲げの超能力を披露してしまう。

 かつては「教育」が身を助けるものだった。「三人姉妹」のような没落した上流階級だけでなく、貧しいものが努力して高い教育を受け、社会的な上昇を夢見ることもできた。しかし現代では、義務教育が行きわたる一方で、高等教育は家の豊かさと結びついたものになっている。高い教育を受けるには、塾や予備校も不可欠になり、大学の学費も上がっている。貧しい家に生まれた子供が教育をテコに成功を夢見るのはだんだん難しくなってきた。「マチワビ」の三姉妹も、教育に助けられているようすは全くない。

 そうした中で輝きを増しているのが「才能」だ。スポーツや芸能、芸術などの分野で才能を発揮することで、一発逆転できる。絶対的な切り札で、格差も飛び越える。最近では「持っている」という言い方もある(「マチワビ」の中でも何度か使われている言葉だ)。「あの人、持っているよ」などというわけだが、この場合には才能だけでなく、その人の強運やオーラみたいなものまで含まれる。

 ただ、これは「持っている」と言われる人にとってすら、とても苦しいことだと思う。教育なら、ある程度客観的に示すことができる。学歴、というものは評判が悪いけれど、その人の持って生まれた能力+努力によって積み上げたものを表示する、という側面もある。一度得た学歴は一生消えることがない。

 一方才能も、実績によって示される部分はあるが、基本的に現在形のデジタルな概念。ない時はどうあがいてもないし、あっても、その後なくなってしまうこともある。才能を発揮し維持するために努力は不可欠だが、努力してもだめな時はだめ。なんと恐ろしい。

 「持っている」という用法を一般に広めたのは、早稲田実業のエースとして甲子園で優勝した斎藤佑樹投手である。「ハンカチ王子」として人気を集め、早大に進学。2010年、4年生の時に「いろんな人から斎藤は何か持ってると言われ続けてきました。今日、何を持っているのか確信しました。それは、仲間です」と発言し、大きな話題になった。その後斎藤投手はドラフト1位でプロ野球の日本ハムに入団したが、成績はぱっとせず、けがにも苦しみ、現在は二軍にいる。どこで歯車が狂ったのか。色々言う人はいるが、本当のところは本人にも分からないはずだ。

 芸能の世界で輝き続けるには、才能はもちろん、相当な運も必要なのは明らかだ。歌がどんなにうまくても、顔がどんなにきれいでも、それに加えてどんなに努力しても、成功しなかった人はざらにいる。アイドルのことは全然知らないが、「総選挙」という人気投票をしたり、時にじゃんけんで誰が真ん中に立つか決めたりするらしい。「持っている」を計測する方法としては、完全に正しい。でも計測される側に立てば、こんな苦しいことはない。

 「マチワビ」の長女ユミコはとても賢い人として描かれていて、スプーン曲げが出来たからって何にもならないと早々に見切って、二人の妹を育て上げるために賢明に働いてきた。次女マイコは自分の超能力への期待が大きかったから、失望もまた大きくて苦しむが、結局のところ、振り回されるのは止めよう、と思ったようである。ユミコを見習い、超能力と関係のないところで、ささやかな幸せを紡いでいくことにした。三女チエは、テレポーテーションというすごい超能力を秘めているのかもしれなくて、もうひと波乱あるかもだが、やがては姉たちと同じように、静かな生き方を選んでいくのではないかと思われる。

 超能力をいわゆる「才能」、さらにその拡大形の「持っている」のメタファーとして考えると、つまりこの作品は、「才能」はあればあったで素敵だが、そんなものに振り回されるのはつまらないよ、と言っていることになる。正しいと思う。

 だが、いくら正しいと分かっていても、なかなかそうはいかないのが人間というもの。どんな人でも、自分の人生の中ではかけがえのない主役で、だからこそ主役にふさわしい扱いを求める。輝く瞬間を待ちわびる気持ちは完全になくなることはなくて、聞き分けのない子供のようにうずき続けるのだ。

 「マチワビ」というタイトルに反して、田舎町での静かな人生に充足する人々を描いた作品が、エンターテインメントとして東京で上演される。その皮肉に、ほろ苦いものを感じるゆえんだ。
(2013年9月20日19:30の回、24日14:00の回観劇)

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