キリンバズウカ「マチワビ」

5.夕暮れに佇む、我がマチ(澤田悦子)

 キリンバズウカの舞台を観ると、いつも夕暮れ時を思い出す。登米裕一は、常に終わりに向かって物語を紡いでいる。観客は、すでに始まってしまった物語が終焉を迎えるまでを観ているのだ。だから彼の描く物語を観ると、夕暮れが思い出される。終わってしまう物語に対する寂しさと安堵を感じる。そして夕暮れは、物語そのものだけでなく、彼の描くマチにも感じる。寂れていく地方都市に住む登場人物、夕暮れに佇む我がマチが、登米裕一の創り出す舞台なのだ。

「マチワビ」は、キリンバズウカ2年ぶりの新作公演である。寂れた地方都市住む、三姉妹を中心に物語は進む。三姉妹の 次女(加藤理恵)は「予知夢」の超能力を持ち、一時期東京でタレント活動を行っていたが、今は実家で引きこもりのような状態だ。早くに両親を亡くした三姉妹の長女(黒岩三佳)は、親代わりとして家族の面倒を見ている。三女(松永渚)は、 次女の能力に憧れと嫉妬を抱き、2時間かけて東京へバイトに通いながら、タレントになるチャンスをうかがっている。 ある日次女は、潰れてしまったテーマパークに出かけ、そこで一人の青年(永島敬三)に出会う。彼女は東京から来た青年を自宅に連れて帰り、家に引き留めようとする。

 次女がテーマパークから彼を連れて帰ったころ、三姉妹の住むマチでは1000 万円の入った鞄が見つかる。そして1000万円入りの鞄が見つかることを、次女が「予知夢」によって予知していたことが噂になる。「予知夢の少女」復活の噂を聞きつけ、次女のかつてのマネージャー(折原アキラ)がマチにやって来る。しかし 1000万円入りの鞄は、次女に憧れと恋心を抱いている青年(上鶴徹)が、彼女のために置いたものだった。さらに彼は、1000万円入りの鞄を次女と共に発見することで、彼女に自信を取り戻して欲しいと考えていた。だが、彼の思惑通りには物事は進まず、1000万円入りの鞄は警察官(森下亮)に発見されてしまう。

 マチは、1000万円入りの鞄を巡って、喫茶店のマスター(日栄洋祐)、先輩(後藤剛範)、コミュニティーラジオのパーソナリティ(こいけけいこ)を巻き込みながら、静かに騒ぎになっていく。 舞台終盤、次女が予知した「予知夢」の真相が明らかになる。彼女が予知したのは、1000万円の入った鞄ではなく、テーマパークを訪れる青年の自殺だった。彼女は、「予知夢」を回避するために行動していた。次女の超能力は本物だった。それだけでなく、三姉妹は全員、超能力者だった。

 しかし舞台が終焉に向かうころ、その能力は重要なものではなくなっていく。特別な能力は、ただそこにあるものとして認識され、三姉妹はぞれぞれのパートナーとなんとなく幸せになって終わるのだ。

「マチワビ」は、一度物語が終わった状態から開始されている。次女の現在は、「予知夢」という能力の発見、周囲の認知、期待からの転落、故郷に帰って腫れ物扱い。という能力の終わりから始まっている。長女は、自身の能力を理解した上で、能力を使った物語を始める前に終わらせている。「マチワビ」の人物たちは、大きな夢や希望をほとんど口にしない。三女の タレントになりたいという希望だけが、陳腐で幼稚な希望として舞台から浮き上がっている。しかし三女は、東京に憧れながらも決して東京に住もうとはしない。2時間かけてバイトに通うなら、住んでしまった方が楽だろうと思うのに、マチから出ようとはしない。彼女がマチを出ないのは、本格的に活動した後に自分には能力がないと知ることが怖く、逃げ道を探しているからなのだ。

 「マチワビ」はチラシの登米裕一の言葉によれば、「能力があるとかないとか幸せになるためには『全然』関係ないんだってさ」という結末に向かって進んでいる。だから、三女は自分が超能力者であると気づいても、超能力を使ってタレントになるとは言わない。むしろ能力に囚われることは、不幸であると示唆される。タレントになっても幸福ではない次女の現在と、テーマパークを訪れた青年の自殺の理由は、どちらも能力に依存したためである。

 最終的に三姉妹は、死にゆく夕暮れのマチで、幸せそうになっている。誰もが能力を、 すごいとも貴重なものとも意識しなくなる。だが、なんとなく幸せになった後はどうなるのだろうか。先輩とその彼女のように、子供が出来てなんとなく家族になるのだろうか。それとも警察官とラジオパーソナリティの夫婦のように、日々の細かな不満を相手に言わずに、ラジオ番組に見立てて吐き出すのだろうか。

 寂れたマチに暮らす夕暮れの物語「マチワビ」は、この世界そのものを表している。現実社会は成熟を迎え、大きな経済成長も、将来に対する根拠のない希望もありはしない。夢が見られる時代は過ぎ去ってしまった。私たちの住むマチは、終わりに向かって進む夕暮れの社会なのだ。登米裕一は舞台の背景である地方の閑散とした都市の姿に、終焉に進む社会そのものを重ねて描いているのだ。

 だが、「マチワビ」では、彼のそういった思いは伝わってこなかった。むしろ、マチは陳腐な物語の薄っぺらな背景になっていた。死にゆくマチに住む、それなりに幸福な人々という物語は、散々語られている。使い古された物語が悪いわけではない。だが、手垢のついた物語を再度語るためには、語り方を意識する必要がある。 今回のマチワビでは、舞台の語り方は上手くいったようには思えない。何のためにいるのかわからない登場人物が多すぎる。「モブ・キャラクター(群衆)」としても、物語の背景を深めるためのキャラクターとしても納得できない登場人物たちだった。

1000万円のリアリティもおかしい。バイトしかしていない青年が貯められるぐらいの金額なのかと思えば、人を殺してでも奪いたい金額としても登場する。舞台上の出来事はファンタジーなのか、リアルな物語なのか、中途半端なリアリティが気になって物語に集中できなかった。舞台上の全てが、結論に向かって都合よく進んで行く。そのために登場人物に真実味が感じられなかった。

 役者の芝居が悪かった訳ではない。日栄洋祐が演じた喫茶店のマスターは、セリフの間の取り方、立ち居振る舞いも含めて地方都市に存在していそうな雰囲気があった。しかし物語全体で見ると、彼の存在は地方都市に住む「いい年をして結婚しない男」、「幼馴染のことが好きな男」というキャラクターでしかなくなってしまう。主役の三姉妹も、どこかで見たキャラクターの焼き直しという印象で、彼女たちの苦悩や苛立ちを感じることが出来なかった。

 エンターテイメントとしては、十分なのかもしれない。舞台のテンポは悪くなく、観客もそれなりに満足しているように見えた。しかし見終わっても、どこか物足りない感覚になる。舞台作品としては、「マチワビ」の物語は問題がないのだろうか。私は納得できない。

 夕暮れのマチに寂しさと安堵を感じるのは、明日への期待がどこかにあるからだ。今日は期待した「何か」はなかったと寂しくなる。しかし、明日には期待する「何か」があるのかもしれないと安堵して、一日が終わる。舞台上の物語ぐらい、期待する「何か」を見せてもらいたい。物語を創造する作家が、「能力があるとかないとか幸せになるためには『全然』関係ないんだってさ」(チラシより)などという安易な結末を用意しないで欲しい。今日も期待する「何か」はなかった。でも、なんとなく幸せだから良いかと、明日に期待することをやめてしまったら、夕暮れに佇む我がマチは、明日の来ない暗闇のマチになってしまう。私は登米裕一の創り出す、夕暮れに佇むマチが見たい。
(2013年9月22日15:00の回 観劇)

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