キリンバズウカ「マチワビ」

6.登米流マチと時間の描き方(齋藤理一郎)

 2013年9月23日ソワレにてキリンバズウカ『マチワビ』を観ました。会場は東京芸術劇場シアターイースト。

 冒頭、ラジオのDJに導かれて、華やかで夢に満ちた美しいテーマパークの開園シーンが描かれて。でもその施設はすぐに潰れてしまったという。

 その、本来は立ち入り禁止だというテーマパーク跡での男女の会話から物語が始まります。舞台には高低を持ったいくつかのエリアがあって、中央の一番大きなエリアは回り舞台。その舞台がまわってシーンは野外の風景から女性の家へと移り、その家の長女と三女、冒頭の男を連れ帰った次女と彼女を慕うパン屋の男と、三姉妹と彼女たちを取り巻く人物たちの姿や関係が少しずつ切り出されていく。ラジオスタジオや姉妹たちの家から、長女が働く映画館に隣接した上手の喫茶店や下手の交番へと物語が広がり、紡がれたエピソードたちが歩みを始めて。役者の会話に加えて、DJの音声として差し入れられる情報や、突然に天の声のように降りてくるナレーションが更に物語の輪郭を描き出す。家族のために何かを諦めた長女、次女の予知夢の能力やそのことで彼女が幼いころに全国的に有名であったこと、次女にたいしての三女の嫉妬心、バイバス沿いで見つかった1000万円の話、喫茶店のマスターの長女への想いや次女へのパン屋の青年のあからさまな恋慕の情、次女を取材にきた長女の同級生とその夫の関係…、紡がれていくエピソードたちがどこか寂れかけた地方都市の息遣いのように舞台を満たしていきます。

 この作品、シーンごとに演じられるエリアも異なり時間もそれなりに前後するのですが、物語はルーズになることもバラけることもなく、ある種の流れとともに組み上がっていく。中盤まではその仕掛けに気づかなかったのですが、池谷のぶえのナレーションがト書きの範疇を外れ「私は毎日夫の暴力に怯えていた」とあからさまに三人姉妹の亡くなった母のロールを背負ったことで、冒頭から、作り手がさりげなく、観る側にその母の視点で物語を追いかけさせていたことに思い当たる。そういえば、ナレーションはそのシーンの前にも姉妹たちの家を「我が家」とか呼んでいたし…。

 また、直接姉妹が絡まないエピソードであっても、観客が姉妹たちにまつわる物語との繋がりを見失わない手順で描かれるなど、物語が姉妹のことから不用意に広がっていかないための工夫もされていて。彼女たちの家での出来事はもちろんのこと、舞台の他のエリアで紡がれたエピソードも、彼女たちとの関係がしっかりと裏打ちされるので、物語が散漫になることなく運ばれていくのです。
 シーンの時制についても、前後するのはおおむね三人の姉妹に関してのことで、しかも過去を描くときにはロールたちの幼さや表情や所作の記憶の滅失感が人形などをつかって上手く解像度を減じられつつ描かれているので、過去と今が観る側の感覚に明確に伝わってきて混乱がない。舞台の流れやその街の空間と時間が、いわば母親を視座とした登米式遠近表現とともに描かれることで、観る側はぶれなく見失うことなく物語をその街に流れた時間の質感とともに受け取ることができる。

 ナレーションは一旦自らの姿を晒してしまうとあとはやりたい放題で「妹たちがピンチとなっていたその頃、長女は男とちちくり合っておりました」というような、あらあらこの子ったらしょうがない的なニュアンスの母親の愚痴までが挟まれたりもするのですが、こうして作り手の視座の作り方や表現の緻密さによって舞台上の感覚に寄り添うことができるからこそ観る側に訪れる登場人物たちの顛末や想いがあるのです。

 作品では役者たちそれぞれの豊かな力量にも魅了されました。
 三人姉妹の長女を演じた黒岩三佳は、この人ならでは幾通りもの演技の緩急を重ね合わせて家族を守る責任を背負った持つ女性としての想いや感情の揺らぎを織り上げていきます。喫茶店のマスター役の日栄洋祐とのしなやかでどこか探り合うような想いへの距離の作り方や歩み寄り方は従前に所属していた劇団でのこの人の演技の真骨頂だし、同級生との会話のなかで苛立ち、思わず封じていた超能力を解きスプーンを曲げるだけでは飽き足らずルームライトにまで手を出してしまう勢いなども、滑稽でありつつ、溢れ出す感情にそれまでに抱いたロールの想いが裏打ちされているのでとてもナチュラルに感じられる。

 次女を演じた加藤理恵は、幼いころの有名人経験からの鬱屈した部分と醒めた部分を乖離させることなくひとつのキャラクターにうまく束ねていました。永島敬三が繊細に演じる、テーマパーク跡で出会った実は自殺志願者だった男との関係も、上鶴徹が幾重にも重ねる彼女を思い続けるパン屋の青年の愚直さを受け入れることへの逡巡も、違和感なく彼女のどこか醒めた想いの質感の中に取り込まれて。

 三女役の松永渚は抱く想いの語り口にキレと力がありました。そのことで内に抱いた華やかな世界へのあこがれも次女の予知夢という超能力に対するコンプレックスも姉たちとは異なる幼さも輪郭をもって伝わってくるし、自らの超能力を隠す長女の生き方にもわかりやすく明確な理を与えていて。一方で紋切型にならずロールが抱く想いの揺らぎを編み上げる演技の深さもあって、その鬱屈が終盤の物語の展開をクリアにまで至らせる力になっていました。

 こいけけいこが演じた長女の同級生には、ロールが抱く自らが意識しないある種の自己中心さが実にうまく作り込まれていて。表層と、その奥に透けて見える想いと、ベースに醸される無神経さのようなものがひとつに撚り合って生まれるキャラクターの色には、長女の苛立ちや、夫兼警察官兼DJの森下亮の想いを湧き立たせるに十分なパワーがありました。

 折原アキラが演じた次女のマネージャーにはヒールとしての禍々しさというか姉妹たちと相容れない男の風貌や価値観がよく貫かれていて。
 パン屋の先輩を演じた後藤剛範には、職人気質や情で観る側を得心させるロールの存在感があり、その彼女を演じた金聖香がワンシーンに織り込んだ恋人を信じつつ自らの幸せを守ろうとする女性の強さも印象に残る。警察にお金の落とし主を名乗り出た女性などを演じた助川紗和子やFM局のボランティアスタッフなどを演じた内田悠一、また先輩の警察官などを演じた渡邊亮なども場毎の密度や流れを良く支えていたと思います。

 長女がちちくり合っている間に、妹たちが、三女の超能力が発したまばゆい光と共にピンチを脱したそのあとには、ロールのそれぞれが何かから解き放たれていて。妹たちのことで自分の想いを閉じ込めていた長女や想いを寄せていた喫茶店のマスターにも、有名人であることから解放された次女や求愛を続けたパン屋にも、自らの能力を知った三女や自殺未遂の男にも、互いに想いを吐露できなかったDJの夫婦にも、パン屋の先輩とその彼女にも、テーマパークが閉鎖したあとの少しずつ寂れていく街の雰囲気と時間のなかで淡々と、或いはじれるようにずっと待ちわびていたものやことが訪れる。冒頭のテーマパークが開園したときのような夢にあふれた美しい風景ではないけれど、その刹那にひとりずつが浮かべる笑みがこの上もなく愛おしいものに思えたことでした。

 観終わって、役者たちや登米裕一の作品に対する観客の視座の置き方や舞台の描き方に感心しつつ、作品が時代の実感を上手く切り取っていることにも心を捉われる。たとえば「バブルがはじけて失われた何十年かがあってやっと潮目が変わって」などと時代を語ることはたやすくても、その時代から抜け出すことを待って、待ちわびて、やっとひとかけらの希望が降りてきた時の感覚は言葉には収まりにくいものにも思える。昨今のこの国に訪れた僅かな明るさが、役者たちがその秀逸な演技の先に導き出したラストの登場人物たちの微笑みにかさなって、物語の顛末への感慨とは別に今という時代の感触として残りました。
(2013年9月23日19:30の回観劇)

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