イキウメ「新しい祝日」

6.<この道>に<それでも>を付すための<新しい祝日>(高橋英之)

「この道しかない」

 無言のラストシーン。主人公の汎一が、まるでそんな風につぶやいた気がした。汎一を演じた浜田信也は、絶妙の表情で、その声になっていないセリフの前に、どういう言葉をつけるのかを、観客に自由に選ばせる。「結局、この道しかない」? あるいは「やっぱり、…」? それとも、「もちろん、…」? 受け手によって、その表情から受取るメッセージは変わっただろう。自分にとって、それは、「それでも」。「それでも、この道しかない」、そんな無言のセリフが、聞こえてきた。

 汎一は、オフィスに一人残って仕事をしている。妻に電話をかけて、「明日の会議の資料作成があるので、遅くなる」旨を告げる。ごくありふれたオフィスの光景だ。そこに、唐突に、闖入者(安井順平)が現れる。見えているものは、実は、全てが嘘なのだという指摘の雨を投げかける。汎一が混乱している中、つながっていたハズの電話はつながっておらず、机と思っていたものはただの段ボール箱で、外に出ることもできない。それまで、ただのオフィスに見えていた舞台は、イキウメの主宰者・前川知大が得意とするSF的設定に変貌する。観客席からも丸見えの、舞台の袖に、ほかの役者たちが現れる。あっという間に、汎一は赤ん坊になってしまった。彼は、人生を、やり直すことになる。

 不思議な二度目の人生の中で、汎一は、友人たちと大きなボールを使ったゲームの中に放り込まれる。汎一は、ルールが分からず、溶け込めない。ドリブルをするのかと問えば、それは反則だという。一生懸命に勝ちに行こうとすると、それは受け入れられない。わざと手加減をして、負ける流れが、むしろ喜ばれたりする。そんな中で、汎一は次第に友人たちに馴染んでゆく。誰かと一緒にいるということのルールを、学んでゆく。構築された期待に、溶け込んでゆく。

 やがて、汎一は部活動に参加している。体操し、ランニングをし、“次の大会”に向けての練習が繰り広げられる。チーム一丸となって、一生懸命に取り組んでいる。あるとき、チームの中で、一番動きの鈍い少年(澄人)が、「何に向かって練習しているのか?」という素朴な疑問を投げかける。構築された意味の網目からの、突然の逸脱。毎日の活動は、“アップ”ばかりで、何に向かって進んでいるのかが分からないという。本来チームとして括られた者たちが疑問なく取り込まれ、改めて問うことなどない意味の網目。チームが存在していることの存在意義そのもの。それに対する素朴すぎる疑問の言葉に、チームメイトたちは、何をいまさらという顔で困惑する。そして、キャプテン(岩本幸子)は、ほころびを生じてしまった網目を修復しようとする。明るく、元気よく、鼓舞する声を上げる。

「アップして、いこー!」

 チームが再び、ランニングをしてゆく中、疑問をはさんだ少年は、舞台から飛び降りてしまう。意味の網目から、こぼれ落ち、消え去ってしまう。

 ちょっと、イキウメにしては、わかり易すぎる展開じゃないかなぁ。このシーンを眺めながら、そう感じたのは、自分だけではないのではないか。最近の小劇場にありがちな半径5メートルの日常生活のふとしたテーマなどではなく、壮大な人類レベルのテーマを追いかけ、SF的に深淵な展開で、テーマを複雑に骨折させながら、観客に考えさせる演劇。それが、前川知大の真骨頂だったのではないのか。それが、目的を見失った少年の自殺だとか、与えられた物語を消費するだけの盲目的な人生への疑問だの、いまさらの陳腐なテーマになってしまうのは、ちょっと物足りないなぁと。そんな風に、客席で感じていた。

 心配を、さらに深めるように、舞台では予想通りともいえるシーンが展開されてゆく。汎一は、企業戦士となり、実に意味のなさそうな仕事をしている。傍目には、どう考えても、折り紙を折っているだけにしかみえない。汎一が、新しい提案をして、上司に認められるシーンも、客席から見るかぎりは、どこが斬新なのかもさっぱり分からないようなものだ。ビジネスの意味のなさ?飼いならされた現実に向かって立ち上がれ? いや、そんな主張なら、もういやと言うほど喧伝されてきたことではないか。心地よい幻想に浸っている人物への警鐘を、SFの世界で鳴らしてみせるという手法。そもそも、これは、映画『マトリックス』(1999年ウォシャウスキー兄弟監督作品)と、まるで同じではないか。

 汎一は、主任になり、次長になり、やがて、部長になる。そして、その姿は、冒頭の、もともとの男の姿に近づいてゆく。ベビーカーに乗った赤ん坊の姿になって現れた闖入者は、改めて、汎一が見ているものが、いかに嘘のかたまりであるかを指摘する。よく目を開けと。目の前で子供のように見えている姿の中身だって、本当はそうではないのだと。気付くべきなのだと。いや、ほんとうは、とっくに気付いているのではないのか、と。汎一と闖入者は、激しく言い争う。そして、ついには、何かを悟ったように笑い合う。オフィスが、再び、段ボール箱だらけのシーンへと瓦解する。もう、なにがどうなっているのかわからない。そんな不条理なる雰囲気が最高潮に達したとき、…暗転。

 もし、この暗転のシーンで終わっていたら、前川知大の今回の新作は、素晴らしい役者たちによって演じられた、極めて凡庸な作品に終わっていただろう。よくいって、啓蒙的要素のあるエンタメ作品。しかも、その“啓蒙してあげますよ”の内容は、すでに手垢にまみれたテーマで、もはや食傷気味だ。演劇は、思想の伝達手段としては最適なメディアではない。暗転までのテーマだけなら、社会構築主義の本とか、ミッシェル・フーコーの「自己のなんとか」あたりを読んだ方が、よほどしっくりくる。ましてや、オフィスを舞台にした演劇で、その世界の矛盾を突かれたとしても、そもそも舞台となっているシーンの内実に対する知識と経験の量が、ビジネスの当事者たる観客とは全く違うのだ。いくら正論を吐かれたところで、「あんたら、ビジネスの世界の経験もないのに、何をわかったようなことを…」と思ってしまうことは、一度や二度ではない。演劇は、男女の恋だの、運命のなんとかとか、生死の不安だとかという人間としての根源的な属性を描くのには適しているかもしれない。演劇のもたらすスペクタクルによって、ロマンチックな盛り上がりもあれば、カタルシスもあるだろう。しかし、生計の術たるビジネスの世界を描くのに、演劇というメディアはあまり適していないという印象を強く持ってきた…といった愚痴さえ思いつく。

 ところが、前川は、暗転の後に、もうひとひねりあるラストシーンを用意していた。舞台には、汎一が一人だけ。舞台の袖にも、もはや誰もいない。バラバラに散乱した段ボールを、ひとつずつ手に取り、ゆっくりと組み直す。丁寧に、オフィスの机を作り直してゆく。スーツを着る。そして、オフィスの電気を消灯し、帰宅の途につく。笑みさえ浮かべて、静かに。

 泣いた。いや、いま思い出しても、声が震えてしまいそうになるシーンだ。全ての紆余曲折と、怒涛の認識転換を迫られて、すっかりと啓蒙されてしまったハズの男。ゲームの幻想を全て知ってしまった男。それが、やはり冒頭と同じシーンに接続されてゆく。まるで、「この道しかない」というように。かつて訳が分からないまま歩いていたその不条理の道を、いまでは、まさに“あえて”歩くのだとでもいうばかりに。

 ゲームに夢中になっているときは、それがゲームであることには気が付かない。ゲームに挑むことばかりが唯一の選択肢ではないこと、なによりもそれがゲームであることに気付くことそれが、“一休み”を与えてくれる。そうすれば、ゲームから“降りる”ことや、“中抜け”することも、選択肢として浮上してくるだろう。そうした思いを巡らせる「新しい祝日」を経ることで、ようやく、“それでも”と、改めてゲームに戻ることが初めて可能となる。

 言葉のプロたるコピーライターは、やはりとてつもなく優秀だった。2014年12月に唐突に展開された総選挙で、「この道しかない」という言葉を、政治家に与え、元々の支持者たちに「当然」という言葉を付させ、懸念を表明する懐疑論者に「とはいえ」という言葉を許した。そして、明らかな嫌悪感を抱いている人間たちにすら、「不承ながら、この道しかない」という選択をさせた。一方、同じ言葉の世界のプロたる演劇人は、負けずに「新しい祝日」という粋な提案をしてくれた。素敵なキーワードだ。少なくとも、フランスの偉そうな思想家なんかの難解な言葉よりは、わかり易い。少し遅かったかもしれない。それでも、これに応えて、自分のゲームを見つめ直す「新しい祝日」を積極的にもとうとすることには、きっと意味がある。“降りる”ことや、“中抜け”すること、あるいは“一休み”する道も確認せずに、「この道」などあるはずもない。もちろん、その「新しい祝日」を手に入れるひとつの有効な手法として、演劇があることは、言うまでもないだろう。
(2014年12月6日13:00の回観劇)

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