イキウメ「新しい祝日」

7.The story is hard to swallow(澤田悦子)

 腑に落ちない舞台だった。前川知大の言う「新しい祝日」の意味とは何だったのか。私を取り巻く社会のおかしさに気が付いて、生まれ変わる日。それが、「新しい祝日」なのか。ありふれた物語だと思うのは、私が「傲慢」な観客だからだろうか。

 中央の舞台には、段ボールで造られた事務用机と椅子。舞台を取り囲むように役者が座り、一部始終を観客と共に見つめる。登場人物には名前はなく、パンフレットには「汎一」「道化」「慈愛」「権威」「敵意」「公正」「打算」「愛憎」「真実」と役割分担がされている。
 役者は、役割分担に沿って役柄を演じる。浜田信也は「汎一」として、汎用性の高い主人公。安井順平は「道化」の狂言回し。伊勢佳世は、「慈愛」に満ちた女性。盛隆二は、「権威」ある威圧的な人物。大窪人衛は常に「敵意」に満ちている。岩下幸子は「公正」な態度を崩さず、対する森下創は「打算」的に立ち回わる。「愛憎」の橋本ゆりかは、感情豊かな女。澄人は「真実」を口にする。

 物語は、「汎一」が「道化」によって偽りの現実に気が付き、もう一度世界に生まれてくる場面から始まる。「汎一」は、生まれた世界が偽りの現実であることを理解しているが、成長と共にその社会に適合し、疑問を持たなくなる。
 役者は、「汎一」が成長するために、必要な役柄として配置される。赤ん坊の「汎一」に必要な「慈愛」と「権威」ある両親。学校生活を通じて成長する「汎一」に必要な、様々な感情を持つ部品としての「敵意」「公正」「打算」」「愛憎」「真実」。この世界は、汎用性の高い主人公としての「汎一」の成長を求めている。だから、世界に疑問を持つことを許さない。永遠に続く部活の準備運動。「汎一」は周囲に合わせてアップをしていても、所属する部活の内容を知らない。彼だけではなく、おそらく全員が分からない。そのため、「真実」の『この部活は何部ですか』という問いには答えず、真実を抹殺する。「真実」は物語の途中で舞台から去り、二度と戻らない。
 その後、世界は、大人の「汎一」に必要なパーツとしての会社と、上司、同僚を用意する。段ボールの事務机で、仕事として折り紙を折る姿は、滑稽で不気味だ。世界は社会に適合させるため、「汎一」に結婚と子どもを求める。役割として「愛憎」と結婚し、「道化」の子どもを授かる。
 そして舞台は繰り返される。「汎一」はもう一度「道化」によって、現実が張りぼての偽物だったと気づかされる。しかし「汎一」は、偽りの現実である段ボールの机を積み直して去っていく。

 自分の過去、現在をたどることで自分の人生を見つめ直す物語。12月に上演されたことも含めて、クリスマスキャロルを思い浮かべてしまう。そうだとするならば、希望に満ちた未来が出てこないことが、現代社会のリアリティなのだ。自分を振り返り、社会が偽りに満ちておかしいと気づいても、その社会に適合していく。真実は無視され、抹殺される。声を上げることを恐れ、権威に盲目的になる。何度そのことを指摘されても、無視して自分の役割に没頭して日常を過ごすことが、幸福だと思いこむ。「真実」の澄人は、大柄な役者だった。彼が舞台を降りるとき、大きな音がした。しかし彼が観客席に佇むと、観客はすぐに彼を見なくなった。舞台の「真実」はかなりの存在感があり、容易に無視することの出来ない存在である。だが、舞台から去った「真実」はすぐに忘れられる。現実の社会の真実も同様だ。
 当初「汎一」は、この世界が張りぼての偽物であることを理解していた。しかし、彼は言い訳をしながら、その社会に馴染んでいく。最後に段ボールで出来た机を直した彼は、きっと明日の朝も、周囲から見たら滑稽に思える仕事に戻るだろう。「道化」の問いかけに気が付いても、また同じ毎日を過ごす。だから、未来の彼は、現在の彼のままであり、変わることはない。「汎一」は、変わることのないスクルージだ。そして観客の私達の中にも「汎一」は潜んでいる。「私たち」もまた、愚かなスクルージなのだ。

 「新しい祝日」は現代社会の縮図の物語としてだけでなく、劇団「イキウメ」の縮図でもある。イキウメは2009年から観劇しているが、今回の作品で前川知大は、自分のこれまでの作品を見つめ直している。前川知大は、もともと自分の作品に対して客観的な作家である。舞台の初演日に作品を完成させているタイプで、公演中に演出や内容を大きく変更することは少ない。舞台を観ている観客の反応や批評は、次の作品に落とし込む。

 観劇中、前作2014年5月に公演された「関数ドミノ」を無意識に思い出した。それは、この物語の登場人物の役割が、これまでのイキウメ作品の役柄をトレースしたものだったからだ。「関数ドミノ」では、浜田信也が予備校講師役を演じた。彼は、どこにでもいそうな常識的な人物である。安井順平は、「ドミノ現象」を信じる無職の男で、自分自身は気が付かないが物語を通じた道化役だった。同様に伊勢佳世は、患者に寄り添う慈愛に満ちた看護師役。盛隆二は権威の象徴である医師で、多くの場面で、威厳を感じさせる話し方をしていた。大窪人衛は浜田信也の弟役で、兄に嫉妬し憤って、敵意をむき出しする。保険調査員役の岩下幸子は、物語の真相を探っていたが、それは自分の思う公正さを求めるためだった。森下創は、自分の病気を治すために「ドミノ現象」を利用する、立ち回りの上手い打算的なところのある人物だ。この役柄配置は「関数ドミノ」だけでなく、多くのイキウメ作品にみられるパターンである。前川は意識的に、前回の役柄と今回の役割が完全に被るように配置したのだろう。今まで、自分が役者に当てていた役をトレースし、あえて今回の作品に登場させた。それは「新しい祝日」が、前川知大にとっても、記念すべき作品だからではないのか。

 2014年8月公演「太陽2068」。前川知大の脚本を蜷川幸雄が演出した舞台は、脚本の荒さが目立つものだった。この作品のために書き下ろした部分が、以前の台本とかみ合っておらず、唐突な印象を受けた。蜷川幸雄の身体性を強調する演出は、イキウメ作品の登場人物と食い合わせが悪く、ちぐはぐな印象が残った。結果として「太陽2068」は、現実味のない、よくあるSF作品に変わってしまっていた。それはイキウメの「太陽」が持っていた、現実のリアリティを感じられる世界観とは、全く別の作品になっていた。しかし同時に、前川の舞台において「さりげなさ」が、重要な要素であることを気が付かせてくれた。また前川は、日常生活にある些細な違和感に対して敏感であり、自分の感じる違和感をSFとして作品に落とし込むのが上手い作家でもあることを、改めて感じた。前川は自分自身を、この作品を通じて客観的に振り返ったのではないか。特に、物語における登場人物の役割、役者に当てる役柄を意識したのだろう。そしてそれが、自分の創り出す物語においてどのように作用しているのか、考えたのではないだろうか。それを踏まえて「新しい祝日」を創り上げたのだ。

 「新しい祝日」について前川は、HPの稽古場日記で『毎日繰り返される誕生と死、それを繋ぐ再生と循環。登場人物は、社会から世界に飛び出し、再びドアを開けて社会にやってくる。』と語っている。それは、イキウメという劇団と前川知大に対しても言えるだろう。クリスマスキャロル、新年を迎えるたびに掲げる抱負。それはどちらも同じことだ。新たな出発、再生と循環を繰り返し、成長する自分たち。「新しい祝日」は、前川知大にとってもクリスマスキャロルなのだ。
 しかしその前川の意図が、作品に上手く反映されているかは疑問だ。ギミックを意識するあまり、物語の推進力が欠けている。ボール遊びや部活動のアップなど、繰り返すシーンは上手くいっていない。繰り返すことで、世界の異常な面を見せたいのは分かるが、芝居のテンポが悪くなり飽きてしまった。「道化」が一人でまくし立てている場面は、過去の作品をまるっきりなぞっているように思え、二番煎じに感じる。安井順平の一人語りが物語のクライマックスに使われることで、ほかの登場人物が薄れてしまっていた。あえて同じ手法を使ったのならば、見せ方の工夫はするべきだった。

 イキウメは、『生きながらにして彼岸を見る』がコンセプトである。今回、前川知大の創り上げた舞台上の彼岸に、私は魅力を感じなかった。

 「傲慢」な観客の私は思う。この作品は手放しで喜べない。物語の結論は、ありふれた社会への批判としてしか受け取れない、と。「The story is hard to swallow」、傲慢な観客である私は、次回の作品を観劇するまでこの作品は腑に落ちないままだ。
(2014年12月10日14:00の回観劇)

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