イキウメ「新しい祝日」

8.イキウメ版「クリスマス・キャロル」か、新作は。(野呂瑠美子)

 クリスマス・シーズンになると、世界各国で上映・上演される「クリスマス・キャロル」というチャールズ・ディケンズ原作の小説がある。守銭奴のスクルージがクリスマス・イヴに超自然的な体験をし、それがもとで改心する、という、「クリスマス・ストーリーの中では最も有名なもので、世界中で広範囲な読者を獲得し、ディケンズを世界的に有名な作家としたことでも知られる、記念碑的な中編」(Wikipedia)である。

 同じような話に、フランク・キャプラ監督の「素晴らしき哉、人生」 ( It’s a Wonderful Life )という映画がある。スクルージのような悪どい守銭奴ではない、あくまで善良で、心やさしい主人公ジョージ・ベイリーの「生れて来なければよかった」と言って自殺しようとする行為を留まらせるために、天使がアテンダントになって、人生振り返りツアーに連れて行くというお話である。

 両篇いずれも、主人公に人生を振り返らせて、改心させるか、人生の素晴らしさを再認識させる、というストーリーになっているが、その人生振り返りのツアーに連れ出してくれる、いわばアテンダントのような存在が、「幽霊」であり、「天使」であったとしても、意外とすんなりと受け入れてしまうのは、背景にキリスト教という信仰と文化が存在するからではないか、と思う。翻ってこの日本で同じような設定で、人生振り返りのツアーに出るとすると、どういった存在がそのアテンダントになるか、という疑問に応えて見せてくれたのが、今回のイキウメの新作「新しい祝日」である。

 「ある会社のオフィス。働き盛りの男がたった一人で残業している。男はふと不安に駆られる。自分は何故ここにいるのだろうと、立ち止まる。見なれた社内を見渡していると、いつの間にか道化のような、奇妙な男がいる事に気がついた」と劇団配布のリーフレットにあるように、作者前川知大が提示したアテンダントは「道化」であった。

 この「道化」という存在が、信仰も文化も異なる日本では、まさか天草四郎を連れてくるわけにもいくまいから、苦肉の策で作り出されたものであろうが、キリスト教国における「天使」の様な共通認識のない「道化」というものを提示されても、観る者にとっては、至極唐突でいかにも作り物めいていて、素直には受け入れられない。

 また、作家紹介欄の一文に、イキウメの芝居は、「超常的な世界観で、身近な日常と隣り合わせに現れる異界を描く」と書かれてあり、そのことを知らずに、「道化」と呼ばれる異界の男が、日常の世界空間に突如として飛び出してくる場面を初めて目の当たりにすると、正直、鼻白む思いと、ある種の違和感を抱いてしまって、素直に芝居の世界に入り込めなくなってしまった。いくらSFの世界だからと言って、そこにいくばくかのリアリティがないと、観客の気持ちはついていかないだろう、と、私などは、まずそこでつまずいてしまう。

 会社員の男(浜田信也)が、明日の会議資料を作成しながら、恐らくは働いてばかりの人生にふと、このままでいいのか、と不安に駆られる場面は、多くの日本人が体験している現実だろう。室内は、なぜか机も戸棚も椅子さえも段ボールで作られていて、道化の男(安井順平)は、段ボールを蹴散らすように登場すると、その段ボールの世界をちぎっては投げ、けっ飛ばしては壊し、それと同時に、会社員の男の人生の見直しを要求する。

 えらく高圧的に命令口調で、会社員の男を身ぐるみはいで裸にすると、フロアの真ん中に置かれた椅子に座らせ、このままでいいのか、今見えている現実は本物なのか、と一方的に責めたてる「道化」が、段ボールを蹴散らしながら、オフィスを壊し始めると、不思議なことに、会社員の男は、現実の世界とは全く別の何もない世界にワープしてしまう。

 道化に案内されて、ワープした世界は、彼が生まれた頃の世界、何もない、まだ彼が何ものでもない世界である。愛情を惜しみなく与えてくれる両親のもとから、幼年期、児童期、思春期、成人期と新しい人生を生き直すというストーリーは、さきほどの「クリスマス・キャロル」や「素晴らしき哉、人生」と同じ展開であるが、大きく違うのは、後者が、最初から最後まで天使や幽霊の役割が明確だったのに比べ、「新しい祝日」では、最初に会社員の男を導いて行った「道化」の役割が、途中から曖昧なものになり、異界の中で次第に同化してゆく会社員の方が、逆にイニシアティブを取り、「道化」の存在意義が薄れて行く、という点である。

 特筆すべきもう一点は、道化に連れられて、会社員の男がワープした世界は、きわめて寓意的で抽象的な世界であったこと。作者の前川知大は、「今回は登場人物の個人情報を排し、周囲の人間との関係性だけでひとりの人間の人生を抽象化して語る。そういうものができたら、これまでとは違う『世界』の捉え方ができるのではないかと思ったのが、今回のはじまりでした。また、イキウメではこれまで、日常の中に異世界がスーッと侵入して、いつの間にか非日常へと入れ替わってしまう、という構造の作品をつくってきました。今回の異世界は登場人物にとっての現実や社会です。人生が“人が異世界に馴染んでいく過程”に見えた瞬間、作品がスタートしました」とインタビューに答えて創作のきっかけを話している。

 会社員の男には「汎一」という名前が与えられるが、奇妙な風体の道化には「道化」という名前しか与えられていない。というよりも、「道化」と芝居の中で呼ばれることもなかったように思うのだが、私たちはただ彼の服装から「道化」と認識しているにすぎない。他に登場する人物にも固有名詞はなく、最初にワープした世界の父親と母親役の男女には、「権威」(盛隆二)と「慈愛」(伊勢佳世)という名が与えられているだけである。そのあと続く異界では、「慈愛」「権威」以外に、「敵意」「公正」「打算」「愛憎」「真実」といった抽象的な名前が与えられた7人の男女が繰り返し現れ、汎一の人生の脇役を担う仕組みとなっている。

 登場人物が「慈愛」「権威」「敵意」「公正」「打算」「愛情」そして「真実」といった抽象概念で呼ばれているのは、15~16世紀のヨーロッパで、啓蒙と道徳的教訓を目的として演じられた寓意劇(注1)と全く同じ道具立てである。前川は、この古臭い手法を使って、登場人物たちとその行動に意味を持たせようとしているのだろうが、残念なことに、彼らの抽象的な名前は、芝居を見ているだけではこちらに分るものではなく、配られたリーフレットを見て初めて知るという結果になっているので、わざわざ抽象的な名前を用いた作者の意図とは大きくずれてしまったかもしれない。

 後で思い返して、児童期の球技で遊ぶシーンでは、「そういえば、『敵意』という名前の登場人物が汎一に対して敵意を示していたなあ」とか、思春期の「部活」のシーンで、疑問を抱いて「それはおかしいんじゃないですか」と異を唱える人物には、「真実」という名前が与えられていたなあ、と、紹介文に書いてある名前を見て、なるほど、と「後で」合点するのである。

 ところで、赤ん坊から幼児を経て、恐らく小学校の児童期だろうか、球技のルールを学びながら、汎一は「わざと負ける必要性」を身につける、という場面が提示される。いわゆる処世術というスキルを幼児期・少年期から培ってきていることを示したいのだろうが、徐々に長いものにまかれろ式に育ってくると、中学校の頃には、もう完全に周囲に同調して行くシーンが「部活」を通して描かれる。

 聊か冗長でくどいと思われる「部活」のシーン、3カ月後に迫った大会が、一体何の大会なのかもわからずに、やみくもに練習していることに、ほかの部員と同様に汎一も次第に同調して行く過程が示される。最初は、疑問を持っていた汎一も、しばらくするうちに、繰り返し「楽しいか?」と聞かれると、「楽しい」という風に肯定的に考えるようになり、いつの間にかランニングとアップしかしない、何のためにやっているのかもはっきりしない、意味不明の「部活」の練習に、率先して励むことになる場面など、その意図するところは明白である。

 極めて象徴的なシーンは、次第に周囲に巻き込まれていく汎一に比べて、「真実」という名の人物が、空気を読めずに「禁句」を口にしたり、本当のことを言うことで、次第に集団から疎外され、自殺に追いやられて、舞台から消えて行き、その後姿を見せないところであり、道化の方が「迎合ばっかりでいいのか」とか「お前自身はそこにはあるのか」とか、変質していく汎一に対して、ストッパー的役割を演じているが、次第にそれも弱まって行っているところが、示唆的であると言える。

 道化の忠告にもかかわらず成人期の汎一はもうだれも止めることができないほど、変質してしまっている。会社業務というのも、ただ折り紙を折っているだけの愚劣なものであり、その会社で、彼はそつなく振る舞い、「出世欲」と自分は他の人間とは違って「有能である」という思い上がりで、他を蹴落としながら出世しようとし始める。そのためには、たとえば、産休に入った上司の代役を務めて、そのままそのポジションを奪い取ってしまう非情さも発揮する。それでも、道化は「目を覚ませ」と何度も忠告するのだが、幼児期から長い時間をかけて出来上がってしまった人間性は、成人して修正できるものではない。

 最後のシーン、道化によって解体された会社の段ボールの机や椅子のセットを、汎一はキチンと直して、自分から再度組み立てると、ある意味でサバサバした表情でオフィスから出て行くところで幕が下りる。これは、ただ単に過去にさかのぼって、生き直した結果の諦めか、はたまた、気持ちを一新しての再出発を意識したものか、いずれにしてもあの程度のことで、再出発する日々が「新しい休日」であるとするならば、結局は、道化まで登場させて行った生き直しの旅は、「なーんだ、単なる『自分探し』の旅だったのね」と落胆するしかない。

 最後に、唯一固有名詞として与えられていたはずの「汎一」という会社員の名前も、決して個人名ではなく、他の登場人物と同様、中世イギリスの寓意劇(道徳劇)の代表作品「Everyman」(万人)という、すべての人を表すEverymanならぬ「Everyone」の寓意なのだと、気付く。

(注1:寓意劇、morality play 〈道徳劇・教訓劇〉とも訳される。真,善,美,信仰,悪,虚栄,放蕩などの抽象概念を擬人化して主要人物とした宗教劇で,多くは民衆に啓蒙と道徳的教訓を与え,また人間の魂の救済を説くものである。イギリス,フランス,ドイツ,オランダなどヨーロッパの中世末期(14~16世紀)に,いわば説教にいくらか喜劇的脚色を加えたものとして栄えたが,作者は性質上たいていは聖職者であった。フランスではもとは道徳的教訓文学一般がmoralitéとよばれたが,のちにはこれらの道徳・教訓的比喩劇もそうよばれ,ときには他の宗教劇や茶番狂言も同じ名でよばれた-世界大百科事典より)
(2014年12月5日19:00の回観劇)

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