はえぎわ「ハエのように舞い 牛は笑う」

2 私が舞台の上で見たいこと(小池正之)

 その人にとって大変なできごとも、他人から見ると滑稽なものだ。重ければ重いほど滑稽になってしまう。「もう抱えきれない」と本人が必死に受け止めているのに、「何をそんなにくだらないことを思いつめているのか」と他人の目には映る。この劇は自分の重さにあたふたする人々のコラージュである。

 障子紙らしきものが張られた枠の他は何もない舞台。二人の演奏者が上下に登場して演奏の準備を始める。天井には何か仕掛けがあるように見える。と、一人の女性(ゆたか)が牛乳パックを持ち、身をくねらせて飲めない牛乳を飲もうとして今日も失敗する。ゆたかの家族が一人ずつ登場する。ゆたかは自分自身を「いなくていいひと」と感じている。母もうまくいかなかった結婚生活から自分を負け組だと思っている。一方妹は何も考えていないように見える。

 家族が住んでいるのは時折噴煙を噴き上げる辺境の島。緑ゆたかな島、というよりは、荒涼とした様子が感じられる。島の人々はいつの頃からか行われるようになったゾンビ映画のエキストラで食いつないでいる。評判を聞きつけ、都会から人々がやってきて、ゾンビを演じている。家族のほかの登場人物は島にエキストラに来た人たちと、ボウリング場、ジュースの補充という仕事をしている人たちである。多くの人たちは、今までの自分をふがいなく思い、明日に希望が持てないでいる。

 自分自身を評価できない人たち、また評価することをあきらめてしまった人たちがこの劇のテーマだ。設定となっている「ゾンビの島」というのは「いなくていいひと=社会で一回死んだ人」という暗喩なのだろう。

 一回死んだ人がどう生きてゆくか、ということであれば、どのように死んでしまったかをきちんと押さえ、それでも生きようとする姿を丹念に追うことで面白さが生まれて来ると思う。

 だからこそ、島に来てゾンビの仮面をかぶっている人たち、仮面はかぶってはいないが、自分を殺して生きている人たちが、それまでどのように生きてきたかが見たかった。さらに人々がもういちど生きなおそうとするドラマを期待してしまった。しかしそうはならなかった、あくまでもコラージュであった。人々は、自分をいやというだけで、すぐに次の人の話に移ってしまう。設定があるコントの連続といってもいい。残念ながら私は劇に入り込むきかっけをすべて逃してしまった。

 (1)「共感」について。ゆたかにとっての「牛乳が飲めない」ということは、小さいけれどとてつもなく大きな問題である。しかしそこにはリアリティーが全く感じられなかった。私にとって大変なら、リアルになるはずである。牛乳が飲めないことが、生きづらさの象徴であるから。しかし、見る者を納得させてくれなかった。「なぜそうなのか?」「そんなに大変なのか?」という気持ちを。

 劇の冒頭でゆたかは身をくねらせて牛乳を飲んでいた。ゆたかは牛乳が飲めない。飲めないことでたくさんの損をしてきた。ゆたかと牛乳は緊張関係にある。緊張関係にあるなら動けなくなるのではないか。一方ゆたかの表現は手や肩を動かす表現であった。怖いものを目の前にした表現は手足をひらひら動かすことだろうか? ゆたかのふがいなさの表現と見たが、苦悩を表すにはどうだったのか。ゆたかのくねくねした動きを見て笑う人もいたが、私が感じたのは「ひょっとしたらはいりこめないかもしれない」という気持ちだった。くねくねがおかしいでは、すこし悲しくないだろうか。ゆたかの生き方にはもっと深い悲しさがあるのではないか。舞台ではもう少し深い部分が見たかった。

 設定となっているゾンビの島はどうか。世界遺産の町やレトロ商店街と言って売り出している町がたくさんある。わが町も名水で売出し中だ。でもゾンビはどうか。これで宣伝するならマイナスイメージを覚悟の上の捨て身の宣伝だろう。きっと表立っての宣伝というよりは口コミ宣伝で広まるだろう。死んだ人が腐りかけて行き交う町がメジャー観光地になるはずはない。噴煙を上げる辺境の島が、70年代なら島にヒッピーが集まりユートピアを目指したことだろう。現代は口コミを頼りに心に空洞を持った人たちが集まる避難所。はたまたユートピアならぬディストピアか。ゾンビを取り上げるといった一見エキセントリックな設定なら、人々の心の空洞をみつめてほしい。しかし作者はそうしようとはしない。

 そう言えばゾンビというのは、もともとは呪術の話だが、バイオハザード以降ゲームの設定ととらえられている。劇の設定もゲームの設定とかわらないということだろうか。とすると、作者がゲームを舞台の上で展開していたのに、私が劇世界を求めてしまったからいけなかったということだろう。ゲームにリアルさを求めるのはお門違いだろう。ゲームで大切なのは設定である。面白いと感じた人は、設定の面白さに感じ入ったのではないか。劇はやはり生身の人間のぶつかり合いである。設定の面白さもありだが、人の心の中身とぶつかり合いがほしい。それがリアルさというものだろう。

 唯一リアルさを感じたのは兄(アキボク)である。弟(ハルボク)たちが、「社会に捨てられた」という気持ちでいるのに対してアキボクには「社会を捨てた」という主体性を感じる。謎めいた警句を吐き周囲を煙に巻く。周りの人はわからなさに手を焼き、見ている側もそこが気になる。どうやらアキボクが劇の中心であるらしい。いったい何者? どこで化けるのか? という謎に期待した。結末でアキボクが謎の生物モロタになることに、冒頭にあげた「あたふた」が深化した世界が出てくると思った。ここには共感することができた。このことはまたあとで触れたい。

 (2)「一体感」について。見るものが舞台と一体になってゆく過程には様々な仕掛けが必要である。しかし、役者の出入りの多さ、場の設定の弱さが劇への一体感をそいでいたように思う。奥行きを出すための影絵のアクションも、笑いを誘いこそすれあまり機能していなかったように思う。小さなコントを重ねてゆくならば、それを丹念に積み上げていってほしかったが、結局小さな話の連続から高まって行くことはなく残念であった。リアリズムを求めるつもりはないのだが、その場の面白さを求めると、リアルさが逃げ水のようにどんどん逃げてゆく、そんなもどかしさを感じてしまった。でも、先に述べたように、この劇がゲームの視覚化ということであるならこの設定はうなずける。でも舞台の上でゲームを見たいとは思わない。

 (3)「カタルシス」。結末で旅立ちであったり、日常への復帰であったり、物語の終りが語られる。アキボクがモロタとなった姿で現れる。アキボクは望んで世を捨てた人物である。モロタは劇中、複数の人物から、人でも物でもない謎の存在として語られている。どこか理想の存在として考えられているようにも取れる。最後にアキボクとモロタが結びつくことで、モロタは世を捨てた人がたどりつく理想の存在なのではないかと思った。世を捨ててたどりついた島も理想の場所ではない。人間でいる限りはどこへ行っても逃げられない問題がある。「食わなければならない」から。モロタは着ぐるみを着た姿で現れる。おじさんが着ぐるみを着ている姿と、仙人のような真摯な存在のギャップが笑いを誘う。しかし何か笑えないものが残る。

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は有名な言葉だが、修身の教科書に掲載されることで広まったという。賢治が課題山積の農村改善活動を通しての中で感じたことがいつしか劣悪な環境の中でも頑張ることが大切という論理にすり替えられた。モロタの存在はこの裏返しのような気がする。頑張らなければならない社会から抜け出すには、もう人間やめるしかないじゃないか、というように。モロタは動物なのではなく、人間を越えた「超人」なのだろうか。「超人」が着ぐるみ。これは痛快じゃないか。「超人」は理解されない。一般社会から見れば無能者。しかも肉を拾って食っているらしい。

 こんなことを感じ始めていたのだが、どうやら自分だけの妄想で、作者の意図とは違っていたらしい。なぜならその場はすぐに中断され、全員の乱舞で終わってしまうからである。かつて別役実は「天才バカボンのパパなのだ」で不条理の後全員で歌うことで劇を終りにした。これには私たちが生きる世界への異議申し立てであったと思う。しかしそれは物語がきちんと語られているからこそ効果的なのであって、詰められていない物語に乱舞では、中断としか受け取ることができなかった。

 「ハエのように舞い、牛は笑う」には、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」ことのできない人たちのために、という寓意がこめられているのだろう。小兵であることを武器にしたモハメド・アリ、さらにそれを裏返しにした作者。だからこそ、舞って、笑い飛ばしてほしいという意図があると思う。自分を評価できない人々、一度死んだ人がゾンビを演じるという設定、記憶を選んで捨ててゆくという一つ一つの断片は魅力的だ。しかし役者の身体を通して、再構築しようという意思はあまり感じられなかった。やはり、劇を作るというよりは、舞台上でゲームを行うということであったのだろうか。繰り返すが、私は舞台上でゲームを見たいとは思わない。ゲームは独りで楽しむものである。
(2014年8月26日19:00の回観劇)

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