はえぎわ「ハエのように舞い 牛は笑う」

3 見えない闇を、見せられた。(酒井はる奈)

 悲しみ、疑い、羨望、戸惑い、後悔―。人の心の奥深くに閉じ込められ、マグマのように渦巻くさまざまな思い。ゆらぎながらふくらみ続ける衝動。それは当人ですら明瞭には見通せないけれど、たしかに、そこに在る。
 はえぎわの15周年を飾る『ハエのように舞い 牛は笑う』は、そんな人の心に潜む見えない何かを、不可解な心の在りようを、群像劇とシンプルな舞台装置で可視化してくれた。120分で自分の心の深淵まで連れて行かれ、そのまま放り出されて迷子になったような体験だった。

 この作品で描かれるのは、100年前に大噴火を起こし、10年後には再噴火を起こすと言われる島、桜が島の人々。再びの爆発に向け、じわじわと地中にマグマをためこむ島の存在は、どこか不穏な人々の腹のなかを象徴するようだ。

 物語は、桜が島に住む、なにもかもが中途半端な冴えない娘・ゆたかと、その家族を中心に進んでいく。母と2人きりで暮らすゆたかの家に、別れた父と東京で同居している妹が、夏休みを利用して里帰りしてくる。楽しげなようで、ぎこちない3人のふるまい。胸のうちになにを隠し、こらえているのだろうか。いつか必ず起こる桜が島の噴火のように、3人の感情がほとばしる日がくるのだろうか。
 そんな危うい予感を秘め、母娘3人の毎日が始まる。

 物語は、ゆたかの一家のエピソードという縦糸に、島の人々の間で巻き起こるさまざまなエピソードを横糸として幾重にもくぐらせ、複雑な人間模様を織り上げながら、展開していく。正直なところ、序盤はそれぞれの人物達の背景も事情も理解できないまま、断片的な場面がつぎつぎと転換され、どんどん進んでいる(らしい)ストーリーに取り残されたように感じてしまう。

 そこで集中力を削がすに舞台へと引き戻してくれるのがライブ演奏される劇中音楽だ。ステージの両サイドで、登場人物の一員のように絶妙なタイミングと存在感をもって奏でられる生楽器のメロディ。ギターの弦がはじけ、ドラムの革がささやくようにふるえる“生”ならではの振動が、舞台を所狭しと駆け回る人物達の息づかいと足音とどんどん共鳴し、オーケストラのように心地よい広がりを持ち始める。ストーリーは分からないなりに、舞台の流れに身を任せることが心地よくなっていく。

 そのピークが海と波のシーンだった。泳ごう、泳ぎたくないと、彼女とつまらない言い合いを始めるカップルの男を、わっと現れた十数人のキャストたちが取り囲み、波に化け、さらっていく。波を表現する舞台装置は、人間のみ。でも私の目には、浜辺に寄せて、海の彼方へ返っていくビッグウエーブがたしかに見えた。その時点でストーリーはまったく意味不明。しかし劇団の表現力に圧倒され、この人たちはこれから何を見せてくれるんだろう、理屈や筋はさておいて、自分も彼らの波にさらわれてしまえばいいのだと、力ずくで納得させられた。

 物語が進むにつれて、バラバラに散らばったエピソードがつながりだし、ステージが活気を帯びてくる。一方、ボルテージが上がるほどに暗い存在感を増したのが、舞台と客席との間に横たわる深い溝だった。ボーリングの球や自動販売機の缶など、ずっしりとした重さをたたえた物が舞台から放り出され、目の前で音もなく吸い込まれるように溝の奥へと消えていく。それは人々のさまざまな思念が潜在意識の底へと深く沈んでいくようにも見え、島の地下深くに潜む得体の知れない闇を感じさせる。

 ゾンビの仮面を脱げない男、妹、そしてゆたか。にこやかだった人々がひとりずつ悲しみの声をあげ、心の奥底で押し殺していた涙を流すたび、深い溝の向こうにある見えない闇の存在がクローズアップされ、物語が加速していく。舞台の下でぱっくり口をあけている暗い空間と同じように、私たちという人間の中にも得体の知れない闇があり、さまざまな思いを吸い込んでいる。登場人物が感情をほとばしらせる瞬間、吐き出された見えないはずの思念が、闇の中から噴煙が噴き上がるように、この目に映るのだ。

 以前、富士山を歩くトレッキングツアーで、樹海の地下にある火山洞窟に入ったことがある。シダや苔がびっしり生えた溶岩の狭い裂け目から、ヘッドライトの小さな灯りを頼りに地下へ潜る。ゴツゴツした岩の間を奥へ奥へと深く降りていく。少し広い空間に出たところで、ガイドから指示されてライトを消した。まったく光のない“洞内の本当の姿”を体感するためだ。とたんに真っ暗な闇に飲み込まれた。

 真っ暗だから、何も見えない。何も見えないぶん、自分の五感が捉えている空間の濃度がギュンと濃くなって、息苦しいぐらい重くなった。火山岩と鍾乳石しかなかったはずの空間に、得体の知れない何かが充満し、私を圧迫する。自分が立つ場所さえ不確かになって、戸惑った。闇に視界を閉ざされることで、さっきまでは普通に信じられた自分の感覚と存在が、急にその確かさを失って揺らぎだしたのだ。「見えない」ことが、どれほど自分の感覚を増幅、あるいは暴走させてしまうのかを知った。

 舞台に仕込まれた溝は、あのときの洞窟の闇を思わせる。
 自販機から飲み物を盗りたい、家庭や仕事から逃げ出したい、好条件の職場に移りたい、エロい異性と交わりたい。どれもありふれた願望だ。軽くコミカルに演じられたなら、人間の愚かな欲の描写として、笑って流せる。
 だが、意味がよくつかめない、暗く深そうな溝を隔ててそれらの営みを眺めたとき、登場人物たちのあらゆる行動に、誰もが抗えない暗い衝動、本人にすら把握しきれない破壊的な潜在意識を透かし見てしまうのだ。それはつまり、舞台と自分の間にある見えない闇が起爆装置となり、私の奥底にある暗い感覚が揺さぶられた、ということかもしれない。

 桜が島に潜むマグマ、あるいは深い闇の磁力は、さまざまな男たちの潜在意識を刺激し、狂わせていく。あらゆる記憶と関係を捨てて地底へと消えていった男、欲望に誘われるがまま“天”へと昇った男、地底から吹き上げるように現れた無数の缶の狭間で夢見る男。島の妖精・モロタは、人々の狂気と闇が結晶して命を得たような存在か。
 そして、狂う男たちの混沌を突き破るように、少女たちは、この瞬間の先へと歩き出す。

 暗転した舞台に白くまぶしく射し込むスポットライトが、盛装したゆたかを照らし、ベースとシンバルが荘厳な音を奏でる。作品の冒頭と同じ光景だ。光の中のゆたかは、ハイスピードカメラで捉えた映像のようなスローモーションで、グラスに入った牛乳を表情豊かにかかげる。するとその他の登場人物が一列になって現れ、ゆたかを取り巻きながら踊り始める。

 あんなにも牛乳を飲める自分を欲し、努力し、挫折してきた彼女が、この上なく感動的なシチュエーションで、いよいよ困難を克服するのだ! 敬愛する父の不在を母のために耐え、友人を助け、悪夢にうなされる想い人を救った、不器用でけなげな主人公のクライマックスらしきシーンを、観客は息をのんで見守る。
 が、しかしである。少女のしかめ面とともに牛乳は口もとを素通りし、液体は顔に衣装に床に飛び散る。地底でふつふつとたぎる黒々とした闇と拮抗するように、辺り一面にぶちまかれる白いしぶき。

 中途半場で冴えないゆたかの苦悩は、なにひとつ解決されなかった。たかが牛乳を飲むことですら。でもきっと彼女はこれからも何度でも、懲りずに全力で挑み続けるのだろう。その傍らで、高校生の妹は宿した子供を産むことを宣言する。ときに涙を流すことはあっても、苦悩や重荷をあっけらかんと背負おうとする姉妹。彼女たちが振りまく、はじけるような生命のエネルギーは、スポットライトを浴びて輝く白いしぶきのように、見えない地下に横たわる闇を照らし出す。

 けっきょく大噴火は起こらず、モロタが現れ、血なまぐさい何かを喰らうだけ。散らばった伏線を拾いきることもなく、観客をはぐらかすように物語はぷっつりと終わってしまう。なんの解決も結末もなく、ただそこに闇と光がある。決して姿を見せない闇と、まぶしい光と、その間でジタバタと生きる人々の残像が、がらんとした終演後のステージに残された。

 シンプルな装置と役者の熱量のみで、観客に見えないものを見せ、無限のイメージを引きずり出す。記録媒体には絶対に残せない、舞台と地続きにある自分もろとも見知らぬ闇と光の中へと取り込まれる感覚。ほかの表現には置き換えられない“演劇的”な刺激をとことん味あわせてくれる作品だった。
(2014年8月28日19:00時の回/8月29日19:00時の回観劇)

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