ハイバイ「て」

1.その「て」で持ちあげて感じた「重くてバランスの悪い棺」(小泉うめ)

 ちょうど少し前に祖母の十三回忌法要を行ったところだった。祖母は98才で亡くなった。「100才になったら知事さんから表彰してもらえるから、それまでは頑張る」と祖母はいつも言っていた。それが叶わなかったことは、かわいそうであったし、無念であったろうと思う。だが、その年齢まで生きて、最期も入院するような病気をすることもなく、ある朝静かに自宅で息を引き取ったことは、今時稀な大往生だと思っている。

 そんな祖母の十三回忌ともなると、しんみりしたのは寺で住職がお経を唱えてくれて、私たちが焼香をあげる時くらいのもので、後は様々な思い出話の花が咲き、賑やかなことこの上ない集まりだった。
 従兄仲間で一番年下だった私が大学に進学して家を出てから、親族が一堂に会するようなことはほとんどなくなっている。あるとすれば、このような誰かの葬儀か法事の時くらいなものである。皮肉なことではあるが、集まった者たちで、そんなことを少し苦笑して、集まる機会を作ってくれた故人に感謝している。勝手な想像であるが、故人もきっとそれを喜んでいるであろうと納得している。そんな最近の出来事を思い出しながら、この舞台を見つめていた。

 ハイバイ10周年記念公演は、彼らの代表作とも言える「て」の再々々演である。作・演出の岩井秀人が岸田國士戯曲賞を受賞してから、初めての公演でもあった。
 ちょうどその選考会は、ワンダーランドと東京芸術劇場共催の劇評セミナーの合評会の夜でもあり、その終了時に観劇仲間と岩井の受賞を知った。

 「最近は優秀な作家が多くせめぎ合っているので、岸田賞はどうしてもある程度評価を得てからでないと受賞できないような傾向にある」というようなことを話しながら帰ったことを覚えている。だから結果的に「今受賞するのなら、あの作品の時にあげても良かったのに」と感じるようなことが、これまでにも少なからず起こっている。
 この「て」という作品は、まさに岩井にとっての、そのような作品の一つだと考えている。そして再演を重ねて、その完成度は極みの域に到達していると言えるだろう。

 開演時には舞台中央に棺が置かれており、その上に木製の手が置かれている。その光景はシンボリックで、開演前の時間で色々な空想をさせてくれた。
 4隅には天井から柱が吊り下ろされているが、それは床には届いておらず、この家の不安定な感じを醸し出している。焼けて黒くなったものもあり、その崩壊をもイメージさせる。見上げるとそれは天井とも繋がって大きな食卓のようにも見えているが、やはりアンバランスだ。
 客席は舞台を挟んで両側に配されていた。時折見かける配置であるが、これは単に両側から全て見せるということでなく、本作では劇中にこの配置にドキリとさせられることになる。

 物語は、この家族の祖母・井上菊枝(永井若葉)の葬儀から始まる。牧師(小熊ヒデジ)が葬儀の説教で自分と菊枝のつながりについて語る。「菊枝は北海道の小樽生まれ、牧師は北海道の函館育ちで、小樽の友人が菊枝の実家が経営していたホテルのことを知っている」という繋がりがあると言う。確かにかろうじて繋がっているが、果たして葬儀で因縁として語るほどの繋がりかというと、いささか不自然である。子どもたちが、それを聞いて葬列の後方で、文句を言ったり、笑ったりしている。
 この奇妙なプロローグから、「人と人が繋がっている」とはどういうことなのだろうかという考えを起こして、この物語にチェックインした。

 菊枝は認知症を患っており、娘の通子(岩井秀人)が中心にその家族で世話をしていた。通子には主人(猪股俊明)との間に、4人の子どもがいる。時折全員が集まることによって、祖母の菊枝を元気づけようというのが、この家族のルールのようなものになっている。しかし、成長した子どもたちは必ずしも全員がそれに賛同していない。

 長男・太郎(平原テツ)は成人して独り立ちしているが、家族のことにはあまり関心がない。
 長女・よしこ(佐久間麻由)は静岡に嫁いで、家族とは離れて暮らしている。
 次男・次郎(富川一人)は、祖母の世話も手伝っていて、家族を何とか盛り上げたいと思っている。
 次女・かなこ(上田遥)は、バンドでギターボーカルをやっている。「家族みんなで仲良く」というムードに、どうも乗りきれなくなっている年頃のようである。

 よしこが、帰省してきて家族を盛り上げようとしたり、頼りない兄弟に注文をつけたりする。けれども日ごろから家にいる兄弟にとっては、たまに帰って来て言いたいことを言うよしこが少々煙たいようである。
 同じ親から遺伝子を受け継いで先天的に共通部分のある兄弟が、それぞれの個性や歩み始めた道で、別々の人間に成長していることが提示される。

 子どもたちの誰かに孫でも出来れば、この家もまた少し変わるのかもしれない。家に孫がいれば、父や母の気持ちの晴れることも多くなるだろうし、離れて暮らしている子どもにとっても里帰りしてくることへの楽しみはきっと増すことだろう。だが、残念ながらこの家族は、現在一応のおとなばかりで構成されていて、まだそういう段階にも至っていない。

 「家族」というものを、様々な対比から考えさせるために、葬儀の席でいきなり家族と繋がろうとしてくる牧師の他に、数人の登場人物が用意されている。
 1人は、よしこの夫・和夫(奥田洋平)である。彼は世の夫の中でも、特に優秀な夫と言えるだろう。これから嫁の家族の方へ引っ越して暮らすことを全く嫌がらずに受け入れようとしている。人当たりも良く、父母からの評判もすこぶる良さそうだ。社会的には、この家の新しい家族ということになるだろう。しかし、当然そこに血の繋がりはない。

 もう1人は次郎の友人・前田(高橋周平)である。彼は次郎の仲の良い友人で、そのじゃれ合う姿はまるで兄弟のようでもある。母の通子からも可愛がられており、家族のようにこの家に出入りしていて、菊枝の葬儀にも参列することになった。だが、彼は家族のような存在だが、家族ではない。

 このような後天的な環境による繋がりで、家族かもしくは家族のような人々が「どれ位まで家族の一員になり得るか」そして「どこから先は入り込めないか」ということの細かな表現も、この舞台の見所であった。

 そして、2人の葬儀屋(青野竜平・用松亮)がいる。やはり彼らの存在は、家族から最も遠い。彼らは所々でコミカルな動きを入れて笑いを誘いながら、家族の輪の中に入って来る。しかし、基本的には故人の死を厳かに、かつ粛々と受け止めていて、家族の外から菊枝の葬儀を見つめている。そういう一番外側の部外者として、この葬儀屋はその仕事の通りに配置されていた。

 この辺の感覚は、例えばこの家族の家系図を描いてみたり、また多重の円を描いてその中にそれぞれの登場人物を、通子を中心にしてプロットして、その距離を考えてみると、より分かりやすいだろう。こういった丁寧に吟味して選ばれた登場人物の構成からしても、この「て」という戯曲は実に見事に計算されている。

 岩井による通子の演技は、少し物語が停滞しそうなところで、とてもタイミング良く現れて奇妙な行動を取ってガラッと空気を変える。女装をしているので、その効果も大きい。頭上から鳥に糞をされてみたり、それを更に汚れたもので拭いてみたり、またカラオケのシーンではいきなり部屋に飛び込んでスキャットマン・ジョーンズを歌ったりする。
 訳の分からないことをやる面白さなのだが、この笑いが説明不足で断片的なことは、ただのナンセンスギャグではなくて理由がある。

 途中大きな舞台転換が行われる。大きな舞台装置はないので、ドアの位置、菊枝のベッドを移動させて、2方向の客席に対して表裏を入れ替えるような転換だった。折角、両面に客を入れたのだから、後半はそれぞれに反対側の演技を観てもらおうという趣向かと思った。
 だが、演技が再開されてしばらくして、その真の理由に気がつく。その後の物語が再び最初から始まっている。「流行りのループか」とも思うが、それとも違う。語り手が交代した。前半の物語は子どもの次郎が見ていた家族の光景であったことに対して、後半は母の通子の見ている光景に代わっているのだ。だから、同じ物語が進むが、随所に前半と後半で同じ事象に対する見方の違いがあることに気がつく。前半では、どうも理解できなかったことが、通子の視線を通すことで次々と明らかになって行く。冗談のようなシーンの中に、母の愛情や優しさが満ち溢れていたことに驚き心を揺さぶられる。

 客席を飽きさせない演出としても巧みであるし、後半に来て更に客席をグッと強く引き付ける効果も大きい。
 ふざけて女装して母親役をやっているのかと思っていた客にも、岩井が客席にその身を乗り出して自らの家族論を語り始めるようだった。

 家族が集まったところで、父はカラオケでオハコの井上陽水の「リバーサイドホテル」を歌う。良く知られた名曲ではあるが、歌詞はラブホテルを舞台にしたシュールで難解な内容である。お父さん世代にはカラオケで人気の曲だが、家族のパーティーで歌うには少々似つかわしくない選曲である。それを、父は家族の聞くも聞かないも関係なく、淡々と歌いあげる。この家族の中で、父が浮いた存在になっていることが表現されている。
 この家は井上家のものであり、また父はどうやら家にはお金を入れていない。家族の空気を気に留めることもなく歌い続ける父に、ついに次郎がキレて取っ組み合いの喧嘩が繰り広げられた。

 また2回目のこの場面では、家族が舞台のサイドに集まって肩を組みながら、この曲を合唱する。「この家族愛とは何の関係もない曲を、家族が一緒になって歌いあげれば、感動を呼ぶことができるだろうか」という実験を見るようでもある。そのような立ち位置なので、この時は役者たちは両面の客席に対して誰も背を向けず、全ての客に顔を見せて立っている。
 本当はしらけたムードなのだが、それが通子には子ども達が集う幸せな宴に見えている。全員が満面の笑みで大声でこの理解しがたい歌詞の曲を歌う。通子は主人がこの歌を歌う時の妙な癖も、愛おしくて仕方がないのだ。

 すると悔しいことに、その光景に心動かされてしまうではないか。この時は言葉もメロディも関係はない。ただ「この家族が一緒になっている姿」に、まんまと共感させられてしまった。「どうしてリバーサイドホテルで家族愛を感じてしまうんだ」と苦笑しながら、目頭を熱くしてしまう。自分で自分の複雑な感情が理解できなくなってしまうような感覚は、「これぞ、ハイバイ・ワールド」と、少し冷静になってから肚落ちさせた。

 宴が終わって子どもたちが引き上げた後で、通子は夫に離婚を切り出す。父は自分勝手に生きて来ており、これまでならばそんなことを言われても気にも留めることはなかっただろう。しかし、成長した子どもたちからののしられた後のタイミングで切り出されると、仕方なく「そうするか」と受け入れそうになる。だが、その様子を見た通子は、逆に「別れたら済むの」と問いただす。通子は決して離婚をしたいのではない。
 夫婦というものは、養子縁組を除けば、家族の中で唯一血の繋がっていない関係でもある。しかし、結婚して子どもをもうけて育て上げ、永年一緒に生活してくれば、その内容がどうであっても、その家族の最も強い繋がりとなっており、やはりその家族の「核」なのである。

 それを見ていた祖母の菊枝が、ずっと持っていた木製の手をベッドに置いて、舞台からゆっくりと立ち去って行った。それは菊枝が天に召されていくような光景であった。そして、この木製の手が、家族を支えるバトンのように、菊枝から通子に渡されるようでもあった。
 通子は立ったまま泣いている。子どもたちが現れて通子に喪服を着せる。子どもたちが、母に寄り添い、母を助けるような姿だった。その過程で、通子の涙が、ふがいない夫に対してのものから、死んだ菊枝に対してのものへと移って行った。

 終幕時、再び場面は菊枝の葬儀に戻り、子どもたちがその棺を持ち上げる。太郎が持ち方の「バランスが悪い」と、かなこを叱る。怒鳴る太郎を、よしこがたしなめる。火葬炉に入れる時には、かなこが「重たいよ」と甘えた声で言う。
 この時、子どもたちがフラフラしながら一生懸命持ち上げていた「重くてバランスが悪いもの」は、祖母の棺であると同時に、この家族だったのだと感じる。
 なんだかんだと言われながら中心を支えようとする長男や、嫌がり甘えながらも頑張る末っ子、バランスが崩れそうになるとそれを修正しようとする長女。冒頭のシーンから、妙な牧師の反対側で、そんな兄弟の力を合わせる姿を次郎は感じていたのだということに、この時に気付く。

 いつも安定している家族なんて、きっとなかなかないものだ。子どもたちは成長すれば、考え方も違ってくるし、違う道を歩んで行くようになる。それでも一族として否が応にもこうやってフラフラしながらでも支え合っているというのが、岩井が捉えている家族像なのだろう。子どもの頃の自分が見ていた家族と、おとなになって母の気持ちがもう少し分かるようになってから考えた家族、2つの視点から立体的にそれが示されていた。

 棺が火葬炉になかなかうまく入らないので、最後はその口論に父も母も混ざって、家族が口々に言いたいことを言いながら暗転となる。それでも更に続く言い合いに、客席からはクスクスと笑いも起こっていたが、同時にすすり泣きも聞こえていた。
 演劇の楽しさの大切な要素である「観客がその作品を自由に捉える権利」が終始守られていた証拠だろう。笑いが取りたいからと言って決して妙なオチをつけようとしたりしないし、逆に力づくでお涙頂戴ものに持って行ったりもしない。そういったことも岩井の作風はいつも首尾一貫していて、観劇帰りの後味が良く余韻も長い。

 暗転の刹那、自らの家族のことを考えていた。帰省の際に再び家を出る私を見送る両親の姿を想い出したり、また自分がいない間の実家での家族の暮らしのことを想像したりしていた。
 でもそのイメージも、私のものと私の家族のものとは、また異なるものなのかもしれない。
(2013年5月25日14:00の回)

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