「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ構成・演出「わたくしという現象」、飴屋法水構成・演出「じ め ん」)
「無防備映画都市-ルール地方三部作・第二部」(作・演出:ルネ・ポレシュ)

◎「無力」なる観客 「無力」なる人間-「宮澤賢治/夢の島から」
 間瀬幸江

 日本と「西洋」、自然と科学技術、人と宇宙、人と動物。二つの異なるものの接するところに目を凝らし続けた作家、宮澤賢治のテキストをもとにして、飴屋法水、ロメオ・カステルッチがダブルビル上演を行った。F/T11のオープニング作品、『宮澤賢治/夢の島から』である。かねてより宮澤賢治の世界観に親しんできたという飴屋作品のタイトルは『じ め ん』。「地面」でもなく、「じめん」でさえない、ふたつのスペースによって切り離された三つのひらがなの並びは、2005年の『バ  ング ン ト』展 や2008年の『転 校 生』 を想起させる。また、夢の島の多目的コロシアムを会場としたのは、飴屋の発案によるという。一方のカステルッチは、詩集『春と修羅』の序の冒頭で宮澤賢治が用いた表現「わたくしという現象」をそのまま作品のタイトルにした。「わたくし」ではなく「わたくしという現象」と呼ぶ他はないそのつかみどころのない何かを、宮澤賢治は詩の中で「あらゆる透明な幽霊の複合体」「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」と、さらにわかりにくく言い換えている。

 3月11日の東日本大震災とそれが引き金となって起こった福島第一原子力発電所の事故のあと、私たちは、一人称で語ることをためらっている。もともと日本語の一人称は英語の「I」「we」とは異なり、その実体は発語のコンテクストによって異なる。そしてこの場合の発語のコンテクストすなわちこの大災害をめぐる体験は、人の数だけある。共有するのはまったく簡単でない。自分本位の発言が、異なる体験や思いに苦しむ他者を傷つけることになりはしないかと思うと怖い。だから口をつぐむ。皆がそうすることで、ますます誰も何も語れなくなっていく……。

 実を言うと、今年のF/Tのテーマ「私たちは何を語ることができるのか?」を耳にした当初は少々驚いた。「あたらしいリアルへ」「リアルは進化する」「演劇を脱ぐ」と続いてきたキャッチーで簡潔なコピーに比べると、あまりに凡庸ではないか。あまりに感傷的・散文的に過ぎるのではないか。しかし、そのオープニング作品である『宮澤賢治/夢の島から』を観て腑に落ちた。語ることがこれほどに難しくなってしまったからこそ、私たちは、語るための形式を作り直すところから丁寧に始めるしかない。「わたくしという現象」のありかを探すためには、散文的で凡庸な、いかにも無力な営みを続けるほかはない。この作品は、「無力であること」を選び取ろうとするひとつの意思表示であると感じた。そして、それをメッセージとしてあえて「散文的」に発信したのが飴屋法水であったのだし、その「凡庸さ」を壮大なスペクタクル性で包み込み相対化したのが、ロメオ・カステルッチであり、両演出家の共同作業の成果としての典礼性であったのだと思う。

 始まりから、それは祝祭性を帯びた典礼の様相を呈していた。観客は、広げれば2メートル以上ありそうな大きな白旗を一本ずつ手渡されたあと、すり鉢状のコロシアムの外周を、4列に並んで行進させられる。コロシアムの真ん中に数百にも及ぶ白い椅子が教会のミサを想起させる巨大な正方形を形作っているのを眺めつつ、生い茂る緑に脚を取られながら進む観客は、意識するとしないとにかかわらず、儀式の傍観者のではなく、儀式の参加者の立場へと誘導されていく。白い椅子の連なりの最前列の真ん中より左側の一席に、ポツリと少年が座っている。ようやく観客がコロシアムの片側にまとまって着席を促されたあと、おそらくは観客の持っている白旗と同じ素材のヴェールを身にまとった飴屋法水が、オリンポスの神を思わせるような佇まいで少年のところへ歩みより、その白いマントを身体から外し、少年の細くて小さな身体を包み込む。白いヴェールからのぞく少年の顔の部分が影になり、黒いマリアを連想させる。ほどなくして、整然と並べられた真っ白な椅子が、ひとつ、またひとつと、静かに傾きはじめたかと思うと、すべての椅子がごろりごろりと動き出し、正方形のまとまりがなしくずしに向かいのトラックへと後退を始める。絡み合う椅子の脚の白さが、波に飲まれる人間や動物の手足に見えたり、流される廃材や電信柱に見えたりと、東北地方を襲う津波の潮のイメージが、観客の脳裏にはっきり浮かぶ。少年の座っている椅子だけがなぜかこの「天災」を免れぽつんと残される。やがて椅子は対岸のトラックに、まるで津波の爪痕をそのまま残すかのようにまとまっていく。

「わたくしという現象」公演の写真
【写真は、「わたくしという現象」公演から。撮影=片岡陽太©  提供=F/T2011 禁無断転載】

 「対岸の火事」よろしくうごめく椅子の動きの造形に無防備なまでに見とれることができるのは、それが震災の当事者すなわち日本に活動拠点を置くアーティストによる作品ではないというそのことが、観客にとっての「免罪符」になっているからか。ところが、その「対岸」のほど近くに、死者を思わせる白い衣装の人間たちがバラリバラリと転がりながら現れ、やがて彼らが、グレゴリオ聖歌らしき荘厳な調べが鳴り響くなか、「こちら」すなわち観客のいる側へと幽霊のようにふわりとした歩みを進め、コロシアムの中心に方形に固まったあと、白いヴェールを脱いだ少年が黒い衣装で方形の中へと吸い込まれ(人でできた方形とそれに吸い込まれる黒い玉の形象は、卵子と精子の結合の瞬間を思わせる)、白い人々がビリヤードのブレイクスルーの瞬間のようにコロシアムに散ってゆき、少年の身体が青緑色に塗り固められるのを目撃するとき、観客は単なる「対岸」の傍観者としての立場に安穏ととどまってはいられなくなる。かくして、方々に散った人々がゆっくりとフラッグを振り回し始めるや、取り憑かれたかのように、多くの観客が立ち上がり、それまでじめんに敷いていた白いフラッグを静かに振り始めるのである。促されはしたが命令されたわけではまったくないにも関わらず、自分の背丈をはるかに超える大きなフラッグを振ることに、数百人が同意するのである。そして、宮澤賢治の見た光を思わせる青いレーザー光線が、観客の頭上を高く超えてアーチを描いて、カステルッチ作品は終わる。

 しかし、フラッグを持ち上げ、頭上でたなびかせることに抵抗を感じた観客もいたに違いない。「対岸」の文化圏に出自を持つ様式によって表象された震災による被害と葬送との「造形美」に抗い難く魅せられ我知らず旗を振ることに、何か釈然としないものを感じたり、さらには、あてがわれたフラッグを憑かれたように振る人間の群れに、全体主義的なイデオロギーの萌芽を見たりする向きもあったろう。そして何よりも、この多目的コロシアムにも放射能が降り注いだはずだとの警戒心は、私たちの脳裏を去ることがない。

 3月の終わりからずっと、関東から東北に暮らす人々の多くが、「じめん」を恐れている。『じ め ん』で飴屋から唐突にその名を引用された椹木野衣は『バ  ング ン ト』展のキュレーターであったが、この展示企画に参加したアーティストにはほかにノイズミュージシャンの大友良英がいる。多感な十代を福島で過ごした大友が中心的役割を担って今年の8月15日に福島で開催されたフェスティバル(2011年10月9日夜10時放送のNHKのETV特集は、このフェスティバルの特集番組である)は今なお記憶に新しいが、大友はここで、被害者である福島の人々が加害者になってはならないとの意思を表明すべく、フェスティバルの会場である「四季の里」の地面に色とりどりの「大風呂敷」を広げるプロジェクトを敢行した。主旨に賛同した多数の人々によって届けられた風呂敷を一つ一つ縫い上げた、文字通りの「大風呂敷」である。風呂敷の上を歩けば直に地面を歩くほどには放射能が靴に付着しないから、そこにある放射能が別の場所に運ばれる危険を最小限におさえられる、との判断に基づくアート作品であった。しかし『夢の島から』の会場となった多目的コロシアムでは、地表に広げられた地面に一度置かれたか敷かれたかした白いフラッグが、高く掲げられた。フラッグの白いシートが人の顔にあたるほどの高さに、掲げられたのである。降り積もった放射線に関しては、東京なら安全で、福島だから安全ではないといった単純な図式化にはほとんど意味がないと、すでに複数の専門家が指摘している。振られるフラッグに不安を感じる観客がいたとしても不思議はない。

 20分の休憩を挟んで披露された飴屋法水の『じ め ん』は、こうした「不安」を漠たるものとして放置するのではなく、むしろその「不安」の正体を顕在化させ観る者に突きつけるラディカルさに満ちていた。

 『じ め ん』で飴屋は、神話の世界から抜け出たような両性具有性を感じさせる少年(飴屋と少年が並ぶと、まるで同じ人間の過去と現在、あるいは現在と未来の姿が、並置されたかのようであった)に、つぶやくように「穴を掘ります」と言わせ、地面に小さく穴を掘らせた。そして、夢の島が「夢」ではなく「ごみ」でできた場所であると明言させた。また、シートの敷かれていないコロシアムのトラックの上、自身の娘を含む7~8人の子供たちを行進させた。飴屋自身も、ものすごい勢いで地表を掘り返したり、何度もでんぐり返りをしたりした。さらには、火葬が主の日本とは違い土葬が主流の国に出自を持つカステルッチ本人に、家族の墓参りに行ったことがあるかと問い、「行ったことは全くない」と回答させた。総じて、地表と人間との関わりや地表との物理的接触に関する内省を観客に促すかような演出が随所にばらまかれていた。

 他方、作品としての統一感は『2001年宇宙の旅』、『猿の惑星』、『日本沈没』など、著名な映像作品に依拠することによってかろうじて維持されており、最後は、モノリスに見立てられた巨大なボードの下に飴屋本人が下敷きとなった後で、その上を子供たちがくるくると行進して終わる。上演の途中では、ラジウムを発見したマリー・キュリーらしき人物が登場し何かつぶやくのが聞こえたり、戦争責任を問われたある日本人による釈明らしき音源が流れたり、爆弾かあるいは巨大な判子(判子と核とが無関係ではないことに、私たちはもはや気づいてしまった)を思わせる透明なアドバルーンと、それにくくりつけられて空を移動する黒くつぶれた果物のような球体が浮遊し続けたり、父親が東電の社員であったと「告白」する飴屋本人のとつとつとしたつぶやきが響いたり、モノリスをスクリーンがわりに映写される、日本が消えている2051年の世界地図のイメージにぞっとさせられたり(ここでマレーシアに移住したとの設定の椹木野衣が「引用」される)する。ライバルをたたき殺すための道具として類人猿に用いられた動物の骨と、核を開発した人類が飛ばす2001年の宇宙船とが不気味にリンクするキューブリックの謎かけが、飴屋によって仕掛けられたこの「核の時代」にまつわる連想ゲームに波及する。

 もはや放射能と切り離しては考えられない「じめん」と人との関わり合いと、核をめぐる虚構の物語への言及によって構成されているこの飴屋作品をしかし、観客は断片的にしか目撃できない。コロシアムは大きく、そこを行ったり来たりする出演者の身体は小さい。キュリー夫人のつぶやきも、戦争犯罪人らしき人物のつぶやきも、地表をスコップで小さく掘り進める少年のつぶやきも、コロシアムの空気にかき消されてすべて聞き取ることはできない。モノリスとアドバルーンの存在感は確かだが、それさえも、一体いつ登場したのだったか、正確に思い出せないという観客は少なくないだろう。

 リニアに流れていかない寓話の欠片の連なりが、作品の統一的な解釈を拒んでいる。観客が記憶できるのは、この作品の断片でしかない。意味を読み取り把握したいと思うほどに、それができない無力さに、観客は対峙させられる。スペクタクルをごく微視的にしか把握できない観客は、仲間を殺す太くて硬い骨から人類全体を危機に陥れる核の時代までの歴史の流れに抗えずに生きるしかない人類のすがたに、似ている。私たちは、臭いも色もない放射能に対しても、大きな歴史の流れに対しても、余りにも無力である。倒れたモノリスの上を進む無垢なる子供たちの歩みは、3月よりも前なら、かすかな希望の表象として理解され得たかもしれない。しかしそれなら、横倒しになって地表を覆うモノリスの上ならばなぜ希望をもって歩めるのか? 実はそれさえも、今の私たちには分からない。オリンポスの神は、モノリスの下敷きになって消えてしまった。その消滅が、新たな歩みの礎になるのかどうかのヒントさえ与えずにである。残された無力な観客=人類は、モノリスに導かれることなしに、次の一歩を踏み出す他はない。極めて逆説的だが、残された希望は、「無力さ」の中にしかない。

 東北の大震災と、震災後に日本を震撼させた(ている)福島第一原発の事故に対して、被災者は、非被災者は、あるいはその家族は、日本は、世界は、どのような角度で、どのような視線を、どこを起点にして注いでいるのか。そしてその視線は、どのように交錯するのか/しないのか。自分は、この未曾有の大災害の当事者なのか、それとも他者なのか。こうした一連の問いが不安定な暴走を続けている現状が、感傷的で散文的な飴屋作品と、壮大で、スペクタクル性に富み、巨視的なカステルッチ作品の連結によって示された。そこにはもう、手軽な夢もないし、ましてや幻想もない。かすかな希望はその存在を肯定も否定もされないままに、私たち無力な観客の前に、不安定なまま放り投げられている。
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