「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ構成・演出「わたくしという現象」、飴屋法水構成・演出「じ め ん」)
「無防備映画都市-ルール地方三部作・第二部」(作・演出:ルネ・ポレシュ)

◎ドイツ演劇初体験記ー脳内で地球儀が回る-「無防備映画都市-ルール地方三部作・第二部」
 クリハラユミエ

 人生で多分2回目、外国語 で上演される演劇を観てきた。何の前知識も準備もなく。「無防備映画都市ールール地方三部作・第二部」。

 作・演出はルネ・ポレシュ。1962年生まれ。公演を主催したフェスティバル/トーキョーのプロフィールによれば、ベルリンのフォルクスビューネなどで常に自作を演出、上演しているそうだ。さらにインターネットで検索してみると「クリエイティブな旅行者のためのトラベルガイド SHIFT 」により詳しい記述があった。フォルクスビューネを、ポストモダンの前衛芸術に焦点をおいた即興的なパフォーマンス劇場として一躍注目を浴びる劇場、ルネ・ポレシュを「逆説的かつ批評的な、ターボ資本主義時代の演出家」と称され、現在最も熱いと紹介。さらに、「上演の殆どはドイツ語だが、たとえ言葉が理解できなくても作品の多くはパフォーマンス主体なので観劇はよい体験となるだろう」とも書いてある。

 ポストモダンはダンス界隈で、ポストドラマという言葉はドイツ演劇について書いた本のタイトルで、見かけたことはあるものの、テキストやセリフが表現の一部に過ぎないらしいという程度の認識しかない。正直なところ、ドイツ語もわからないし、観ても全くつまらないのではないかと不安ではあった。

 観劇の日は2011年9月24日土曜日。公演会場の豊洲公園には行ったこともない。知らない場所へ行くというだけでも心細い。3日前に台風が近くを通り過ぎたせいもあり、海に近づくにつれ強い風が当たる。昼間、陽が差していたので薄着のまま出てきたのだが、日が暮れて冷えてきた。

 会場らしき場所に着いてみても、ここでこれから演劇を見せるのだ! という雰囲気はあまり感じない。遠くに舞台美術が見え、手前にはテントとトレーラーが数台こちらに背を向けている。柔らかい土と芝生の乾いた茎を踏みながら受付へと進んだ。当日券を買って客席の白いプラスチックのイスに座ったが、防寒の準備をしていない自分へ気まずさが募る。

 パンフレットによると、舞台は豊洲の空き地に登場した映画撮影所。中央奥の建物の書き割りと手前のトレーラーが撮影所らしく見せる。

 大雑把にまとめると、荒野の映画撮影所で昔のイタリア映画のリメイクだか、オマージュ作品だかを撮ろうとする、監督と俳優たち5人の大騒ぎ。それをカメラとマイクが追いかけ、騒動の一部始終が上手のスクリーンに投影される。奥の書き割りから人物が登場すると遠近感が狂うのが面白い。投影されるライブ映像はワイプで画面を区切ったりして、今まさに上映されているこれがもともと撮るつもりの映画なのかもしれないと思わされる。

「無防備映画都市」公演の写真
【写真はいずれも「無防備映画都市」公演から 撮影=片岡陽太© 提供=F/T2011 禁無断転載】

 セリフの邦訳がスクリーン上部に2行ずつ程度表示されていく。ひたすらスクリーンの字幕を追いながら、視野に入る映像と何事かが進行中のトレーラーを脳内で結びつける。プログラムを一行一行解読して実行しているコンピュータの気分だ。字幕と実際のセリフが違う箇所もあるが、なぜ邦訳できなかったのか?とその肩透かしが箸休めとして面白い。

 大騒ぎの主たちが撮影しようとしているのは、1948年に公開されたイタリア映画「ドイツ零年」だ。私はこの映画を知らない。後で調べてみたあらすじによると、第二次世界大戦後、ナチスの思想の影響を受けた少年が病気で寝込んでいる父親を殺してしまう話らしい。この「無防備映画都市」は、世界中からナチスの罪を問われざるを得ないドイツの演出家が、愛国心を潜ませている作品なのだろうか?

 ドイツとイタリアの関係といえば、各国の軍隊や国民性を擬人化したマンガ「ヘタリア」くらいでしか知らない。「ヘタリア」では、料理と芸術が取り柄で軍隊としてはあまりに不甲斐ないイタリアを、几帳面で訓練好きの筋肉逞しいドイツが甲斐甲斐しく世話をする。

 スターたちのトレーラーでの意味がなさそうな言葉のやり取りやパトカーでの追跡シーン、電飾に飾られたステージでのドラァグクイーン風のダンスなど、映画人たちが右往左往する様子からは、マンガ家 萩尾望都が「メッシュ」で描いている芸術家たちの姿、特にフランス人の金持ちの屋敷に呼ばれたドイツ人デザイナーのファッションショーを思い出した。
 陸続きで歴史的にも民族的にも関係が深いヨーロッパの国々には、島国の日本列島人とは違う「外国」感があるのだと思った。

 投影される映像の役割は何なのだろうか?
 観客にも遠目には見えている出来事、あるいは観客の目の前で起きている出来事を、わざわざカメラと音声マイクの担当者が追いかけてスクリーンに投影する。初めは録画しているものを再生しているのだと思った。次第に、ライブで見せているのだと分かるのだが、どのように機材を繋いで投影しているのか、字幕の表示オペレーションも大変そうだ。いまどきゆっくりとしたワイプで、二つのトレーラー内を二画面で撮して会話させる、さらには画面を超えたモノのやりとりまで見せるなんて、バラエティ番組でもやらないくらい下らなくてかっこ悪い。しかし、この無意味そうな下らないことを、わざわざ日本に来てしかも台風の雨と風が通り過ぎた後の空き地にセッティングして実現させたなんて、その大がかりさが愉快だ。

 しかし、何かが引っかかる。演劇で映像を使って、肉眼で見えるものと対比させること自体は珍しいことではない。かなり昔に観た日本のある劇団の作品では、肉眼では見え映像では見えない人物を存在させるのに使っていた。
 今回のは何だろう?

 特に印象に残っているのは、片方の画面の人物がもう片方に向かって花を渡すと、それがシャンパンの入ったグラスになってもう片方に現れるというシーン。実際には、画面の二人の人物はそれぞれ二つの離れたトレーラーにいて、ものを渡すことも受け取ることもできない。映像はリアルタイムのはずなのに、現実に肉眼で見ていることとは違う。

 インターネットや衛星回線のお陰で、世界各地の出来事の映像も簡単に、ときにはリアルタイムで見ることができる。中東の革命やロンドンの暴動、ウォールストリートの座り込み。私たちは、そういった世界中の出来事と繋がって何事かを共有している気になっている訳だが、それは実際の出来事の通りなのだろうか?

 3月11日の津波の映像を見て、日本をよく知らない人は日本中が流されたと思っただろう。翌日からの福島第一原発の映像では、何かが隠されていると思った日本人もいたに違いない。報道が思っていたよりもアテにならないことも分かってしまった。

 映像は本当のことを撮しているように見えるのでそのままに受け取りがちだが、現場でリアルに起きていることと違うように映されて(伝えられて)いる可能性もある。このような確かでないものを通じて、世界の誰かと現在を共有したつもりになるのは無邪気過ぎるのではないか。2008年初演の作品であり、演出家の意図とは違うのだろうが、私にはそのように感じられた。

 「ドイツ零年」再現の大騒ぎの合間に、身体/声、歴史的/反歴史的、仕事/マルクス、資本主義批判/反ユダヤ主義といったキーワードを含むセリフが、映画人たちの映画論争のように矢継ぎ早に、脈絡なく飛び出し繰り返される。上手に映像、下手に生の大騒ぎという対比は「○○の声は○○の声でない」あるいは「身体は歴史的ではあり得ない」といった テキストとリンクする。カップルや性別が入れ替わって何度か再現されるのは、家族や伝統、父権性に対する反動なのだろうか? 何か大きなものを笑い飛ばす、あるいは虚仮にしようとしているよう見える。テキストは、西洋の哲学や思想をベースにした言葉だと推測するが、ただそれをなぞるというよりは解体して撒き散らし、超越しようと試みているかのように見える。ただ、乗り越えようとしているが結局それを使わざるを得ないという状況は、逆にそれに囚われていることになるのではないか。表現者にとっていかにこの西洋の伝統や思想が強固なものであるかを示しているように感じ、本当は不自由だと思っているのではないかと想像した。

 ポレシュは、資本主義社会を鋭い批評精神で作品化するという。この作品で資本主義は扱われていたのだろうか?

 本作は、産業構造の変化に追いつけずしわ寄せを受けているドイツ西部のルール地方に捧げられた作品だそうだ。そのことと作品の内容の関連は、字幕とテキストの発話者を追いかけるの必死だったこともあり、あまり認識することはできなかった。

 しかし、先に記したとおり、資本主義批判と反ユダヤ主義という言葉が対応して使われていた。ナチスの歴史への反動というよりも、ユダヤ人富豪が住むアメリカ合衆国と、アメリカによるイスラエル支援を連想する。アメリカのテレビドラマでは、ユダヤ人をナチスから解放したのはアメリカ軍だということや収容所のサバイバーが新大陸で幸福に暮らしていること、そしてナチス批判が時々描かれるのを見かける。一方で、イスラエル出身のユダヤ人映画監督によるドキュメンタリー「DEFAMATION」では、イスラエル人の若者が収容所跡を訪れ、ユダヤ人は嫌われていると刷り込まれて「反ユダヤ主義」を憎むようになる様子が登場する。

 ちょうどこの日、2011年9月24日はパレスチナ自治区が国連に加盟申請したというニュースが聞こえてきた日でもある。そのことも念頭にあり、東の果ての豊洲からドイツ、イタリア、フランス、パレスチナ、イスラエルを経由してアメリカ大陸まで脳内の地球儀が回った。

 こんな理解でいいのか、開演前と心細さは変わらないが、ドイツの作家が世の中をどのように捉えているのかを垣間見た時間だった。


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