「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ構成・演出「わたくしという現象」、飴屋法水構成・演出「じ め ん」)
「無防備映画都市-ルール地方三部作・第二部」(作・演出:ルネ・ポレシュ)

◎ただ複数の声に耳をすませよ-「宮澤賢治/夢の島から」
 夏目深雪

9.11から3.11へ
 ちょうど十年ほど前に起きたアメリカ同時多発テロ、いわゆる9.11での、飛行機が貿易センタービルに突っ込むシーン、テレビで繰り返し流れた映像は人々に「ハリウッド映画のワンシーンみたいだ」と言わしめた。しかし今年の3月11日以降同じように繰り返しテレビで流れた、3.11の津波の茶色い水が東北の家々を物凄い勢いで呑み込んでいった映像を見ても、さすがに誰も「映画みたいだ」とは言わなかった。勿論3.11は他でもない日本で起きたということもあるだろう。みんな言葉を失うしかなかった。そして実際に「津波」というただでさえ未曾有の災害の後に起こった原子力発電所での爆発、放射能漏れという想定外の事象が、まだ解決していないということもあるだろう。

 和田伸一郎は2006年に刊行された著作「メディアと倫理」にて、テレビがお茶の間に登場し、一部屋に一台と個人化し、さらにインターネットが普及していく過程を追い、「他者によって見られ、聞かれる〈公共空間〉に自ら現れ、活動し、発言することを尊いと感じ」るよりも、「そうした空間から退きこもって、画面に向かって文句を言ったり、ネット上に他人を中傷するようことを書き込んだりする」(注1)時代の問題点を突いた。和田が人々に無力感を与え、世界を信じる力を奪い、「繭へのひきこもり」と呼ぶ原因となったものの一つとして挙げたのが、先のアメリカ同時多発テロの映像であり、「個室」に撤退し世界から退きこもったところから世界に向き合う倒錯の醜い顕れとして、2004年に起こったイラクでの邦人人質事件を巡るネット上でのバッシングを挙げた。

  放射性物質は東日本全体に撒き散らされたらしいので、いくら「個室」からとは言えど、そこまで他人ごとになれるのかということは議論の余地があるが、3.11の映像を観た私たちが襲われた無力感、感情的でしかも個人攻撃的になりやすいネット上の反原発派/原発容認派の小競り合いは、このコンテキストで解析できるところもあるだろう。だが、「個室」から出るならば、一体何をしたらいいのだろう?  実際に行って被災地を「見る」ことが大切なのか、ボランティアなどで「体験する」ことが大切なのか、それとも震災と震災後の体験を「語る」ことが大切なのか?  或いはそこかしこで行われているデモや原発関連の上映会は、私たちが震災を機に「個室」を出始めたよき兆候なのだろうか?

バーチャルなものとの闘い
 飴屋法水は、現代社会の「バーチャル性」に常に異議を唱えているアーティストである。2005年に行われた、白い箱の中にわずかな食糧とともに閉じこもり、どれ位持つのかを自身の体にて実験した「バ    ング    ント展」について問われた飴屋はこう答えている。「1日125kcalを摂取して箱の中で生活していたのですが、たった24日間しかできなかった。輸血をしたって、800CCしか入れられなかった。それが僕という人間が出来る限度だったんです。やってみることで、初めて、そういうリミットを引くことができる。そこで僕はある種の〈有限性〉も知りました。イメージの果てしない無限性に較べて、実際にやってみた時にぶつかる〈有限性〉に関わることが、すごく好きなんです。」(注2)

  F/T10で飴屋が発表したのは「わたしのすがた」という、一つの穴と三つの廃屋を観客が回るという展示形式の「上演」であった。お妾さんが住んでいたという小さな廃屋、ある宗教団体の女子寮として使用されていたという教会の半分部分の廃屋、そして最後はもう使われていない病院。飴屋の演出方法はドキュメンタリーとフィクションの混じった手法、つまり実際にそこに住んでいた人物が使用していたものを飾ったり、その人自身の音声のレコードを流したりもするのだが、創作もあり、例えば病院の一つの病室には飴屋自身の父親の骨が陳列されたりもする。そこで私たちはその過去の住人たちの気配に怯えながら佇み、確かにその「上演」の主人公である「死者」のみならず「建物自身の死」、つまり「本来は見えるはずのないもの」=冒頭に象徴的に鑑賞させられた「穴」の感覚が私たちの内部にも穿たれてしまった感覚を拭うことができない。

視覚と声—-対照的な二つの劇
  未曾有の災害からまだ半年しか経っていないが、「宮澤賢治の言葉」を題材に、ロメオ・カステルッチと飴屋法水が「夢の島」で上演する。そう聞いて、震災がテーマになると想像した人がどのくらいいただろうか。しかしカステルッチの「わたくしという現象」が始まったとたん、私たちはのっぴきならない世界と対峙させられることを一瞬にして悟らされた。野外劇場の中央に並べてあったたくさんの椅子が目に見えない大きな力によって、倒され、引きずられていく姿は私たちに半年前食い入るように見た悪夢を否応なく思い出させた。その後の展開は原典である「わたくしといふ現象は/假定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」という言葉で始まる賢治の「春と修羅・序」どおりでもあるのだが、一方でそのイメージは白装束の人々、水蒸気、青い光線など、視覚的に(大分美化させたような形ではあるが)原発事故にかなり寄せられているようだ。そしてみなで白い旗を振る終盤に至り、これは追悼の儀式なのだと思い至る。

 カステルッチの劇が外部から見た「日本のすがた」だとしたら、続く飴屋の「じ  め ん」は内部から告発し、私たちの体を内側から侵食するような、「日本のすがた」といった趣の劇であった。1人の少年が地面を掘っている。地質学者でもあり、農業とともに、つまりは常に土とともに生きた賢治のことを考えると、この少年は賢治を髣髴とさせもする。しかし時は現代、場所は東北ではなくて夢の島のようである。「ゴミが出てきた」というようなことを呟く少年。「穴を掘れ!」と英語で言う誰か分からない声。最後は『2001年宇宙の旅』のモノリスまで出てくるスケールの大きさを持ちながらも、少年が常に地面を掘っているという事実がこの演劇を文字通り地に足をつけたものにさせている。観客はここが夢の島であり、自分が座ってもいるこの地面も少し掘ればゴミの固まりなのだということに意識せずにはいられないからだ。これは決して夢や妄想ではない、全ては3.11から地続きなのである。

「じ め ん」公演の写真
【写真は、「じ め ん」公演から。撮影=片岡陽太© 提供=F/T2011
禁無断転載】

 この劇の視覚的な仕掛けはカステルッチの劇のようなわかりやすいものでは決してない。穴を掘る少年、原子爆弾を連想させる巨大風船とともにキュリー夫人が登場し、『猿の惑星』の猿たち、巨大モノリス、そしてカステルッチと飴屋自身が登場し、墓についての問答を行う。飴屋は草の上ででんぐり返しをし、モノリスは倒れる。観客を瞑想(迷走?)に誘うかのような、むしろ象徴的すぎる意匠と対照的に、印象付けられるのはそれぞれの声である。冒頭から流れる昭和天皇とおぼしき原爆投下についての声明らしきものが過去の亡霊を連れてくるようである。声は「今、ここにいる場所」が3.11から地続きなだけではなく、過去からもずっと地続きなのを強く意識させる。キュリー夫人が呟く言葉。第五福竜丸(注3)の被爆について話す声。過去がたくさんの声とともに押し寄せ、私たちはその声を聞き分けながら、その声があった磁場に吸い寄せられその過去を体験する。そこには原子力の過去があり、日本の過去があり、もちろん個々の登場人物の(キュリー夫人の、飴屋の)過去が明確には重ならないまま、階層となって存在している。ここで注意しなければいけないのは、その過去は「歴史」というほど概念ではなく、むしろ過去の「時間」の塊にすぎないことだ。なぜならそれは一人ひとりの「声」にすぎないから。

  カステルッチの劇が批判されるとしたら、その視覚的、スペクタル的な起承転結が、概念として捉えられやすく、「そうじゃない」という反発を産む余地があるところだろう。或いは観客の中に実際に津波の被害者、原発の避難区域からの避難者がいたとしたら、どう思うのかということ。私自身、旗を振ることで瞬間の感動は味わったものの、何か釈然としない気持ちが残った。飴屋の劇は、結局は複数の声を聞くことに過ぎない。勿論そこに作為はあるのだが、意図的にかその声の主は死者/生者、日本/日本以外、被害者/加害のもとになるものを発見した人物、などレンジが広く取られていて(注4)、その言葉はある概念になるために集結する前に重く沈みこみ、それぞれ孤立して、漂うしかない。

  飴屋がこの未曾有の災害の表象不可能性について、カステルッチのように津波を、原発事故を、そのものズバリでなくても表象してしまうこと、その倫理的な問題について、自覚的であったかどうかは定かではない。ただ様々な、死者の、生者の、男の、女の、大人の、子供の、声にただ耳を傾ける体験が私たちを恐怖であり追悼でもありながら、それ以上の、何か新たなステージに連れて行ったことは確かであろう。「じ  め  ん」は私たちに無自覚に染み込んでいる大文字の歴史だけではなく、個人の、小文字の歴史をも、はっきりと形とさせて見せた。しかもそれは単にスペクタクル化するのでは不可能なほど、観客それぞれの記憶と思いに結びついたやり方で。

 ただ呟かれ、そこに漂う声に耳をすませること。時に不可解で、過去の時間を含んだ複数の声に。それは昔から詩や童話が行っていたことであった。そう、他でもない宮澤賢治自身が。カステルッチの劇も飴屋の劇も一人の子どもが主人公であることは、「今、ここにいる場所」が未来とも地続きであることを暗示したものであろう。劇の印象が与える結論めいたものはカステルッチは楽観的に、飴屋は悲観的に見えたが、その是非を問うている場合ではない。ただ複数の声に耳をすませることが、私たちが「個室」から出て行動する第一歩になるのかは定かではない。ただその時夢の島の野外コロシアムが、私たちの想像力が、思考が、未来に向かって開かれた一つの「場所」になったことは確かなのだ。

注1)「メディアと倫理  画面は慈悲なき世界を救済できるか」(和田伸一郎著・NTT出版)P190L2-4
注2)CINRA.NET 特集vol.40飴屋法水インタビュー
注3)第五福竜丸は夢の島に打ち棄てられているのを発見され、現在は「東京都立第五福竜丸展示館」となって展示されている。第五福竜丸が目と鼻の先にあるのを、あそこにいたどの位の人が知っていたのだろうか。
注4)そもそも「じ  め  ん」は死者と生者が混在する異様な劇である。しかし、「バ   ング    ント展」の飴屋自身が箱の中で生と死の境に存在したことを考え、さらに「わたしのすがた」の、レコードにより死者の声を聞かせ、骨を並べることによって死者の肉体をふたたび(完全な形ではないにせよ)形をとらせる演出を見ても、飴屋が生者/死者の境目にこそ何かを見出そうとしていることが分かる。
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