維新派「風景画-東京・池袋」

1.背景となる都会との調和と可能性
  福原 幹之(もとゆき)

 白塗りの役者が24人。全員揃いの服、白いシャツ、黒いハーフパンツ、白のストッキングだ。公演中ずっと役者たちに表情はない。物語的な筋立てもなければ、説明的な台詞も対話もない。それでも観客は身じろぎもせず、役者の一挙一動を逃すまいと固唾を呑んで見守っている。パーカッションやキーボード、弦楽器ダクソフォンの奏でるリズムに乗せて発話される意味不明な、言葉の羅列だろうか。あるいは掛け声らしき「トー、ト、トーヤ」が、夕暮れのまだ暗くはなりきらない空に吸い込まれてゆく。観客は、次々と投げつけられる名詞やフレーズの渦の中で、どうにかして意味を見つけようともがいている。整然とした動き、迷いのない所作は、そこにある何かを感じさせる。しかし同時に、理解されることを拒んでいるようでもある。そこにあるのは、刺激であって、言葉にしたとたんその表現からこぼれ落ちてしまう類のものだ。維新派の演出は、文脈を頭で理解させるやり方ではなく、見ている人の感覚に直接働きかける。だから、観客は五感を研ぎ澄まし、役者の一挙手一投足に集中する。そして、客席には静かな緊張感が漂っている。

 維新派のプロフィールは次のように紹介されている。「関西を拠点とし、主催・脚本・演出をつとめる松本雄吉を中心に、さまざまな場所で公演を行う。『移民』や『漂流』をキーワードに、1970年の創設以来一貫してオリジナル作品を上演している。発語、踊り、音楽など、どの点においても、世界的に類を見ない集団で、とりわけ、野外に自らの手で巨大劇場を建設するという手法は国内外から注目を集めている」。

 今回の公演「風景画-東京・池袋」は、この9月に上演された「風景画-岡山・犬島」と内容はほぼ同じだが、東京の音として、プラットフォームのノイズや音楽を加えたり、シーンを一部入れ替えたりしたという。「池袋」のエンディングは、次第に大きくなるノイズに役者の声がかき消されて聞こえなくなるというものだったが、犬島の、今は使われていない漁港(2艘の廃船がつながれているだけ)とは、エンディングが変わるのは必然であった。

 「風景画」というタイトルと野外劇場というスタイルの融合が、今回の公演の見どころの一つだった。西武本館4階「まつりの広場」という屋上に、客席のひな壇を造り、舞台後方の背景との境目には、ミニチュアのビル群を並べ、「都市に対する批評というか意地悪な気持ちを表した」と松本さんは語っている。ひな壇から見える実際の街は、JRの埼京線と山手線がひっきりなしに行き来する池袋駅であり、赤黄青のネオンが「サウナ」「アカスリ」の文字を夜空に浮き立たせる都会の一部を切り取った一コマのフレームであった。

「風景画」公演写真
【写真は、「風景画-東京・池袋」公演から。 撮影=井上嘉和
提供=維新派 禁無断転載】

 電車は紛れもなく現実との接点となっていた。電車が発着するたびに、目の前で行われている虚構の世界と現実がないまぜになるような感覚があった。白塗りの役者たちがマイムで見せる、抱きしめ、手繰り上げ、すくい取り、ふき取り、弓を引き、絞りあげ、かき回す、といった仕草が、日常のそれとはかけ離れてしまったような感覚。電車のガタンゴトンという騒音によって現実に引き戻されるとき、虚構の中の仕草が日常にもあることにかえって奇妙さを感じる。日常がおかしいのか。虚構が虚構でなくなっているのか。混乱した頭の中で、日々の営みや行いが、これまでとは違った見え方をしてくる。日常の生活の断片から、生活することの意味を、さらには自分がどこにいるのかを、いつの間にか問い直している。こんな風に感じるのは、白塗りの役者が誰でもなく、見ているあなた自身でもあるからなのだろう。

 公演前に渡されたプログラムには、「演出ノート」としてこう記されている。

 「風景画」は、ある場所に俳優と観客が参加する三次元の絵画です。
 「風景画」は、幾何学的風景論です。
 「風景画」は、身体的風景論です。

 また、「シーンタイトル」として、「点、線、図形、方位、一秒、入射角・反射角、四角形、消失点、対角線、2011~」の10シーンがある。

 幾何学的風景論というのは、言葉をリズムに乗せて、意味なき数値のように扱っているからだろうか。例えば、シーン「方位」で口に出される言葉を一部取り上げると、次の通りだ。

 「私はいくつもの川を知っている」「海の名」「火の名」「草の名」「空の名」「風の名」…「船は2階に窓を造り、雄と雌でなければならない」「生き残るようにしなさい」「トト、トーヤ」…「私はタービン」「私はスクリュー」「私はコンパス」「緯度を測る」「私は煙突」「何人の面前においても肌を表すべからず」「昔の言葉」「昨日の言葉」「誓いの言葉」…。

 これは皆、パーカッションのリズムに乗って、役者たちが紡ぎだし、たたみ掛ける言葉たちだ。ノアの方舟に遡り、あてなき世界に旅立ち、船で海を漂流し、ある時櫓を漕ぐのを止める。そしてその場所で、宗教や文化を創造することになる人間の歩みが、言葉の羅列の中で浮かび上がってくる。歴史もまた、その場所に刻み込まれた風景の一部なのか。

 身体的風景論とは、役者たちの動作が直線的で滑らかさがなく、エンディングに向けて24人が横一列に並び、背景の池袋のビル群と幾何学的な調和を感じさせる演出のことを言っているのだろう。この点について、松本さんはこう語っている。「まだ、風景画としての取り組みが甘い。都市だと観念的なものが先行して、即物性を出すのが田舎と違って難しい。(池袋で)一列に並んだのは背景とうまく親和性があったのではないか。一列は何かばかげて、強さも弱さもある。自然の中にはない。背景との親和性がないと、劇場になってしまう」。

 野外公演にこだわる維新派は、役者の動作に幾何学的な動きを取り入れることによって、ステージの上は現実と一線を画していることを、明快にしているのだろう。その上で、背景を現実と結びつける手段としているところに、フィクションをフィクションのまま終わらせない面白さがある。

 エンディングのシーン「2011~」では、1920(イチ・キュー・ニィ・ゼロ)あたりの数字(年号?)からカウントアップするのと被せて、一つひとつのつながりが感じられない名詞が叫ばれる。自然、生き物、人工物、現象などを表す名詞だ。「エンジンオイル」「海」「馬」「駆け足」「光合成」「気圧」「水蒸気」「加工」「絵皿」「クモヒトデ」「未来」「ヘリウム」「花粉」「サイレン」「圏外」「茶柱」「三味線」「隕石」「手術台」。こんな言葉を聴き続けると、これまでのシーンの中で発話されてきた地名や物の名前の羅列が、頭の中でよみがえってくる。そして、私たちの生活が溢れかえるものと情報によって成り立っていることに、改めて気づくのだ。次第に大きくなるノイズの中で、2011(ニィ・ゼロ・イチ・イチ)からは数だけが読み上げられ、2080あたりからはノイズで声がかき消されてしまう。この先は見通せないということを暗示しているようだ。大音量のノイズの中、未来はどうなるのかという問いが、圧倒するような勢いで迫ってきた。

 終演後、少し客もはけた頃、音声のスタッフをつかまえて疑問をぶつけてみた。「何度も繰り返し出てくる『トー、ト、トーヤ』というのは、何か意味があるんですか」と。スタッフの若者は腰を下ろして話してくれた。「いろいろと説はあるみたいですが、どうやら昔の船頭さんの掛け声らしいです。でも、今さら松本さんには誰も聞けません」。
 この若者の率直な答えが、帰り道を楽しい気分にさせてくれたのは言うまでもない。

[参考資料]
・「風景画―東京・池袋」劇場プログラム
・10/9特別トークイベント 維新派『風景画―東京・池袋』をめぐって―「都市と風景」を語る(松本雄吉と写真家,佐藤信太郎)より
・劇場パンフレット「台湾の、灰色の牛が背伸びをしたとき」


「維新派「風景画-東京・池袋」」への5件のフィードバック

  1. ピンバック: 井上嘉和
  2. ピンバック: おとうた通信
  3. ピンバック: やまだ
  4. ピンバック: Imai Miho

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