3.維新派の「風景画」を観て
直井玲子
数日前、西新宿の高層ビル群の一角にあるNPO法人の事務所を仕事で訪ねた。高層ビル群に囲まれた12階建てのビルの11階。そこから見える夜景は、「節電」の為に昨年よりずっと明るさが減っていて、その減り具合が見せる暗闇の深さに少しの恐怖を感じた。高い所がどちらかといえば得意でない私だが、ストレートに外気に触れることが出来る玄関前の渡り廊下から外を眺めていると、ついその向こうに一歩足を踏み出し、まばらな窓の明かりとその対照にある暗闇に吸い込まれそうになる。その日の仕事は、普段やっていることと何も変わらないはずなのに、窓から見える「風景」が気になりすぎて全く集中できなかった。
2011年10月。維新派が池袋西武百貨店の屋上で野外劇を上演した。一緒に観に行った大学院の友人に誘われて私は最前列でそれを観た。偶然にも、数日前にしみじみ眺めた新宿の高層ビル群と、今自分がいる池袋の街なみのミニチュアが舞台セットとして置かれていた。客席に座っていると、金網のフェンス越しに階下のJR池袋駅からの電車の発着の音が聞こえてくる。照明が落とされるのを合図に白塗りをした大勢のパフォーマーが登場し、ステージとなる広場に立った。スピーカーから流れる音はいかにも新宿の高層ビル群から聞こえてきそうな喧噪で、工事現場のようなもしくはヘリコプターのような騒音とハウリング、録音された人の声、そしてそれにあわせて動く若いパフォーマー達。
入場料を支払って観ている観客席とは別に、隣のビルやデパートの渡り廊下の窓からこの野外劇を眺める人影があった。隣のビルの人影はひとつだったのがそのうちふたつになり、しばらくして消えた。あのふたりはこのパフォーマンスを目撃し、どんな会話をしたのだろう。私は目の前のパフォーマーよりも人影がいなくなった窓をしばらく眺めた。
私は今、いい歳をして大学院に入学し、演劇学研究室なる所に毎日通って演劇教育の研究をしている。前期の授業でエドワード・W・サイードの文献を読んでいて、代表・表象(リプレゼントrepresent)について考え込んだことがあった。今まで私は子ども達や障がいがある人達と一緒の表現活動に長く取りくんできた。彼らの思いを大切にした表現活動をめざして活動してきたのだが、その「思い」とはいったい何なのか、誰がその「大切さ」を計るのか、そもそも彼らはわざわざここに集い表現活動なんかをしたいと思っているのか。いったい「誰がどのような資格で何をリプレゼントするのか」。
いつも目の前の仕事をこなすことで精一杯で、そんなことを考えたこともなかった自分が、こうやって立ち止まって考えることができる時間を得られただけでも、学生という身分を再び勝ち取って良かったとは思う。ただあまりに答えがでないことだらけで、自分の力不足をただ感じる毎日に、ちょっと参っているのは確かなのだ。そして、人様が一生懸命つくった演劇を観て、そのことについて劇評として何かを書いて発表する資格が私にあるのかと、つい考え込んでしまうのである。研究も同じで、自分がする研究によって誰にどんな影響があるのかを、それによって困ることになる人はいないのかを絶えず考えてしまう。私が何かを書くことで誰かを傷つけてしまうかもしれないことを、いつも恐れている。自分の影響力など、微塵もないことはわかっていながら。
大学院に入って気がついたことは、ここの学生はあまり演劇を観にいっていないということ。はっきり演劇はあまり好きでないという人もいるし、かくいう私も、ここのところさっぱり劇場に行っていない。ひたすら文献と格闘する毎日である。文献の半分は英語だったりするので、本当に泣きながら読んでいる。そんななのに、今回の維新派のこの野外劇を、うちの院生の女子のほとんどが観にいくことになっていると知って驚いた。誰か関係者でもいるのかしらと思ったがそうでもなかった。だったら彼女達にその感想をきいて、この劇評の参考にしたいとも思ったが、どうも多くを語ってくれない。一応みんなの共通の話題としてでてきたのは「舞台セットのただ置かれたビル群のミニチュア」に関してと、「パフォーマー達は、これをどんな気持ちでやっているのかしら?」という疑問であった。
私は、最前列の観客席から、手を伸ばせば触れられる距離にいるパフォーマーの顔を見るのがつらかった。もうすこし離れた場所から全体を見渡し、そこに立つたくさんのパフォーマーをひとつの集塊(マス)として観ることができれば良かったのかもしれない。どうしてもひとりひとりの細かなところを見てしまい、特にパフォーマー全員がつけていたイヤホンが気になって仕方がなかった。一緒に観た友人は「スピーカーから流れる音がイヤホンから流れているんでしょ」と言ったが、それだけではないと思った。(このパフォーマー達の身体能力から、あの音だけを頼りに、あそこまで揃った動きはつくれない)と思った私は、「動きの指示とまでは言わないけど、少なくともカウントは流れているはず」と発言したら、友人達に一斉に「それはないよ!」と非難された。「そんなことまで推測することは粋ではないわ」とも言われたが、私はどうしても、このパフォーマーたちが何か大きな力に操られているように見えてしまいつらかったのだ。
そう、自分が人を見ていてつらくなる時は、自分自身が疲れているときであることは知っている。異国での生活に疲れ切った際にも、美術館で人物画ではなく、丸だの三角だのが描かれているだけの抽象画や、森や林の風景画ばかりを見て癒されていたことも思い出した。舞台セットと照明と、野外だから味わえる本物の街の風景と、パフォーマーが描いてくれるマスゲームとを素直に楽しむことができれば、もう少し違う見方ができたのかもしれないのだが。私は私の目の前に立つ人に対して「なぜこの人は、今、ここで、こんなことをしているのだろう」と、そんなことばかりを考えながら、維新派の「風景画」を観ていた。
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