ジェローム・ベル 「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」

3.なぜ舞台は続けられなければならないのか
  クリハラユミエ

 ジェローム・ベル「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」は、とても買いやすくて売りやすい、よくできた”商品”だ。

 まず、公演前でもどのような作品なのか説明しやすい。使われている音楽は「誰もが知っている」80年代以降のポップソングで、2001年の初演以来世界50都市で上演され「多くの議論を生」んでいる人気作だということ。26人の出演者は上演地からの公募で、ダンサーとして訓練していない身体が「ダンスとは何か?」の問題提起となり、また、観客はそこに自分たちの地域社会を投影して見ることもできるということ。

 公演関係者も演出家とアシスタント程度なので、移動費滞在費も大掛かりな作品を呼ぶより少なくてすむ。当然、知らない人間が集まっての作品創作には上演のみの場合とは別のスキルと大きなエネルギーが必要だが、出演者や関係者には創作現場が教育にもなる。

 作品が物議を醸すというのも重要だろう。作品を観たあるものは、「ポップソングのタイトルと同じことがパフォーマンスされる」という”ルール”と音楽自体を楽しみ、あるものは音楽とパフォーマンスの”解釈”について”議論”し、あるものはパフォーマーが”地域社会”を反映したほどには多様でないと非難する。あるものはパフォーマーと客席あるいは客席どうしの見る/見られる”関係”から劇場”空間”の可能性を感じ、あるものは”コンセプト”主導であることを退屈だと思う。この反応の自由さ、多様さ。自分と違う感じ方、見方をする他者に気づくことができる場所、それが「劇場」ではないだろうか。演出家も「もちろん観客がこの作品を嫌う可能性もあります。それで全く構いません。(略)私は体験を提供するだけで、受け取るか受け取らないかは観客次第ですから。」と公演パンフレットで語っている。

 原色のカラフルな衣装、不要なもののない舞台、シンプルな仕草、見ている側が自己投影できる身近な身体。どことなくカジュアル衣料の製造小売チェーンである「ユニクロ」のCM(あるいは「ベネトン」の広告)を彷彿させる。演出家は「この作品はあらゆる人に向けて創った」(公演パンフレット)と言う。ユニクロのブランドアイデンティティは「あらゆる人が良いカジュアルを着られるようにする新しい日本の企業」である。この共通性は偶然ではない。

 ユニクロが海外へ出店するためには、当然出店した先の”あらゆる人”が自社の服を着ている絵が必要だ。ユニクロが原色を主流としたベーシックなデザイン、機能の服しか作らないのはベーシックなものでなければ世界共通で商品展開できないからである。

 同じことが本作「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」にも言える。フェスティバル/トーキョーの公式サイトには「舞台上で行われるこの楽しくも反スペクタクルなパフォーマンスは、ポップソングに表象される資本主義が生産し流通させる記号、画一化された身体や行動に対するベル自身のアンチテーゼの表れ」とある。しかし、”生産””流通”や”画一化”の点では資本主義を根拠に”ゴーイングコンサーン”を前提とした企業の活動と違いはない。この”商品”自体、資本主義が可能にしたグローバリゼーションの賜物である。上演地のパフォーマーをどこでも同じ演出とコンセプトで舞台に上げる本作は、「誰でもパフォーマーになることができ、観客の誰でも理解できるようにコンセプトを絞って」(公演パンフレットより)つくられているので、リヨン・オペラ座バレエのダンサーの身体にも、バレエやコンテンポラリーダンス、”劇場文化”や舞台芸術研究、現代思想が”輸入品”でしかない日本列島人の身体にも観客にもなじみやすい。

 では、何が資本主義へのアンチテーゼなのだろうか?

 価値と価格の問題とするなら、確かにそうかもしれない。チケット代は前売り券3,000円、当日券3,500円(あるいはパフォーマーの関係者なら割引があるかもしれない)。マルクス経済学で考えるなら「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」に同じ代金を払った観客の90分はすべて等しい価値だということになる。しかし、座っている席も持っている経験も知識も仕事の時給も違う私たちは、そんなことはあり得ないことを体感する。同じ価格で同じ作品を観て、欲求が満たされなくても期待と違っていてもそれが当然なのだ。券面の価格と体験が釣り合わない。チケット代収入でこの作品にかかる費用が回収できる額面でもない。投下された資本が貨幣としての利潤も生まない(しかし効用はある)。「劇場」は”あらゆる人”に”同質な”体験を売るテーマパークではないということなら、このアンチテーゼは肯定できる。

 折しも、日本国は現在、「劇場」(や自治体が持つ文化施設)の在り方を法律制度として検討しているところだ。舞台芸術が”公共性のあるもの”だということは必ずしも”あらゆる人”に”求められるもの”であることではない。”あらゆる人”を”対象にするもの”だということに過ぎない。”あらゆる人”の中にはそれを気に入らないと言う人も含まれる。これから先の将来、望むと望まないとにかかわらず、特に若い世代は、考えや経験の違う相手を受け入れ(あるいは受け入れてもらい)仕事したり生活したりしなくてはならないだろう。その一つの訓練として「劇場」が機能するならば、悪所から始まった近代日本の芸能興行史と西洋の教養的劇場観を止揚し”ショー・マスト・ゴー・オン”であることを望む。そしてこの作品も、グローバル化するもフラットではない世界の他の都市でまた上演されるのである。

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