2.<ある真実>か<そうではない真実>か、それが問題だ -『ハムレット』の翻案劇『ポリグラフ』(高橋英之)
どうしても、もう一度観たくなる、そんな作品に出会うことがある。カーテンコールの拍手をしながら、この舞台はいったい何だったんだろうという思いが、あふれ出て止まらなくなってしまう。冒頭のあのシーンと、別のシーンの途中でさりげなく使われていた小道具が、大団円で突然結びつき始める。そして、これはもう一度観るしかないだろうと決意した瞬間、いま観た公演が、自分が見ることができる最後のチャンスであったことに気づいて、愕然としてしまう、そんな作品がある。東京芸術劇場リニューアル記念で上演された『ポリグラフ』は、どうしようもなく、そのような作品であった。
女が殺されている殺人事件の現場、犯罪捜査を専門とする男ディヴィッド(吹越満)が捜査の様子を説明するモノローグと、第二次大戦後にベルリンに壁が築かれる様子の別の男のモノローグが重ね合わせられる。女は長いナイフで理不尽にも突き刺され、ベルリンは延々とした壁に不条理にも分断させられる。全く異なる二つの事象が、時に全く同じセリフを符合させることで、絡みあってゆく。それが、はじまり。この作品の<あらすじ>を伝えるのは、かなり難しい。断片的なエピソードが、この冒頭のモノローグのように、ときに重なり、ときに時間を前後させるかのように散りばめられて、ひとつの流れに集約されてゆかない。
女の情夫であったらしい若い男が容疑者として浮かび上がり、ディヴィッドはこの若い男をポリグラフ[嘘発見器]にかけるが、嘘の証言であるとは認定できなかった。やがて、ディヴィッドは、モントリオールの地下鉄で飛び込み自殺のシーンに遭遇して半狂乱となっている女ルーシー(太田緑ロランス)に出会い、彼女をケベック・シティーまで送って行く。ルーシーは、女優で、女ながらハムレットを演じる新機軸に挑む。やがて、彼女に、かつて起こった殺人事件を映画化した作品で、殺される女の役がまわって来る。その役作りに悩む中、ディヴィッドとルーシーは、夜をともに過ごす仲とになる。
ある日、2人が向かったレストランのウェイターのフランソワ(森山開次)は、ルーシーのアパートの隣人で、まるで踊りを踊るかのような流れでの接客をしている。フランソワは、どうやら、ディヴィッドがかつてポリグラフにかけた容疑者の若い男のようだが、それが問いただされることはない。夜な夜なコカインを常用しているらしいフランソワは、実はルーシーと寝ていたことが判明し、ディヴィッドは、フランソワに殴りかかる。フランソワはアパートを飛び出す。やがて、フランソワは地下鉄の駅で、投身自殺を図る。その、投身の様子がゆっくりとしたスローモーションのような動作で行われる中、ルーシーは、頭蓋骨を手にして、「おまえのことは、よくおぼえている」というハムレットのセリフを吐く。
いったい、誰が、誰を殺したのだろうか。女を殺した若い男が、自殺をする。それだけの物語には回収されない、錯綜した流れがある。殺された女と女優を同じ俳優が演じており、その殺人現場もが瓜二つに舞台上で再構成される以上、それは、まるで同一人物のように見えてしまう。殺人の容疑者である若い男とウェイターもまた同じ俳優が演じているので、同一人物のように見えてしまう。この複層的な役の役者への貼りつけが、作品を観る者を戸惑わせる。三人の役者が、重ねてゆくシーンが、どうにもひとつの物語として像を結ばない。芥川龍之介の『藪の中』では、3人が三様の物語を語ることで、真実が像を結ばないということがあるのだが、ルパージュのこの作品では、舞台に登場する人物の数は同じであっても、そこで描かれる複雑に骨折した物語は、3人がまるで共犯的に作り出すパズルのようでもある。混沌とした現実を、複数の物語が支えている。
さらに話をややこしくするのが、ちょうど半ばほどに挿入される、3人の役者の全裸でのパントマイムのシーン。青いバックライトに照らされながら、殺人現場や、地下鉄の自殺や、出会いや、レストランでの会食や、密会のキスや、そういうシーンが次々と言葉のないままに、しかも全裸で繰り広げられる。まるで、錯綜する物語の、骨の部分だけを切りだすかのように、名前もない3人の動作だけが、無言のまま、顔も判然としないまま、シルエットとして壁に映し出される。その動作のシークエンスは、いままで舞台で繰り広げられていたエピソードの断片をつなぎ合わせるというよりは、つながっていたかに見えたエピソードが、むしろただの断片に過ぎないことを、どうしようもなく、観る者に再確認させる。まるで、なんとかして「物語」を観ようとしていた観客の淡い期待を裏切るかのように。
複雑に錯綜する現実を、さまざまなる物語に分解して錯綜させる。その手口は、理系の人には、数学の分析手法であるフーリエ解析を思い出させるかもしれない。複雑な形をしたグラフを、より単純化された「複数」の三角関数の「グラフ」に分解する。そんな数学の分析手法が、この作品のタイトル、「ポリ(=複数の)グラフ」とイメージが重なることも、決して、偶然ではないだろう。嘘発見器として使われる「ポリグラフ」は、人間の体の反応をいくつかの電極で感知させて、複数のグラフで表出することからその名がつけられている。この作品の題名が、『ポリグラフ』となっているのは、単に「嘘発見器」という意味だけではなく、当然にこの英語の原義としての「複数のグラフ」というような意味あいが含まれている。しかも、フーリエ解析との類似性を思い起こす時に、その基本となるグラフが、三角関数であるということも、興味深い。三角関数ならぬ三角関係でもある3人で演じられる舞台は、複雑な現実の物語を再構成するには、まさにふさわしいということかもしれない。
しかし、それにしても、あれよあれよと、その錯綜する複雑骨折した物語の断面が、ルパージュの十八番の映像のマジックとともに溢れる演出を前にして、何が何だか分からなくなってしまった。たしかに手法は、素晴らしい。舞台であるのに、フラッシュバックがあり、スローモーションがあり、まるで映画をみているかのようなこの作品。内容など関係なく、舞台芸術の技法としての最先端のスペクタクルそのものだけを楽しむことが十分にできる。それにしてもだ、この物語はいったいどういう話だったのだろうか。それが、いまひとつよく分からないまま。なんとなく、これはスゴイなという感覚だけは、しっかり残ってしまい。是非とももう1回観たかったという心残りだけが、しっかりと刻み込まれてしまうというのは、まさに、演劇という作品が容易に伝説化してしまう瞬間に、またしても遭遇してしまったということなのか。
この原稿のドラフトを書き終えた後に、アマゾンに注文した英文の脚本が届いた。ルーシーとフランソワの会話がフランス語になっていて、言語としても入り組んでいるそのセリフとト書きを追いながら、ふと、あたり前のことに気がついた。それは…は、
『ポリグラフ』は、シェークスピアの『ハムレット』の翻案劇である。
…ということ。『ポリグラフ』のルーシーは、女優としてガートルードでもオフィーリアでもなくほかならぬハムレットを演じ、そして、最後の大団円では実際、『ハムレット』の墓掘りのシーンで登場する印象的なヨーリックのしゃれこうべを手にしながら、ハムレットになりきる。したがって、これは殺された女の復讐劇であると、そういう見立てが作品の軸としてある。構成としては、途中に、セリフのない黙劇が挿入されるところも『ハムレット』そのままだ。
『ハムレット』は、脚本を読めば、たしか先王を亡きものにしたのは、伯父たる現王であるようには読めるのだが、実際の舞台を観ると、実は印象がかなり違う。架空の劇中劇とハムレットの妄想が錯綜して、伯父たる現王の罪が本当に<真実>であるのかが曖昧になってくる。それは、ハムレットにとっての<ある真実>でしかないのではないか。実は、現王にとっての<そうではない真実>があるのではないか。そのように思わされてしまった遠い昔の『ハムレット』の観劇の記憶が、よみがえってくる。ひょっとすると、ルパージュもまた、脚本ではなく舞台芸術としての『ハムレット』に潜むそうした重層的なイメージの表出を、感じたのではないのか。「生きるべきか、死すべきか、それが問題だ」と悩んでいたハムレットは、日夜狂気を装いながら、実のところ<真実>とはなにかという問題そのものに悩んでいた。それは、『ポリグラフ』の中で、幾層にも重ねられた複数の<真実>の中で悩む、3人の登場人物の三様の悩みに重なる。
実際、最後のシーンで、地下鉄に飛び込むフランソワの表情は、ひとつの<真実>の落とし前をつけるというよりは、本当にこれが自分が従うべき<真実>であるかどうかについて、まだ迷いがたっぷりあるかのような表情であった。さらにいえば、舞台に立てられた壁は、ベルリンの壁を象徴しているようなのだが、それもまた、<ある真実>から、<そうではない真実>を隔離するための装置として機能していたものではなかったか。そして、その壁が最後のシーンで打ち破られるそれは、<真実>と<嘘>の境界が暴かれるのではない。むしろ、ベルリンの壁がそうであったように、<ある真実>と<そうではない真実>の回路が、開かれた瞬間であった。本当の真実とは、そうした、個別の断片的な<真実>の重ね合わせとしてしか理解できない。それは、複雑なグラフを理解するために、断片的な三角関数に分解するフーリエ解析が、数学で必要とされていることに似ているのかもしれない。
残念ながら、『ポリグラフ』を、もう一度観ることは叶わなかった。しかし、いまの自分は、むしろ『ハムレット』をもう一度観たい。ハムレットが悩み、黙劇が展開され、「おまえのことは、よく覚えている」というセリフを聞くとき、逆に舞台の上にはこの『ポリグラフ』が重なって見えてくるような気がする。
(観劇日=2012年12月27日(木)19:30 公演)