3.わたしは美しい人が好き(都留由子)
明治生まれの祖父は、よく「眼福」という言葉を使った。特に若くてきれいな女の人を見たとき。「眼福、眼福」とニコニコしていた。中学生だったわたしがお正月に絣の着物を着て行ったら、それにも「眼福、眼福」を連発していたので、その基準は、まあ、いい加減だったとは思うが。
眼福を喜ぶ祖父に似たのか、わたしも美しい人が好きだ。美しい人が舞台に出てくると、もうそれだけで客席に座っている重心がぐいっと前寄りになる。
太田緑ロランスが白いローブをふわりと着て舞台に現れ、フランス語だか日本語だかよく分からない言葉で、携帯電話の電源を切れとか、地震のときには落ち着け(と言ったのだと思う)とか話し始めたとき、これから始まる舞台が万一退屈な作品であっても、この人が舞台に立っている間は決して眠くならないだろうことをわたしは確信した。眼福、眼福。
「ポリグラフ-嘘発見器」の登場人物は三人。太田の開演前諸注意のあと、その三人は舞台に並ぶ。後ろの白い壁にできる三つの影にそれぞれの名前と役名が映し出され、演出も兼ねる吹越満の「始めます」という言葉と、床を足でちょっとタップする音でお芝居は始まった。
舞台はカナダ、ケベックシティ。舞台女優のルーシー(太田緑ロランス)とレストランでウェイターをしているフランソワ(森山開次)は同じアパートで隣同士の部屋に住んでいる友人。フランソワはゲイなので、ルーシーは隣人に対してとても無防備に友情を感じているようだ。レストランでのフランソワはてきぱきした働き振りだが、お客が帰ったあと、毎夜コカインと思われる白い粉を吸入している。ルーシーには恋人ディヴィッド(吹越満)がいる。ディヴィッドはポリグラフ検査も担当する犯罪学の専門家で、以前ルーシーが地下鉄の人身事故を目撃したときにふたりは出会い、激しいパニックを起こしたルーシーをディヴィッドが家まで送って行ったことから親密になった。
最初は、ルーシーとフランソワ、ルーシーとディヴィッドの関係だけが見えているのだが、フランソワとディヴィッドにも、実は直接のつながりがあったことがやがて明らかになる。
ルーシーは、(おそらくはB級の)映画のオーディションを受けて主役の座を射止める。その映画は過去に実際に起きた女優の殺人事件を題材にしている。犯人はまだ捕まっていない。偶然にもフランソワは、殺された女優の友人(たぶん恋人)であり、容疑者であった。フランソワは気づいていないが、捜査の過程で彼が受けたポリグラフ検査を行ったのがディヴィッドだったのだ。事情が明らかになったとき、本当は犯人なのかとルーシーに尋ねられてフランソワは答える。「やってない、と思う」。
どんな舞台作品でもストーリーを述べただけでは、その作品を説明したことにはならない。この作品の場合は特にそうだと思う。
舞台奥には、白い壁が高く立っていて、その真ん中あたりに、天井まで届くこげ茶色の本棚が作ってある。白い壁は、スクリーンのように映像を映して、事故の起きた地下鉄のトンネルにもなり、ディヴィッドがよじ登って西側に脱出するベルリンの壁にもなり、落書きのあるフランソワの部屋の壁にもなり、レストランの帰りにディヴィッドとルーシーが見上げるケベック城塞の壁にもなる。映像が投影されるのは壁にだけではない。開幕してすぐ、太田がその白いゆったりとしたローブを広げて舞台を横切ると、その裾に、黄色い帯にKEEP OUTの文字が浮かび上がって、現場に警察が張り巡らせたテープになる。その後、同じく太田がローブの前を開いて脱ぎ捨てると、一瞬白い肢体が現われ、そこに人体解剖図の筋肉・血管・内蔵・骨格などが次々に投影されて、太田の身体は小学校の理科室に並んでいた等身大人体標本のようになる。(映像:ムーチョ村松、CG:石田肇)
さらに、舞台の上や袖、テーブルの下などにカメラが仕込んであって、その映像がスクリーンに映るので、観客は、あちらこちらへ視点を移動させて舞台を見ることになる。映画を見ているようだ。
どれくらいのプロジェクターやカメラが使われていたのだろう。このように人の動きと映像を緻密にシンクロさせるのは、どれほどの技術が必要なのだろう。見ているときはあまりにも自然で当然のことのように感じられたが、きっかけをほんのちょっと外しただけで、美しい効果を得られないだけでなく、全体がすっかりぶち壊しの間抜けなことになってしまったに違いない。
装置と言えるほどのものは、スクリーンを除けば、テーブルと椅子くらいだ。上演中、このテーブルと椅子を登場人物が必要に応じてするすると移動させる。ときには上に人を乗せたまま、ときには裏返しにして、あちこちに動かす。たった今、台詞を言っていた役者が、観客の見ている前でテーブルをぐいぐい押して端に寄せたり、ぐるりと回したりするのだ。テーブルは、書斎のデスクにもなり、レストランのテーブルにもなり、ルーシーの立つ舞台にもなり、フランソワが通うSMクラブの四肢拘束台にもなる。
太田緑ロランスの美貌についてはすでに述べたが、まるで一昔前のハリウッド女優のような、モード誌のグラビアのような衣装(衣装:Die-co★)もとても美しかった。身体にぴったりしたワンピース、真っ赤なAラインのコート、ハイヒール、サングラス。眼福、眼福。
そして、森山開次である。ダンスに疎いわたしでも名前は知っている著名なダンサーだ。彼のダンス場面は短いが、そこだけ時間が端正に進むように感じられる。脱色した長い髪がふわりと広がり、ゆるゆると落ちてくる間に、その身体は、すばしこい猫のように、冷たい蛇のように、割れたガラスが光るように動く。眼福、眼福。
劇中、森山の演じるフランソワは自殺を図る。未遂に終わるのだが。吹越と太田がゆっくりと押すテーブルの上に乗ったフランソワは、椅子の4本の足のうち3本だけを乗せて(つまり1本の足はテーブルからはみ出させ宙に浮かせておいて)、その上に乗る。数学の空間図形で習ったように〈3点は必ず一平面上にある〉ので、浮いている1本の足の上に重心を置きさえしなければ必ず安定するはずなのだが、客席で感じた、今にも転がり落ちるのではないかという不安は、フランソワに感じるものであり、また、この作品全体を通して感じられるものでもあった。
この作品の一番の謎は、フランソワは殺人事件の犯人なのか、ということだろう。その答えは明快に示される。ディヴィッドが学会で行った報告によれば、フランソワのポリグラフ検査の結果は、シロ。フランソワが混乱して、「永続する灰色の中に残され」たのは、「異常に知的」な警察が、ポリグラフ検査の結果をきちんとシロだったとは伝えなかったからだ。
ポリグラフ検査では、嘘をついたときに身体に現れる呼吸、血圧、脈拍、体温、発汗などの微妙な変化を捉えて、そこから嘘をついているかどうかを判断する。殺人を犯していないのに、フランソワは、ポリグラフ検査の結果が自分の潔白を証明したとは告げられなかった。自分自身の身体に裏切られ、彼は永続する灰色の中で宙ぶらりんだ。それが引き起こす混乱と不安が、白い粉を吸引させ、自殺へと引き寄せたのだろう。
ディヴィッドがルーシーにプレゼントしたマトリョーシカのように、事実は次々に出てくる。マトリョーシカほど親切に順番に現れるわけではないが、筋道はどうやら通る。でも、マトリョーシカの中からはマトリョーシカしか出てこない。そして、一番奥から出てくる小さいマトリョーシカの中には、もう何も入っていない。
作品の中で繰り返し現れる「骨」。太田の身体に投影される骨格標本。ハムレットを演じるルーシーが話しかける道化ヨーリックのしゃれこうべ。終幕、身体をまっすぐにしたまま、信じられないくらいゆっくりと倒れるフランソワ(森山開次の腹筋と背筋と腹斜筋はいったいどうなっているのだろう?)と対応するように、舞台奥でゆっくりと引き起こされる骨格標本。人間の身体から、皮を剥いで、筋肉や血管や内蔵を取り去った後に残る骨格。その奥は空洞、何もない。
フランソワがレストランで給仕をする場面で、森山はテーブルの上の食器やカトラリーを忙しく動かし、置き直す。この、際限なくも思えるめまぐるしい動きは、森山の動きの美しさで、うっとり眼福を感じさせるが、同時にこの世の無常をも感じさせるのではないか。わたしたちの時間は、こんなふうに流れていってしまうのだ。
最後の場面の前に、青いスクリーンの前で、着衣を剥ぎ取った裸体の三人が、そこまでに起こったことを、まるでおさらいするかのようにマイムで表現する。ここでの森山の大臀筋の美しさもまた眼福。そう言えば、死ぬ前にはそれまでの人生が走馬灯のように浮かぶと聞く。
舞台面は、すっきりしている。おしゃれで美しい。たびたび現れる血さえも、ぬらぬらした生臭いものではなく、鮮やかに赤くさらりと美しい。目を楽しませる美しいものの裏には、不安があり、空洞がある。美しいものも、表面をどんどん剥ぎ取っていけば、最後に残るのはうつろなものである。すべては無に向かって進んでいく。
生と死は隣り合わせ。盛と衰は裏表。それは、おそらく洋の東西を問わず、古くから言われてきたことだと思う。真実であり、真理ではあるが、そのまま言えばとても陳腐なことを、緻密に計算された舞台面や舞台上のパフォーマンスで眼を喜ばせつつ、じわりと感じさせてくれるのは、そのこと自体、虚と実が裏表になっているようで、中身と形式が一致しているではないか。むむ、やるな、ルパージュ。お見それしました、吹越満。
わたしとしては、このように「眼福」を感じさせてくれるなら、もうそれで十分よかったのであるが、さらに印象的な音楽(音楽:鈴木羊)があり、その上「じわり」がついてくることは、もちろん、やぶさかではない。
そうそう、眼福を喜ぶ祖父のことである。祖父のもうひとつの口癖は「見たもんと食べたもんは自分のもんや」であった。もともとは「買うたもん」と比較して、自分で経験したものは文字通り「身になる」から、決して奪われることはないという意味で、身をもって経験することの大事さを言うのだと思う。が、おそらくそれだけではなく、同じ経験でも、例えば何度も読み返すことのできる「読んだもん」などとは違って、その場で消えてなくなるものを、そのときその場で「見た」経験、「食べた」経験は、それを見たり食べたりしていない者には、どうしても手に入れられない貴重なものだ、という意味も含まれていたように思う。見たもんはわたしのもん。「『ポリグラフ』は、わたしのもん」である。十分にわたしのもんにできたのかどうかにはちょっと自信がないが、それでも、見たもんはわたしのもん、だ。「見たもん勝ち」と言わせてもらおう。これだけの眼福に恵まれる機会は、そうはないのだから。眼福、眼福。
(2012年12月13日マチネ)