4.目撃したのは、嘘か真か。分からないままそこにいた。(別府桃子)
添えられた言葉は短く、走り書き。順序もバラバラ。そんなスクラップブックをパラパラと捲っていくような感覚を覚えた。捲りながらも、自分は何を探しているのか、この束が示すテーマは何なのか分からない。まるで目的がないのに、知らない人のスクラップブックをこっそり覗いているような心地だった。「ポリグラフ 嘘発見器」、三人の役者のみで時空を飛び飛び魅せてくれる。
白の衣装を纏った美女が上手から現れる。西洋人らしい顔立ちから発せられる音に観客は日本語をフランス語に錯覚する。という演出で開演前アナウンスが行われる。このくだりはそこまで必要なものかと、正直始まる前から興ざめしてしまった。残り二人のキャストも舞台に現れて、静かで淡々とした演出家の言葉で前説が行われる。これは万人受けを最初から狙っていないタイプかなぁ、と思い少し身構えてしまった。「じゃ、始めまーす」とユルい言葉で幕が上がる。途端、音・映像・身体すべてのツールを最大限に活用した世界が広がって、ピンと張り詰められた精巧な雰囲気にのまれる。
シャッター音に合わせてスクリーンに映り込むものが映像、文字、現場写真と切り替わる。とある殺人事件の話が始まったかと思えば、すぐに次の場面へ飛んでいる。カレンダーをめくるように増えていく四桁の数字、西暦かと気づいて過去の話だと分かる。と思えば、慌ただしく給仕するウエイターが現れる。同じセットをあらゆる見せ方で使って、ベルリンからモントリオール、ケベックシティまで、アパートからレストラン、映画の撮影所、クラブ、地下鉄など、様々なところへ観客を一瞬でワープさせてくれる。映像、音、光、道具、そして役者の身体がそんなマジックを成功させる。
話の主な舞台はカナダのケベックシティ。そこは城壁で囲まれたフランス語圏の街で、歴史的に英仏ともにルーツをもつ。物語に登場するのは、かつて殺害されたマリ=クロード・レガレ、そして三人のキャラクターである。
ルーシーは若手の女優で、幼い頃から演ずる楽しさにとりつかれた子供だった。プロンプターとして参加していた舞台の主演俳優が急遽降板となり、代役として主演を務めることになる。ヨーリックの髑髏を抱えて練習に明け暮れた彼女は、女優でありながらハムレットを見事舞台上で演じきる。次はオーディションで映画のヒロイン役を射止めるが、その作品は未解決の殺人事件をもとにしたものだと分かる。
ディヴィッドは、かつてベルリンの壁の東側に住んでいた犯罪学者。大切な人を壁の向こう側に残したまま、単身西へと逃れてきた。彼は偶然、モントリオールの地下鉄で飛び降り自殺を目撃しパニックに陥ったルーシーを助け、後に彼女と恋仲になる。そして彼は犯罪捜査に使われる、ポリグラフテストの試験官でもあった。
そして、フランソワ。彼は多国籍料理のレストランでウエイターとして働いている。ルーシーとはアパートが同じで、隣の部屋に住む友人である。大学では政治学を学んでいた。働いている様やルーシーに語りかける普段の姿は快活な青年にみえるが、閉店後には慣れた手つきで白い粉を吸っていたりする。彼も、過去のある出来事に囚われていた。
話の鍵になっているのは、ルーシーが撮影中の映画のもととなった、未解決の殺人事件である。その被害者女性が、マリ=クロード・レガレであった。この事件に、ルーシー、ディヴィッド、フランソワが関わっているのだ。そしてタイトルにもあるポリグラフ、それがこの事件の調査の際に使われた。誰が悪いのか。事件を通して三人はどんな影響を受けたのか。何を思ったのか、そしてどう行動したのか。
最後を迎える前に、ブルーのライトに包まれた3人のシルエットが、それ以前のシーンをかい摘んでおさらいしてくれる部分がある。スピード感もあって、アート作品としての美しさもあって、とてもおもしろい場面だ。この作品は場所・時間軸がバラバラなままにシーンが繋げられているので、それはまるで走馬灯をみているような錯覚を覚えるかもしれない。それに、緻密な計算のもとに作られた頭の良いお芝居に「ちゃんと着いてきている?」と、私のような落ちこぼれの観客を拾い上げてくれる意味もあると思う。純粋に観ていて楽しめた。余談だが、個人的には、昔のトータルテンボスの漫才によくあった「今日のネタハイライト」のようだなぁなんて思いながら観ていた。漫才のスタンダードな締め方は、大落ちがあって、たいてい「いいかげんにしろ」とか「もういいよ」、「やめさせてもらうわ」のようなことをツッコミが言ってボケを止める。そこで揃って一礼、漫才が終わる。トータルテンボスが「今日のネタハイライト」を入れる場合は、大落ちの後に、その漫才をかい摘んでスローモーションでおさらいするのだ。面白いのだが、観客と笑いのポイントがずれているとキョトンとさせ、しつこく感じさせてしまう危険性もある、なかなか難易度の高いテクニックだと私は勝手に把握している。その点、ポリグラフでは掻い摘むポイントも的確に感じられたので流石だなと思った。ブルーのライトの中で速いテンポでそれを演じるのだから格好良さが格段上なのは当然といったところだろうか。
この作品の特色のひとつは、やはり映像の演出である。観客もそれに期待している。その技術に霞まないだけの魅力を、人間の身体で表現する役者陣の演技には何度も息を飲んだ。すべてのパーツの神経を研ぎ澄ませて魅せるゆっくりとした動き。身体のライン。息の合わせ方。無駄のない場転での役割。どれをとっても見事だった。太田はその人形のような見た目を存分に活用していたし、劇中に練習するハムレット姿も魅力的だった。吹越はその飄々とした様で凄いことをさらりとやってのけていて、またそののっぺりとした感じに浮かび上がる激情が、語弊がある言い方だがどこか癪に障る所が、空恐ろしくて見事だった。森山はダンスや身体パフォーマンスは言うまでもないが(階段や街中を歩く様、コマ送りで倒れる様は圧巻!)、フランソワの内面の表現もじわじわくる迫力で引き込まれた。
この作品は、観客の目線では捉えられない位置からのカメラ映像があるなど、舞台演劇というより、どこか映画やテレビドラマを思わせる。けれどその映像を観ながらもライブ感は健在なので視覚は少し戸惑う。この作品を素直に好きになれるか否か。それは、映像作品の手法は生の舞台で共存できると思うかという質問とリンクする気がする。もちろん、映画やテレビドラマなどの「映像演劇」と「舞台演劇」にはそれぞれの色があって、長所短所も違う。お互いが邪魔をしないで溶け合うなら素晴らしいし、それぞれの長所が共存できるなら更に素晴らしい。
映像の強みの一つが、時系列を何度も行ったり来たりするのが簡単に繰り返せることだ。こちらには編集という天下の宝刀がある。切ったり貼ったり、抜いたり後付けしたりと自由自在だ。その点、舞台では制限がある。それは役者の衣装替えであったり、場面転換であったり。特に小劇場なら舞台面の広さにも左右される。私に言わせればこのポリグラフ、舞台演劇らしからぬ場転の多さである。まるでフィルムを細かく切り刻んでランダムに繋ぎ合わせたかのようだ。それも道具と言ったら机と棚と椅子とランプくらいで、たった三人で、あらゆる場面をまかなってしまうのである。場転をほぼキャストだけで行っていたのも印象的だった。緻密な計算と、気が遠くなるような合わせ練習の繰り返しがそれを可能にしたのだろうと推察する。この演出が可能になることが、映像作品の手法を舞台に取り入れたメリットの一つと言えるだろう。
映像効果がここまで出張る舞台を観るのは初めてだった。これを評価するか嫌悪するか、分かれるところだろう。そして私はどちらにも煮え切らないでいる。冒頭の、太田の纏う白い服に浮かび上がる「Keep Out」の文字には、素直に格好良い!とシビれたし、スクリーンに堂々とト書きのような文章が現れるのも、ベルリンの壁の両側が見えるのも面白くて本当にワクワクさせられた。だがどこか手放しに満足したくない気持ちがあるのだ。
多分、私は少し悔しかったのだ。我々観客をサボらせないで欲しい。出来の悪い観客かもしれない。製作者の意図やメッセージを読み取れない、受け止められないかもしれない。でも舞台の見方の自由度は無限であって、少しでも楽しみたいから我々は自分なりの想像力を使う。目で見えるもの以外を、勝手に脳内で映像化してしまう。だから、シャッターが切られた現場写真も、机から、カメラのレンズからのアングルも、完成品を提示されてしまうのが逆にもったいないと思うのだ。ある意味視点が固定化されてしまう。映像表現が目玉(?)であるからこそ、どうしてもスクリーンを見てしまう。親切ではあるし、きっかけを絶えず与えてくれるのはありがたいが、少しくらいこちらに主導権を与えてくれてもいいじゃないかと思ってしまった。
舞台の終盤で、ルーシーがディヴィッドに懇願する。「感じて」、と。この作品は観客に何を感じて欲しかったのだろう。いや、相手に何を求めているのかと聞いてしまったらディヴィッドとやっていることが同じである。それではいけない。しかし白状すると、私はどこからが吹越オリジナルの演出なのか、とか映像や身体の使い方を考えてばかりで、あまり物語や人物に感情移入できなかった。情報を受信するのに精一杯で、まだ噛み砕けていない。あの三人が辿ったエンディングがどれなのか分からない。誰が救われたのだろうか。誰が失われたのだろうか。ただ思うのは、どこか三人とも自分を他人事のようにみているようだった。私は彼らの断片をハイスピードで観せられただけだけれど、他人事には何故か思えない。彼らが、新たな未来に進めたのか気になりながら、未だにこの物語の意味を考えている。
(観劇日時:12月22日19時半)