東京芸術劇場「ポリグラフ~嘘発見器~」

6.私は忘れない~お前のことは、よく覚えている(Je me souviens.~I knew him.)(小泉うめ)

 小学生の頃から、座席は一番後ろの真ん中が好きだった。席替えがあってもクジ引きのクジをを交換して、その席に着いていた。黒板が端から端までよく見渡せる。先生の熱の強弱も見て取れる(なんとも嫌なガキだ)。また、クラスメイトも、本の陰で内職をする子、窓から外をぼんやり眺める子、可愛いあの子のポニーテール、色々なものが良く見えた。「俯瞰する」などという難しい言葉も知らない頃の話である。

 N列11番・12番、劇場で席に着いて舞台を見降ろすと、最前列の席の前に照明がずらりと並んでいる。それも、それぞれに「あらぬ方向」を向いているものがある。そして、ビデオカメラやプロジェクターも配置されている。記録映像用のものではなさそうだ。これはプロジェクション・マッピングをやってくる。

 「ポリグラフ」は演出家としてもパフォーマーとしても世界的な活躍をしているロベール・ルパージュの作品である。日本では1996年に初演されており、ルパージュ自身の手による映画化でヴェネチア国際映画祭にも出品されている。今回はそれを、他作家の作品の演出することは初めてになる吹越満が、新しい演出で東京芸術劇場で上演した。観劇の前に、ルパージュと吹越の共通点を、大別して二つ考えていた。

 一つは優れた身体表現である。ルパージュのそれはサーカスを芸術の域に導いたに「シルク・ドゥ・ソレイユ」でも知られており、その手法は「フィジカル・シアター」と呼ばれている。吹越はコメディからシリアスなものまで何でもこなす巧みなパフォーマーであるが、ワハハ本舗からメディアに大きく取り上げられた頃のキャッチフレーズは「パントマイムの若大将」などとも言われた時代がある。ライフワークとも言える「フキコシ・ソロ・アクト」の中でも、その巧みな身体表現を継続して見せてくれている。

 また共演者も、これを表現することを十分考慮したキャスティングがされている。卓越した身体能力と表現力で、既に海外でも「驚異のダンサー」と注目されている森山開次、そして、フランス人と日本人の血を引く長身の素晴らしいプロポーションを持っており、野田秀樹作品「表に出ろいっ!」でヒロインを演じた太田緑ロランスである。
 ルパージュ作品を演じるのに相応しい、緊張感を維持できるストイックな点も、今回の三人には共通して備わっている。

 そしてもう一つは斬新な映像表現である。ルパージュは「映像の魔術師」とも呼ばれており、これまでの作品の中でも次々と新しい技術を取り入れて世界を驚かせてきた。吹越も前述のソロ・アクトの中で、早くから実験的な映像表現を取り入れている先駆者である。
 このような要素が、本作の上演を吹越に指名した野田秀樹監督の意図の背景であろう。

 さて、演出にプロジェクション・マッピングを用いる作品が国内でも随分増えている。プロジェクターを用いて舞台に映像を合成する舞台演出のことである。平面のクロスを使えば、まるで絵の中で人が動いているかのように見える。立体物を活用すれば、空間に映像が溶け込み、それが動き出すような演出が可能である。映像作品のように平面のスクリーンに縛られることなく、空間を演出することのできる新しい映像表現であり、それだけでもとても視覚効果が高いものである。

 特に、NYLON100℃や劇団新感線の作品に映像提供している上田大樹、大人計画やハイバイに作品を提供しているムーチョ村松、彼らのそれはクオリティーも高く、既にたくさんの舞台を支えて彩ってきた。演劇を見る方には是非覚えておいて欲しい名前である。
 本作の映像を担当したのはムーチョ村松で、直近ではハイバイの「霊感少女ヒドミ」でのめくるめく映像も記憶に新しい。

 そのような現状において大切なことは「演劇において、プロジェクション・マッピングは演出効果であって、これそのものが演劇ではない」という当たり前のことだ。演劇としての身体表現なしでは、それはただの映像作品になってしまう。演劇においては、あくまでも「効果」の範疇を超えないものであって欲しい。

 その技術躍進は目覚ましいものがあり、気をつけないと演技の前に出てしまうようなものもある。また、流行に乗ってやみくもに取り入れて、演技の妨げに感じるような作品に出合うこともある。それらについては、むしろ使わない方が良い。
だが、本作のように身体表現と映像表現がしっかりと融合している作品はとても新鮮で、今後の舞台芸術の更なる拡張の可能性を感じるものである。

 開演時間、太田が、ふらりと現れて流暢なフランス語で喋り始める。劇場に足を運んだことのある大方の観客は、この習慣的で儀礼的な時間に何が話されるかを既に知っている。ところどころ交える「ケイタイデンワ」「アラーム」といった言葉で、それが公演前の注意事項の説明であることを理解して笑い声が起こる。

 そこへ、森山と吹越が現れ、吹越が「フランス語で公演しようと思ったんですが、東京芸術劇場から日本語でやってくれと頼まれましたたので、日本語でやります」という冗談を言って更に客席を笑わせる。これでかなりリラックスしたムードが漂った。

 吹越は舞台で、しばしば「では始めます」と言って演技を始める。それには、緊張している客席を和ませるためであったり、開演前の劇場の雰囲気や開演前にしなければならない決まりきった前説からの切り替えのための工夫であったり、スタイリッシュでありながらも気取りきれない彼のシャイネスであったり、と色々な意味をこれまでにも感じていた。そう言えば、シャイネスというのも、ルパージュと吹越を繋げるもう一つのキーワードかもしれない。

 そして、今回は新たに別の感覚も加わった。それは、手品師が手品を始める際に使う「タネもシカケもございません」という言葉の意味に似ている。実際はタネかシカケか、その両方がある。この言葉を合図に、手品師は自らが手品師であることを宣言し、大切なお客様を騙し惑わすことの許可を取る。それを承認した観客は、そのタネやシカケを見破ろうと必死に手品師を凝視するが、手品師の話術と所作に翻弄され、結局は騙され、けれど見事だったと感じるところに帰着する。

 上演前に席に着いて感じる劇場の空気も、通常より重くて固いものであった。だが、この言葉が発された瞬間、話題作に気合いを入れて東京芸術劇場にやって来て、前のめりになっている観客が、その背中を椅子に落ち着けてしまい(それが正しい観劇姿勢だが)、まんまと煙に巻かれた。こうなると、もう客席は嘘を発見することはできない。吹越の軽いステップで舞台を叩く音が、静まり返った劇場に響いた。

 物語はルパージュの生まれ育ったカナダのフランス語圏ケベック州を舞台にしている。彼の作品からは、think globally, act locally な立ち位置を感じる。世界的な視野を持ちながらも、それを自分の周りで考える。また、自分の周りのことを語りながらも、その思想は世界規模である。

 1983年、モントリオール、女優のルーシー(太田)は地下鉄の飛び込み事件を目撃する。凄惨な殺人現場の検証が行われる。
その瞬間、深く突き刺さったナイフは、心臓を貫いて壁となっている。心臓の血液の流れは一方向性であり、逆流することのないようにそれは弁で遮られている。それは突如現れて、ドイツを分割したベルリンの壁を暗喩する。西から東へは入ることが出来たが、東から西へは決して入ることが許されなかった。

 但し、ベルリンの壁の崩壊は「ポリグラフ」の初演以降のことであるので、本来のテーマがそこにあるということではなさそうである。むしろ、再演を重ねる過程で重なってきた現実なのであろう。

 鮮やかなプロジェクション・マッピングとは一線を画した感じで、演技の途中でケベックの観光名所の映像が背景に流される。張り詰めた緊張を少し緩めるような時間でもあったが、ここでの映像がルパージュが創作時に想い描いていたであろう心象風景への旅に導いてくれた。

 ケベックの市街地は米軍の攻撃に備えて英国軍が30年間の歳月を掛けて構築した城塞であり、高い石壁で囲まれている。外部との往来のためのサン・ルイ門が設けられており、それはまさにベルリンの壁を思わせるような光景である。

 ルーシーは、その時助けられた犯罪学者のデイヴィッド(吹越)と親密になり恋愛関係になる。数年後のある時、二人はルーシーの友人フランソワ(森山)の働くレストランで食事をするが、デイヴィッドはフランソワが容疑者として自分が検査したポリグラフの被験者であったことに気がつく。ルーシーが遭遇した殺人事件に、友人のフランソワが関わっていたのだ。異なる背景を持つ三人が、それぞれの因果で繋がっていることが明らかになって行く。

 ポリグラフの結果では、フランソワは犯人でないと判断されているが、真犯人の捕まっていない状況で、フランソワにはそれは伝えられていない。そのため彼は、釈放はされているものの、心に傷を残しまま暮らしている。

 フランソワは自分の部屋でコカインを想わせる白い粉を鼻吸入して、それによって抱えている心の苦しみから自らを解放するような時間を過ごしている。それとリンクするように、ルーシーは鎮痛薬、デイヴィッドは目薬と、他の二人も薬物を使用することをきっかけに、夢か幻覚のような世界に迷い込んで行く。

 時間軸は、観客の脳内で、彼らの過去と現在そしてそれを見ている観客の現在、この三つの時代をスパイラルに往来する。
複数の照明で一人の人物から描き出す複数の影。カメラから舞台に投影するドッペルゲンガーのような画像。プロジェクターから役者やセットに向けて重ねて映し出される映像。実は迷子にされてしまうのは、舞台上の彼らではなく観客の方である。

 ポリグラフは犯罪捜査において利用される捜査手法の一つで、被験者に事件に関係する質問をして、その時の呼吸、脈拍、皮膚の変化を測定するものである。

 タイトルにある通り、ポリグラフは一般に嘘発見器と呼ばれているが、それは少しニュアンスが違う。ポリグラフは嘘を発見するのではなく、事件について被験者が情報を持っているかどうかについて知る手段に過ぎない。
 ポリグラフは、人間が嘘をつくことによる緊張で、呼吸数が増進し、脈拍数が増加し、発汗により皮膚の電気抵抗の低下が見られると一般的には信じられているが、この説明は間違っている。この誤った解釈が一人歩きして、嘘発見器という名称も普及してしまっている。

 舞台を通して、ポリグラフへの敵意のようなものも感じていたが、ルパージュが実際にポリグラフ検査を受けたことのある事実を観劇後に知った。この後記すポリグラフについての情報は、一般にされている誤解を含んでいるが、実際にそれを受けた人間であれば改めて指摘したくなるポリグラフ検査の曖昧な部分である。

 一つは、過剰に緊張しやすい者には、取り調べという状況で、ポリグラフに反応が出てしまう可能性があるということである。特にその人間が、必死に努力をして記憶を呼び起こし事実関係を正確に述べようとしているのか、それとも嘘をつくために緊張しているかが、判別はできないという点に問題がある。
 激しく尋問されるフランソワも、実際は犯人ではないにもかかわらず、ついには自分が犯人かもしれないという心理へと落ちて混乱して行く。

 もう一つは、逆に常習的に嘘をつく者や妄想によって当人がそれが真実だと信じ込んでいる場合には、緊張状態が発生しないためにポリグラフ検査に反応しない可能性があるということである。
 ルーシーはポリグラフにかけられることはないが、対比的に生まれながらに嘘をつくことが好きな女性として描かれており、それが女優になった理由だとされている。彼女の演技の始まりは3才の時の「死んだふり」であり、その次は7才の時の「仮病」だと語っている。
 伝えようとしていることは、「ポリグラフで何かが暴かれる」ということではなく、「ポリグラフでは何も分からない」ということの方なのかもしれない。

 1989年、オーディションに挑戦し続けていた女優のルーシーは、やっと役を手に入れる。ハムレットを女優が演じるという趣向の演目である。彼女は繰り返し、独白のシーンを稽古する。そして、その役が、かつて自分が見た殺された女性であることに気づいて行く。
 「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という名台詞に様々な意味が重ねられて、鮮やかな舞台に霧が張って行く。

 だが、ケベック市民としてのルパージュのこだわりは、道化ヨリックの骸骨を手にしてする瞑想のシーンの方でより強く感じた。最後の台詞、「お前のことは、よく覚えている」が、ハムレットから飛び出して、最早この物語のものになっている感じを覚えたのはどうしてだろうか。
 ここまでの考えから、この時ルパージュが浮かべているのは、彼をポリグラフにかけて尋問した検査官の顔なのかとも、おぼろげに考える。

 しかし、更にこの台詞で思い出したのはケベック市民のモットー、「私は忘れない」という言葉である。
1883年、当時のケベック州副管理官のウジェーヌ=エティエンヌ・タシェが、議事堂の建築に際し、その玄関のケベック州の紋章下にこの言葉を刻んでいる。そしてその後、1939年、この言葉はケベック州の紋章そのものにも入れられるようになっている。
 それは、ケベックというカナダの中でも、外部との境界線を持って特殊な道を歩いてきた州ならではのものであり、私達が考えるような、どこの町にもあるようなそれとは、意味合いも重さも全く異なるものである。

 その意味は、これに続く「私は忘れない。ユリの元に生まれ、バラの元で育つ」という言葉から想像されている。「ユリ」はフランスの象徴、「バラ」はイギリスの象徴である。ここに根ざしているのは、フランス系のカナダ人としてのケベックの人々の誇りである。彼らが決して忘れないのは、その血、歴史、伝統、そして、その記憶である。

 この物語の主題が、先に述べたような検査官への恨み節のみであるならば、それは残念なことである。だがルパージュが絶対譲らず守ってきたのが、この「ケベック市民」としての誇りだとすれば、やっと腑に落ちる。彼は、このことを本作の主題として、ケベックから世界に発信していたのだろうという考えに辿り着いた。世界的にも稀な、独特の発展をしてきた都市の文化や市民性が、その登場人物たち映し出されていた。

 最後に、鈴木羊の音楽もとても印象的で効果的だった。記憶や幻覚のようなシーンではスライドギターで奏でるブルースの旋律が、現実のシーンではスリーフィンガー進行のマイナーなメロディという形で、アコースティック・ギターの音色が対比構造を成しながら交互に繰り返し聞こえてくる。ラストシーンの頃には、そのシーンに合わせて耳がそのメロディを欲するようになっており、その展開が観劇後の長い余韻となった。

 冒頭で紹介した人間観察が好きだった子どもは、成長して偶然にもカナダのことを少し学んだ後、大学で心理学の研究に没頭した。今は時折ふらりと劇場に通っては、登場人物の心理描写を楽しみながら、その当時のことを思い出しては懐かしんでいる。
 しかし、その幼いころの嗜好と習慣は今も変わっていない。
(2012年12月28日15時の回観劇)

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