グループ る・ばる 「片づけたい女たち」

4.制作中止 片づけられない男たち(佐藤 恵)

 「片づけられない女たち」の好評を受け、続編として下記「片づけられない男たち」の制作を予定しておりましたが、このたび中止が決定いたしましたのでお知らせします。

 予定していたあらすじ:
 高校時代、同じバスケ部で仲が良かったツンタ、チョビタ、バツオの3人。卒業後、暫く疎遠になってはいたものの、壮年期にさしかかりそれぞれの生活が安定してきたここ何年間かは、徐々に以前のような交流を持つようになっている。
 ツンタは、大学卒業後就職し、デザイナーズマンションに若い愛人と住んで、独身生活を楽しんでいる。チョビタは大学には進まず、場末の料理屋の入り婿となっている。入り婿だけに立場が弱く、家事にも義理の母親の介護にも勤しんできた。最近では娘の入り婿との関係に悩んでいる。バツオはその外見をいかして金持ちの奥さんをもらい、悠々自適の生活をしている。
 そんなチョビタとバツオに、ツンタが愛人と別れたらしいとの噂が届く。会社の人間関係に関しても愚痴をこぼしていた。ところが、いくら連絡を取ろうとしてもツンタはつかまらない。心配になってツンタの家にやってきたチョビタとバツオが見たものは……

 なんていう設定の脚本はうけないだろう。中止もやむを得ない。
 正直をいうと、私はこの舞台がほとんどわからなかった。いや、確かに面白い。笑える。3人の女優が、それぞれに与えられた「枠」をきっちり演じきっている。それで十分なのだろうが、胸がもぞもぞして落ち着かない。

 チョビタ(おチョビ(松金よね子))とバツオ(バツミ(田岡美也子))が見たものは、ゴミの山、山、山。「足の踏み場がない」を現実にしたような空間で、空の納豆パックを気づかずに踏んでしまうような状態だ。ゴミはベランダまで占拠していて、夜なのにまだ布団が干されている。いつ干されたかもわからない。電気も暖房も付けっ放し。咄嗟にツンタ(ツンコ(岡本麗))の身を案じた2人は寝室まで見に行くが、一層山積みされているゴミに阻まれて安否を確認できない。途方に暮れる2人。そこへ、何事もなかったようにツンコが現れる。その後片づけ作業とともに、ツンコ、おチョビ、バツミの過去、現在、未来に渡る「ガールズトーク」が始まる。

 壁はこの女性3人によるガールズトークだ。私には、このガールズトークがまるで理解できない。高校時代は1学年315人中女子69人、高3では35人中女子4人。大学では1学年620人中女子19人。いわゆる多感な青春時代を、私はほとんど男子との会話だけで過ごしてきた。就職しても周りは男だらけだ。数少ない女子も、結局はfilteringされた集団だ。ぶっちゃけ、未だに女性との会話では緊張する。何を話していいかわからない。彼女たちはすぐに泣きそうだ!! だから、舞台上で繰り広げられるガールズトークは、まるで彼岸の会話なのだ。

 愛人を追い出し、ゴミを抱え、ツンコの生活は破綻寸前だった。そこにやってきたのがおチョビとバツミだ。2人はゴミを片づけ始め、乗り気でなかったツンコも次第に協力していく。

 ガールズトークで語られるゆるい会話。たった1~2時間の会話の中でも、いがみ合い、許しあう。ツンコの抱えたゴミの整理とともに、心の「おり」も整理されていく。

 高校時代にバスケット部で起きたセクハラ事件。ベトナム戦争の反戦活動を機に高校を去って行った同級生。そのいずれでも、3人は傍観者であった。おチョビもバツミも覚えてはいない。しかしツンコは、会社の人事問題でその傍観者である自分に直面し、「告発されない罪」に苦しんでいた。なぜなら、自分が傍観者となって逃げたために退職せざるを得なかった、元上司からと思われる糾弾文を受け取ったからだ。それ以来頻繁にかかってくる電話に出ることもできない。そこに、「隣の芝生」のおチョビとバツミの悩みもかぶさる。

 これが男たちの話だったらどうだ? 片づけられない男は、片づけられない女程には責められないだろう。同じ若い愛人でも、男性と女性とでは世間の目が違う。婿舅の軋轢と、嫁姑の軋轢と、どちらが深刻だ? 金に目がくらんで金持ちの女性と結婚したけど、自分の人生これでよかったのか? なんて考える男性の話は聞いたことがない。おそらく、ある種の「負」を表現するための設定が、女性だからこそ成立するものだ。あの会話の流れ自体が、女性でなければ成立しない。バツミの何の脈絡もない会話の展開も、なんとなく流れていくゆるさも、女性だから「あるある~」なのだろう。しかし、私はどうにもこうにも居心地が悪い。

 時折ぶつかり合いながらも、互いの心の「おり」を語り合い、理解しあう。足の踏み場が形成され、ゴミの山が低くなる。
 電話が鳴る。元上司からの糾弾の電話か!?今まで躊躇していたツンコが意を決して出てみると……

 ツンコが部屋に抱えるゴミと、心に抱えるゴミと、その整理が同期して語られる。だから、なんとなくカタルシスを与えられたような気分になる。話すことによる癒しや、それを友が受け止めていることの心地よさ。本来は計測できないはずのものまで、目の前でどんどん減っていくゴミの山で測られているような錯覚を覚える。より一層密な親交を約束して別れていく3人。ちょっと疲れた様子を見せたツンコに、もう一度励ましの声をかけていくおチョビとバツミ。これは女たちでなければならない。

 それだけで十分でしょう。面白かったし。すっきりしたし。しかし、ではあたかも主題のように語られる「傍観者」はどうなのか? 確かに、当事者としてあたったからこそ、ツンコのゴミは片づけられた。いやいや、どうにも心に落ちてこない。主題として主張するには扱いが弱いし、かといって道具として利用するには扱いが強い。私にはそう思える。

 予想以上(失礼!!)に盛況な会場で、斜め前の初老の男性が屈託なく笑っている姿をみて、私は最近少し忘れていた自分の”浮いている”感を思い出した。男性なら、ステレオタイプで語られる舞台上の女性像に違和感が無いのだろう。まっとうな成長を遂げてきた女性たちにも抵抗がないのかもしれない。では私は? 女性だからこそ、男性のようにステレオタイプを受け入れられないし、かといって女性のように共感できない。駄目だ。私のおりは片づけられない。
(2013年1月17日観劇)

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