グループ る・ばる 「片づけたい女たち」

6.片づけていて刺さったトゲ(都留由子)

 舞台が明るくなると、そこは高い天井に大きな天窓のあるマンションの一室。下手のキッチンの前に、唖然とした顔でふたりの女性が立っている。客席では、観客も唖然としている。悲鳴みたいな、びっくりしたときに吸い込む息の音が聞こえる。永井愛作・演出「片づけたい女たち」。グループる・ばるによる四回目の再演である。

 吹き抜けの大きな天窓のあるマンション。つまり、そのへんのちまちました、名前だけは「マンション」で実態は「アパート」というようなものでなく、「お洒落な」もしかしたら「セレブな」マンションに違いない。なのに、そこら中一面、ゴミ袋と衣類とダンボール箱と、なんだかわからないごちゃごちゃの山、山、山。足の踏み場もない。呆然としているふたりの女性の身体だって、その山に隠れて全部は見えない。ものすごいと言いたい美術は、太田創。

 開演前に聞こえたピンポン、ピンポンというチャイムの音は、このふたりが訪ねて来て鳴らしたチャイムだったのだ。部屋の主は、電話にも出ず、チャイムにも応えず、友人らしきふたりの女性は合鍵を使って入ってきたようだ。強盗に入られたのではないか、トイレか風呂場で倒れているのではないかと姿の見えない部屋の主を心配するうち、ようやく話題の主である女性が現れる。ぼさぼさ頭で気楽な部屋着姿、とても不機嫌そうだ。

 三人は同じバスケットボール部で高校時代をともに過ごした同級生、ツンコ(岡本麗)、おチョビ(松金よね子)、バツミ(田岡美也子)。連絡がつかなくなって会社も休んでいるツンコを心配しておチョビとバツミはやって来たのだが、部屋のあまりの惨状に、ふたりは片づけると宣言する。

 片づけ始めたらかえって散らかったのだとか、困っている人に送るために取ってあるのだとか言い訳を並べ、資源ゴミは別にしろとか、雑誌と新聞は分けろとか、こんなに散らかしたくせに妙に細かい文句を言うツンコをいなしつつ、互いにやりあいつつ、つっかかりつつ、三人はゴミの山を片づけ始める。この芝居は全編「片づけつつ」進むお芝居だ。

 50歳になるという三人のこれまでの人生が、おしゃべりの中から見えてくる。結婚せずに仕事を続け、「おやじの遺産をつぎ込んで」このデザイナーズマンションを買ったツンコ。高校卒業後(おそらく)すぐに結婚して、食堂を切り盛りしながら子どもを育て、長い介護の末に姑を見送り、子どもは結婚し、今では嫁姑問題に悩むおチョビ。10歳も年上の宝飾品の商売をしている「じじい」と結婚して、優雅に暮らしているらしいバツミ。

 高校時代にともに汗を流した間柄らしく遠慮のない言葉のやりとりがあり、50代らしく、心身の老化・不調の話題があり、高校時代の思い出話があり、すでに亡くなった友人たちの話も出る。手も動かし、口も動かす。あれこれありながらも、ゴミだらけだった部屋はどんどん片づいて、終幕には、最初と比べると見違えるようになる。しかし、片づける中で現れてきたそれぞれの抱える問題の方は、部屋のようには片づかない。

 誰にだって片づけたいことのひとつやふたつ、いや、十や二十はあるだろう、人生も半ばを過ぎれば。問題が起きたときに、ひとつひとつその場できちんと片づけることができていれば、そんなことにはならないのだろうし、それに越したことはない。でも、人生にはいろんなことがある。幼児や老人がいたり、一度に複数の問題が起きたり、だましだまし、ときには見ないふりをして切り抜けるしかないことだって多いのだ。問題のいくつかは、見て見ぬふりをしているうちに、何となく解決しちゃうことだってあるんだし。

 職場には、「あたしが行かなくったってだーれも困らない」し、「役には立たないけどピチピチしている」嫁の評判はいい。「振り返って自分に誇れるようなものは何もない」し、あらゆる些事で埋め尽くされる人生を思って波立つ心を、般若心経を唱えることで、ようやくなだめて何とかやっているのだ。こういうことは、新聞の文字が読みにくくなったり、ほとんどの固有名詞の代わりに指示代名詞を使うようになる年代の人なら、大なり小なり心当たりのあることではないか。

 それだけではない。もうちょっと厳しく自分に突きつけられるものも片づかないまま残っている。

 高校時代、クラスからのベトナム反戦決議は、何の役にも立たないという理由で見送られた。クラスメートのアポロンは、「この傍観者ども!」と叫び、傍観者の罪は重いと叫んで退学して、東大一直線のはずだった彼は音信不通になる。バスケットボール部でコーチからセクハラを受けた友人チヨミを、三人は懸命に慰めはしたが、コーチの責任を問うことはせず、事実を知らずにチヨミを責めるみんなを止めなかった。どちらのできごとも、高校生としては、それが精一杯だったし、よくやったよ、と思えることだ。が、本当にそれでよかったのかという問いはトゲのように胸に突き刺さる。

 昔のことだけではない。ツンコの上司、課長だったミス・イナタケは、部長のパワハラで退職を余儀なくされたのだが、ツンコは部長と戦いミス・イナタケを守ることはしなかった。彼女の退職後、ツンコは課長に昇進する。

 傍観者の罪。誰にも告発されない罪。心当たりのない者がいるだろうか。あれで精一杯だった、仕方がなかった、自分にだって生活がある、他の人よりはマシだ。後ろめたく言い訳をしながら、目を伏せてこっそり後ずさりした覚えのない者がいるだろうか。

 あるあるとうなづかせ、笑わせる細部と、そこに仕掛けられた、ドキッとさせ、自分を振り返らせる問い。永井愛の脚本は、笑いながら見ている客席のわたしたちの胸にじわりじわりと迫り、トゲを残す。忙しくそのあたりを片づけながら、笑いながら、喧嘩しながら、出ずっぱりの三人の女優たちは、1時間45分休憩なしの膨大な台詞を、まっすぐに客席に届ける。下を向いていても向こうを向いていてもはっきり聞こえる台詞も、ああ、ほんと、こういう人いるよね、と思わせる人物造形も、さすがだ。安心して見ていられる。

 度々鳴る電話に、ツンコは出ようとしない。ツンコが恐れていたのは、ミス・イナタケを庇わなかった「傍観者の罪」を非難する電話だと思っていたからだ。ようやく部屋が人の歩ける状態になってきた終幕、彼女は意を決して鳴り続ける電話を取る。出てみれば、それはベランダに並べた大量のゴミ袋や、夜も干しっぱなしになっている布団についてのご近所からのクレームだったことが分かり、三人はホッとする。そして、これから毎週日曜日に三人で集まって部屋を片づけていこうと約束して、おチョビとバツミは帰っていく。

 思い出を共有している友人、ケンカのできる友人はいいもんだなあ、耳に痛いことも言ってくれる友人、元気のないときに支えてくれる友人、本気で心配してくれる友人がいるって、なんて幸せなことだろうか。

 来週の日曜日、三人は集まって部屋を片づけるだろう。ガタの来た身体の話、死ぬまでにしておきたいこと、嫁の話、プチ整形の話。いろいろな話をしては、笑ったりやりあったり、喧嘩したり謝ったり仲直りしたりするだろう。

 チヨミがセクハラを受けたとき、三人は跳び箱の陰で集まった。それには「跳び箱会議」と名前までついていた。三人はチヨミのために一所懸命だったけれど、ツンコに言わせれば「『傍観者として』よくやった」と思えるようなことしかできなかった。高校生だったのだからそれで精一杯だった、仕方がなかった、自分たちはよくやったよと宥めるおチョビとバツミに対してツンコは言う。「じゃ、今なら違うことができる?」
 そう、それこそが突き刺さる問いだ。問題は、今なら違うことができるかどうか、だ。

 この先、日曜ごとに集まる三人は「跳び箱会議」を超えられるのだろうか。
 もう少し若い頃にこの芝居を見たら、わたしはきっと、「三人は跳び箱会議を超えていく」と考えただろう。勝負はまだ終わったわけじゃない、傍観者だったことを三人は乗り越えていくに違いない、と考えたと思う。だって、気がついたんだから。きっと自分を変えていく、きっと今なら違うことができると考えただろう。

 しかし、人生の折り返し点をすでに通り過ぎたわたしは「跳び箱会議」の心地よさを知っている。わたしは本気で心配しているもん。全然心配していない他の人たちとは違うもん。そりゃあ、完全ではないけど、何もしないよりはずっといいでしょ。何もしない人の方が多いんだから。ああ、言い訳ならいくらでも出てくる。そして、だよね、結局できることしかできないんだしね、なんて言ってくれる友人でもいようものなら、もう、間違いなく跳び箱会議で満足してしまうだろう。

 それでいいのか?「じゃ、今なら違うことができる?」と問わなくていいのか?
 高校時代から続く友情、それぞれの状況を超えてつながる女たち、老眼になっても腱鞘炎になっても膝が痛くても、友だちがいればまだ頑張れる、あんなにひどい部屋だって少しずつでも片づければ片づくし、そうすればやり直せる、おばちゃんだってまだ勝負がついたわけじゃない、そういう見えやすいメッセージ、うっかりすると、いいもんだなあとしみじみして終わりそうなその奥に、永井愛が潜ませたトゲは簡単には抜けない。
(2013年1月17日19:00の回観劇)

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