グループ る・ばる 「片づけたい女たち」

10.片付かない部屋を描く、整った芝居。(宮武葉子)

 昼間、あるいは就寝中、ふとしたはずみで雪崩が発生することがある。自然現象ではない、我が自室限定の災害である。本を収納する場所が圧倒的に足りず、床に積み上げた山が長く一触即発状態なのであって、ちょっとした動きによって一気に崩れるのである。買った本の整理も追いつかず、同じものを2度買ってしまうていたらく。
 もはや布団を敷くスペース以外ほとんど見えない床を眺めるたび、己のだらしなさにうんざりする。そして思うのである。「こんなところ誰にも見られたくない」
 「片づけたい女たち」を見てまず思ったのは、「相手が誰であれ、こんな風にどんどん中に入ってこられたらかなわんなぁ」ということだった。

 高校の同級生だったバツミ(田岡美也子)とおチョビ(松金よね子)が、もう一人の友人であるツンコ(岡本麗)の家にやって来る。室内は激しく散らかっており、家主は事情を語りたがらない。一体何があったのか、彼女たちは誰なのか。2つの疑問が、観客の前に示される。

 おチョビをリーダーに、一大片付け大会が始まる。動きながら、彼女たちは今や昔のことを語る。笑いながら見ているうちに、三人の性格が、来し方が、だんだんと分かってくる……これが、「片づけたい女たち」の大まかな筋だ。

 女三人は互いに遠慮がない。相手に気を遣わないということではなく、フォローしたりされたりといった場面もあるのだが、総じて彼女たちは正直である。ゆえに、発言は時に辛辣になるが、言われた方は怒ることはあっても、いちいち傷ついたりはしない。

 あまり会わない時期もあったという台詞が後半にあったが、常の生活パターンが相当違うと思われる3人のつきあいは、いつもべったりという訳ではなかったようだ。実際、彼女たちはお互いの近況を詳しくは把握していない。電話やメールがなければ心配はするようだが、日頃から頻繁にやりとりをしているという風ではない。にもかかわらず、いったん掃除を始めたら、おチョビもバツミも手加減しない。袋や箱の中身を空け、どんどんものを分別していく。他人の荷物を、見られたくないと本人が言う前でいじる、というのは、相当踏み込んだ行為である。よほどに気安くなければ、こんな真似はなかなか出来ない。長い時間かけて積み上げられた信頼あってのことだよなぁ、今時こういう友情ってあるのかなぁ、イヤないことはないんだろうけど、SNSのコメントだのメールのレスの速さだの言ってるヒトたちにはちょっと真似出来ないんじゃないかなぁ、いいなぁ昭和の関係は、などと、ぼんやり思いながら見ていた。

 こうした「熱い」人との関わり方が、彼女たちが50代の女性であるという設定によってリアルなものになっているというのはいうまでもない。

 「性格の違う同性の友情もの」には、いくつか方向性があると思う。一見仲よさげな人たちが、だんだん本音をあらわして破局する。逆に、全くかみ合わない人たちが、ぶつかりつつ歩み寄り、親しくなる。「片づけたい女たち」は第三のパターン、すなわち「時に揉めることはあっても、揺るぎない絆で結ばれた友人たち」。幸福感に満ちたステージとなる可能性が高い一方で、下手にやれば観客を白けさせてしまう。そうそう経験出来ない「世紀のロマンス」や「波瀾万丈の生涯」とは違い、友だちづきあいがどういうものか、たいていの人は知っているからだ。

 初日、劇場は笑い声と暖かい空気に満ち、観客は幸せそうに見えた。少なくとも最後列で観劇していた評者の周囲は、皆とても楽しそうだった。

 実際、面白かった。
 面白いに決まっている。ベテランの脚本・演出家と、ベテラン女優3人が、現代の、実年齢に近いところを取り上げている。いわばホームグラウンドで戦っているのである。
 幕開きは極端なセットで驚かせ、テンポのいい会話で笑わせ、合間に深刻な話をさらりと挟み、後半ではほろりとさせる。目の前の現実は甘くはないし、問題が全て片付いた訳ではないけれども、また頑張ってみようかという気持ちに見ている方もさせられる。希望を感じさせる幕切れも甘くなりすぎず、従って絵空事には全然見えない。

 全くもって不遜な物言いであるが、よく出来た芝居である。上手いなぁと思う。
 上手いのは物語の運びだけではない。芝居はツンコの家の一室で展開され、場面転換は行われない。軽快な会話と相まって、だれる暇が少しもない。
 また、散らかった部屋が少しずつ片付くにつれて、登場人物たちの心の内も整理されていく。内心抱える問題と部屋の中の有象無象がリンクし、最後には観客側もすがすがしい気持ちになる。
 自分が戯曲を書くなら(書かないけど)手本にしたいぐらいである。
 舞台上は散らかっているが、芝居は本当にきちんと整っている。

 芸もなく上手いを連発しているのが我ながら困ったものだが、一方で少し、ほんの少しだけ、違和感を覚えた点も記しておきたい。

 まずは脅迫状の一件。
 ツンコが物をため込み外に出られなくなったのは、一つには勤務先で自分が見殺しにした(と、彼女が思っている)人物の後釜に据えられたためであり、今現在彼女を悩ませているのは、何度となくかかってくる電話、そして玄関ドアに挟まれていたという手紙である。気になるのは後者の方である。

「あなたの犯した、誰にも告発されない罪を、私は心底軽蔑します」

 電話の主の正体が判明する(これも上手く出来ていると思った点のひとつ)ことにより、手紙の話の方も何となく終わりになり、結局誰が書いたものなのかは明かされない。だが、報道やフィクションの話でならともかく、「告発されない罪」などという言葉を、人は日常生活の中でそうは使わない。まして、紙に書いて他人の家にこっそり置いてきたりはしないものだ(それとも、するのだろうか。評者の感覚が間違っているのだろうか。そのようなことは多分ないと思うのだが)。それに、ご近所のおばさんは自分が正しいと信じて行動しているのだから、回りくどい手紙を書いてこっそり入れたりはおそらくしないと思う。

 玄関に脅迫状が置かれていたら、それはもう事件である。「なぁんだ」で済ませる小道具としてはいささか大げさではないだろうか。じゃあ代わりに何か、といわれるとすぐには思いつかないが……例えば、「廊下で誰かが噂話をしているのを聞いて、自分のことを言っているのだと思い込む」程度の誤解である方が、劇中の扱いにはふさわしいように思われる。大変まずい例で恐縮だが。

 そして何より「口当たりの良さ」。
 「片づけたい女たち」は、ぱっと見わかりやすい。だが、本当に自分が分かったのかどうかがよく分からない。といって、話が理解出来ないということではもちろんない。本作に難解な部分はひとつもなく、どの場面も頭ではちゃんと分かる(つもりである)。だが、50を過ぎた女性たちの経験を、評者はほとんど共有しない。世代は近いが同じではなく、ベトナム戦争はリアルタイムというより現代史で習った項目のひとつだ。婚家での苦労、若い異性との恋愛、美や若さへの執着、いずれも縁のないものばかりである。上の世代を見てはいるから想像はつくが、果たして3人の言うことが「本当に」分かったのかどうか、どうも自信が持てないのだった。

 あまり深刻に考えることはないのかも知れない。アメリカで行われたリーディング上演が大成功を収めたと、戯曲『片づけたい女たち』(而立書房2012)にある。「細く長く強い女の友情」や「傍観者の後ろめたさ」、「気持ちをため込む女」などを描く本作が普遍性をもつことに異を唱えるつもりはないし、そもそも同じフィクションの登場人物と経験をしていなければ理解出来ないというものでもないだろう(逆もまた真なり)。また実際問題、作品を自分のことに引きつけて理解することでしか、「鑑賞する」という行為は成り立たない。

 それでも、上の世代の多くの女性たちが抱えてきたものの重たさが実感としてつかめていないのでは、という歯がゆさは残る。職場でのごたごたも嫁姑の軋轢も、いつの時代にもあるものではあるが、50代の彼女たちが背負ってきた嫁姑問題は、下の世代のそれとは内容が違う。「傍観者の罪」と言われて、今の若者が思い浮かべるのはいじめ問題だろうか。アポロンのベトナム反戦決議提案に賛同しきれなかったことにこだわるツンコと、今、自分のすぐ横で起きているいじめを看過している高校生の苦悩は、連続してはいるが同じものではないと思う。これを「傍観」というキーワードで括って分かった気になることに、いささかの抵抗感を覚える。

 永井戯曲では、社会が抱える何かしらの問題が説教やプロパガンダの形を取ることなく示されることが多い。評者は本作を入れて5本の永井作品を見ているが、いずれも「今の日本のある側面」を切り取ったもので、エンターテインメントとして楽しめ、なおかつ考えさせられるものばかりだった。

 すごいなぁ、と、いつも思う。
 しかし、だからこそ。説得力を持つ永井作品を見て、「ああ、そうだよなぁ」「なるほどねぇ」とうなずき、分かったような気になっているのではないか、と思わずにはいられないのである。今まであまり考えたことのなかった、あるいは関心はあってもちゃんとは知らない社会問題について、一定の見識を持ったと錯覚してしまうような気がして怖い。
 作品が整っているからこそ、簡単に納得して終わりにする観客になりたくない、と思う。
 これは作品ではなく、むしろ受け手の問題であるのだが。

 幕開きではどうしようもない状態であったツンコの部屋が、1時間45分という上演時間の間に少し、だが明らかに片付いたのを見た時には、「自分の部屋よりはだいぶ状態がいい」「本当の本当に散らかっていたら、こんなもんじゃ済まないぞ」と思ったが、それはひがみというものだろう。帰ったら少し部屋を片づけよう、古い友だちにメールでも書こうと思いつつ、楽しい気持ちで劇場をあとにした。
 2013年1月25日現在、実現したのは後者だけである。
(2013年1月12日17:00の回観劇)

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