東京芸術劇場「マシーン日記」

04. 家族の食卓という呪縛(澤田悦子)

 「なぜ、家族は食卓を囲むのだろう?」
 我が家には、夕飯は家族全員が食卓を囲むという暗黙のルールがあった。3世代同居の田舎の一軒家。母親と祖母が喧嘩した日の夕飯の食卓は、居心地が悪かった。そんな日でも、家族は食卓を囲んで、大皿から料理を取って食べた。

 松尾スズキ作・演出の「マシーン日記」は、町工場を営む兄・アキトシ(オクイシュージ)、無職の弟・ミチオ(小路勇介)、兄の嫁サチコ(鈴木杏)、工場のパートで元教師だったケイコ(峯村リエ)、4人の舞台である。

 この舞台には、食卓を囲む場面が登場する。物語の冒頭、サチコがプレハブ小屋から、上半身裸の姿で顔を出す。小屋の外では、雨の中アキトシがミチオを懐中電灯で殴りつけている。回転する舞台装置の効果と役者の演技で、スピード感と緊張感のある冒頭場面から一転して、3人で卓袱台を囲み朝食を取る場面が始まる。食卓の場面はコミカルだ。しかし、楽しげに朝食を食べる3人の関係は、緊張感に包まれている。3人は食卓を囲んで朝食を食べながら、ミチオがサチコを強姦し、その償いをするために兄のアキトシがサチコと結婚したこと、ミチオが強姦の罰として、プレハブ小屋につながれていることを話すのだ。アキトシは食卓を囲む2人に、「兄としては強姦を許してほしいが、夫としては強姦を許すことは出来ない。」と言う。サチコとミチオが、互いを異性として意識し好意を持っていることは、アキトシも認識しているのだろう。しかしアキトシの言葉は、2人がこの場所から抜け出し、恋人同士として関係性を持つことを許さない、家族の関係性を破壊する行為を許さないと伝える言葉である。3人の「家族の食卓」は、互いの裏切りを監視する場であり、監視される場である。

 3人の関係性が崩れるのは、アキトシの工場に新しく入った、パートのケイコが現れるところからだ。ケイコはサチコの通っていた中学校の体育教師で、虐められていたサチコをマラソンによって救った教師だった。サチコは教師の曖昧な部分に納得できず辞職し、機械に異常な興味を示す。ケイコはミチオと肉体関係を持ち、ミチオにマシーンとして3号と呼ばれるのを喜ぶ。ケイコはやがてミチオの子供を妊娠し、ミチオの希望を現実化するために、マシーンとして手段を選ばない行動をとり始める。
 ケイコが現れてから、3人は食卓を囲まなくなる。互いを監視することをやめ、自分の欲望を満たすための行動に出る。アキトシは、サチコを自分自身へ縛り付けるために暴力を振い、サチコは、ミチオとツジヨシ家を出るために行動するようになる。

 終番、サチコは斧でミチオの足を切断し、アキトシを殴りつけ、ケイコも斧で攻撃する。本来、斧はミチオの鎖を壊してここから逃げるために持ち出したのだが、暴力と狂気に満ちた小屋で殺人の凶器に変わった。
 だが、アキトシもケイコも死んではいなかった。サチコは逆にケイコに首を絞められ、アキトシに強姦される。サチコは、ケイコに首を絞められながら踵を3回鳴らす。それは、サチコ中学校のころに憧れたお芝居の主役、「オズの魔法使い」のドロシーが、元の場所に帰るための魔法である。サチコは、このツジヨシ家から違う場所に行きたがっていた。ミチオを連れ逃げようとしていた。しかし、ミチオは足枷を外すのは可能であるのに、自らこの場所に留まろうとする。サチコは自らの願いをかなえるために行動し、3人に返り討ちにあうのだ。
 終幕、アキトシはプレハブ小屋に火をつけて記念写真を取ろうと、灯油を撒きライターを持ち出す。だがライターは、ケイコが灯油と共に取り上る。ケイコは、取り上げた灯油とライターで、ミチオが足枷になっていると話した同級生の家を燃やす。彼女は街に放火して、ミチオを外に出られるようにお膳立てするのだ。ミチオは、ケイコが放火した燃える街を見ながら笑みを浮かべ、これからは普通の人生を送るのだとアキトシに話す。

 「マシーン日記」は、誰が書いた日記なのだろう。この芝居は、何度も再演をしている。直近の再演は2001年である。2001年は、松尾スズキ、片桐はいり、阿部サダヲ、宝生舞で上演された。この2001年の時点でならば、日記はミチオが書いたものだと言えたように思う。ミチオの、世間に対して不満を感じつつ、行動を起こせない。子供っぽく、周囲に甘えているのに強がる。普通になりたいと願うのに、その普通になることは困難である自分。そんな姿は2001年であれば、若者の姿として共感を得やすい役であっただろう。主役としてミチオがクローズアップされても問題ない。2001年版のマシーン日記は、片桐はいりの演じたケイコが、ミチオのマシーンとして彼の不満を解消する記録を書いたものとして理解できた。そしてその日記は、閉塞感に包まれた社会に対する観客の不満や不安、失望も内包した日記であっただろう。
 しかし今作のミチオの姿は、若者の象徴にはならない。現代の若者は、社会に不満を感じてはいないのだ。古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』によれば、20代の若者の7割は幸福なのだ。現状に不満を感じていない現代の若者であれば、ミチオはプレハブ小屋に住むことを不満には思わないだろう。食事も作ってもらえる、家族もいる、彼女も出来て、仕事もある。外に出なくても、不都合がないのだから問題ない。ミチオは外に出るのは怖いのだから、外に出なくても責められない状況は、むしろありがたいのだ。
 今回の日記は、すべての登場人物の日記が継ぎ接ぎされている。誰の視点からも語られていない場面と、誰の視点から見ても語れる場面が混在している。この視点の変化が、松尾スズキの演出家としての眼であり、今作に対する彼のスタンスだ。2013年版のマシーン日記は、松尾スズキの分身としての作品から、過去の自分に対する松尾スズキ本人の評価が表されている。マシーン日記は、ずっと男と女の物語なのだと思っていた。しかし男女の愛憎劇の完成を見た前作から、今作は登場人物の視点が混じり合った、ツジヨシ家の物語になった。

 信頼と情緒によって結ばれた私たちの家族を、社会学用語で近代家族と呼ぶ。言い換えると、家族の間に信頼と情緒がなければ、その関係性は家族ではない。情緒とは、物事に触れて起こるさまざまな感慨である。家族は、愛情や労りだけで出来ているわけではない。むしろ家族であるが故の呪縛と憎しみがあるのだ。家族の関係性を確認するために、心に深く感じ入る感情のやり取りを行う場所。信頼という名の呪縛を与える場所。それが「家族の食卓」だ。だから家族は、食卓を囲む必要がある。食卓を囲まなければ、家族は関係を維持することができない。そしてそれは、ツジヨシ家だけの異常な行為ではなく、家族が行う普遍的な行為だ。

 アキトシ、ミチオ、サチコで囲む家族の食卓は、お互いの愛情と憎しみを監視しあう場だった。次にツジヨシ兄弟と食卓を囲むのは、ケイコになるだろう。ケイコと囲む食卓は、どんな場所だろうか。
(3月20日 14:00の回 観劇)

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