東京芸術劇場「マシーン日記」

06. 自慢の殺意(本吉亜衣)

 演劇が上演される場所、劇場のことを、俗に「ハコ」と呼ぶ。東京芸術劇場シアターイーストは、まさに「ハコ」と言いたくなるような劇場であった。隣の人が笑った時の揺れが伝わってくるほど密集していて、席数もそんなに多くない。だいたい三百席といったところか。濃い空間、密な空間だ。

 舞台上を見ると、一つのプレハブ小屋、それも長い間使われているような、さびた、ぼろぼろの建物がある。上の方に小さな看板があり、舞台となる工場の名前がかいてある。
 「マシーン日記」の大体の物語はこうだ。

 どこかはわからない、狭い町にある小さな工場。その工場を営む兄アキトシは、弟ミチオが「強姦」した女工サチコと「弟が強姦したという責任をとり」結婚した。そして、弟を「兄の妻を強姦した」ために先述したプレハブ小屋に足を繋ぎ、軟禁されている。既に、ことの順番が狂い理屈が通っていないことがわかるだろうが、アキトシの頭の中ではそういうことになっている。ある日、パート従業員として新しくケイコという女が働き始める。サチコの中学の時の元担任だったケイコは、給料査定が曖昧な教師をやめ、もっとわかりやすい工場に就職することにしたという。ケイコが来たことによって、それまでギリギリのところで保たれてきた精神状態、関係が変化していき、互いに愛し合ったり、嫉妬したり、憎んだり、笑ったり、殴ったり、殺し合ったり、写真を撮ったりする、大まかに言えばそういう話である。劇中には、多くのギャグと目を引くパフォーマンスや仕掛けが盛り込まれていた。私は、その中でも特に気になった「ミチオをつなぐ鎖」と、「観客の笑い」について書いていきたい。

 まず、今作品の中で最も象徴的な舞台装置である「鎖」についてだ。ミチオの右足に付けられたそれは、彼が動くたび、ジャラジャラと音を立てる。そして、ズボンを履き替えることも、プレハブ小屋からでることも許さない。初めは、アキトシの異常な性格が成し遂げた変態行為にしかみえない。自分の弟を家につないでおくなど、普通だったらありえないことだ。だが、物語が進むにつれ、鎖の意味が、私の中で変化していったのである。最後には、サチコも、ケイコも、そしてアキトシにさえ、目に見えない鎖がつながっていて、ミチオの見えない鎖だけが具現化したものなのではないかと思うようになったのだ。思えばだれしも、友人や家族、制度、空気、過去、未来、自意識、そういった目に見えない無数の関係に縛られ、また他人を縛る。それらは知らぬうちに私たちを精神的、物理的に制限する鎖となり、蝕む。それも、悪意なく、である。むしろ良心的ですらある場合もある。そのしがらみから逃げたい、壊せるものなら壊したい、とみんな考える。ところがミチオは、鎖を自ら断とうとしない。鎖は細く、小屋には工具が山ほどあるにもかかわらず、である。本気を出せば、いつでも切ってしまうことができるはずだ。ではなぜ、鎖を切らなかったのだろう。

 ミチオだけが、目に見えない鎖を引きちぎる方法をしっている。それは、「キャラ替え」である。そしてそれを達成するため、ある計画をひとり画策している。そんな自由な弟、自分より幸せそうな弟を見て、アキトシは何を感じていただろう。危惧、羨望、恐怖、嫉妬。それらが鎖となって、ミチオに絡みついている。ところが、ミチオは鎖を断つ方法を知ってはいたが、同時に世界を恐れてもいた。鎖は、ミチオを拒絶する世界から強制的にミチオを守る役割を果たしているようだ。「これ(鎖)だからな…」と、何もしないことの言い訳を全て鎖に任せ、自虐的に笑うミチオ。それを見て安心するアキトシ。この構図は、まさに依存だとしか言い様がない。彼らは、他者との強烈な依存関係を保つことによって、自己のありかたを確立しようとする。そして、その心理は、何も舞台上だけのことではない。誰しもがなりうる、もしくは、なっているけどきづいていないだけ、かもしれない。

 次に、「観客の笑い」である。先述したように、「マシーン日記」は、数多くのギャグを扱う。だが本人たちはいたって真剣、一生懸命だ。観客はそれを笑う。私も笑う。唐突にキレのいいダンスが始まったら、誰だって笑う。笑うしかない。それは、その行為が非日常で、異常で、不自然で、キチガイじみた状況が目の前に立ち現れたからだ。だが、アキトシが殺されかけたあとやミチオの足が切断されたあと、その後のさらなる悲惨とも言える殺戮の場面のギャグにも、私は笑ってしまったのだ。私だけではない。観客の多くが残酷なまでに声を上げて笑っていた。お芝居だから、人が死んでも笑えるのか? 本当は死んでいない、とわかっているから笑えるのか? そうではない。理由なんかない。ほとんど反射的に笑っていた。それに気づいた瞬間、私は舞台上にいる人間のことを異常だ、キチガイだと断罪することができなくなり、笑っていた顔がこわばった。隣の優しそうなお兄さんも笑っている。今笑っている人たちは、あと数十分もしたら、何の問題もなく電車に乗ったり、ご飯食べたり、ボランティアしたりするかもしれない「普通の」人たちのはずだ。たぶん、コーンフレークをまき散らしながら部屋の中を歩いたり、めいっぱい振ったコーラをぶちまけたりしないしない「正常な」人たちのはずなのだ。それなのに、いや、だからこそ、痛々しい暴力を笑うことでしか、そのストレスを解放することはできなかった。同じように、サチコだってケイコだってアキトシだってミチオだって、笑いたくないのに笑う。笑うしかないから、もうそれ以上手を尽くせないから、笑う。傍から見たら異常かもしれない。だが、今あなたが狂っているといった彼らの姿が、明日のあなたの姿でないとなぜ言い切れるのか、とそんな疑問を突きつけられている。

 他人と精神の鎖で縛り合うこと、殺戮のシーンを笑うこと、二つに共通していることは、「ほとんど無意識の行動である」ということだ。それはもはや「生活」といってもいいほどに。開演してからしばらく経った頃、柔道部の部室のような匂いが私の鼻をついた。飛び散ったコーラやぶちまけた水が、舞台セットに染み付き、異臭を放っていたのかもしれない。確かにあそこには、毎日繰り返した彼らの「生活」の匂いが漂っていた。

 あっという間の二時間が終わり、私は劇場をでる。そのあとに訪れた文房具屋では「Over The Rainbow」が流れていた。私は一瞬だけ、自分がドロシーになった気分になる。そしてその感覚に、一人で戦慄を覚えた。私の中のサチコが、アキトシが、ケイコが、ミチオが、いつか暴れだす事への恐怖に違いない。
(3月30日14:00の回 観劇)

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