東京芸術劇場「マシーン日記」

05. マシーン日記(水牛健太郎)

 驚くべき傑作だった。
 四人の登場人物は四人とも、完全にどうかしているとしか思えず、会話についていくのも大変だ、と思ったが、爆笑を重ねていくうちに、彼ら一人ひとりから目が離せなくなっていった。飛び交うセリフや行動の一つひとつは、理解を超えるものばかり、それでいて、しっかりと人物が太線で浮かび上がってくるのに魅せられた。誰か新しい人に出会って、その人が自分にとって大きな意味を持つことに気づく時のように、二時間の間にどんどん四人が身近に感じられるようになっていくのだった。お芝居の登場人物がこれだけの力を持つことはめったにない。脚本にしても演技にしても、演出にしても、生半可なしごとではない。

 弟ミチオをプレハブの床に鎖でつないで監禁し、妻のサチコにも横暴にふるまうアキトシだが、実際は神経質で小心で、ミチオにおびえ、その力を封じ込めようと必死である。不安感が強くていつでもいっぱいいっぱい、だからこそ、溺れるものが藁にすがるように、権力・権威に執着する。ミチオも決して学校の人気者タイプではないけれど、図太くて、アキトシよりもはるかに自己肯定感が強い。監禁されていても、天才的な家電修理の技術に、秘められた能力の一端をうかがわせる。今は亡き両親はおそらく、アキトシよりもはるかに、ミチオを愛していたはずである。

 こうした二人の関係は、芝居を通じて徐々に明らかになっていく、と感じていたが、思い返してみれば冒頭、アキトシがミチオを起こそうとする場面に既に現れていたのだった。やたらと言葉数を尽くして何とかミチオを起こそうと苦心惨たんのアキトシに対して、ミチオはあり得ないほど不自然な姿勢でも安らかに深く眠り込み、アキトシの言葉はまるで届かない。この二人の間では常にミチオが見えない手綱を握っている。アキトシは、ミチオの一挙一動に脅かされる。だからこそ、ミチオを鎖でつながなくてはならなかった。そうしなければ、彼の人生は完全にミチオに支配されてしまうから。

 アキトシがサチコと結婚したのはサチコがミチオの女だったからだし、アキトシが一見ハチャメチャにふるまっているのも、おそらくはミチオを無意識的に模倣している。ミチオは天然なのだが、アキトシはそれをぎこちなくコピーしているうちに葛藤をこじらせ、神経の病を亢進させていってしまうのだ。

 カインとアベル、海彦と山彦、かっちゃんとたっちゃん(この場合はたっちゃんの方が兄の設定、ただし一卵性双生児)、最近私が辞めた専門学校の経営者とその弟など、神話的と言っていいほどにありふれた兄弟の葛藤。そこに絡むのが二人の対照的な女性である。

 サチコは常に姿勢を低くして打たれまいとしながら、隙あらば主役の座に座ろうと狙っている。目立たない擬態を取りながら、実は誰よりも目立ちたい。強者へのルサンチマンに燃えているが、強く憧れてもいる。わたしが主役でもいいのに、といつも思っている。リスクは取りたくないが、楽に勝てる機会は見逃さない。負け犬戦略を取る弱者、うっとうしい、油断するとかみついてくる女。

 サチコの中学校時代の恩師、なのになぜかアキトシの工場に働きに来るケイコ。サチコから見れば強者だが、勝ち負けには関心がない。生まれついての単独者。内なる声にだけ従う。善根を施そうと教師になったけど、善悪なんてあいまいなもの、ならば最もくだらないもののために生きても同じと気づく。自らをマシーンと化して、「1-1=0」の数学的論理に身をゆだねて生きる。自分でルールを決めてそれに従うことで、襲いくる虚無を乗り越えようとする。

 サチコとケイコの対決は、見るもののうちに複雑な波紋を広げる。現代の日本に生きる人ならば、この二人ともが心の中に棲んでいるのではないか。謙虚に、世間に逆らわずに生きていれば、何かいいことがあるはずだ、どうしてささやかな幸せも許されないのか、私も人間なのに、とサチコは叫ぶ。ケイコは、ぬるぬるした感傷を「わからない」と切り捨て、そんな甘ちゃんだから不幸なのだ、行動に表れないものには何の価値もない、と突き進む。

 私にすれば、ウェットな職場の人間関係に倦み疲れれば、実力を数字でちゃんと評価してほしい、と考える。ところがあまりにドライな競争社会にも耐えられなくなると、人間は存在するだけで価値があるという癒しを求めて、河合隼雄の本を読みふけってしまうのだ。割り切れない。ウェット側に割り切れば、完全に負け組になるしかなく、ドライ側に割り切れば、ホリエモンみたいに怪物化するしかない。

 そんな、ごちゃごちゃにからまった気持ちを抱える身にしてみれば、サチコとケイコの二人が舞台上で繰り広げる対決は実にすがすがしく、葛藤を意識化することで、精神分析的なヒーリング効果すら感じられるのだった。

 ケイコがミチオの願望を現実化する時、地獄が出現する。自分の過去を知るものがみんないなくなれば、という、ミチオ本人さえ本気にしないたわごとを着々と実現していくマシーン・ケイコ。まるで裏ドラえもんのような。いや、ドラえもんにものび太が「消えちゃえ」と願う友達や家族が速やかにこの世から消える秘密道具があった。もっともそれは実は、自分勝手な願望を戒めるための教育的な道具で、消えた人たちは実際には消えていなかったのだが…。

 サチコはケイコに首を折られ、父権を行使してミチオを抑圧していたアキトシはキンタマを失ってもはや抵抗する気力すらない。鎖を解き放たれたミチオはしかし、起きていることの意味がよくわからず、ただ平凡な就職を夢見ている。皮肉で、それでいて不思議に甘美で、忘れがたい結末だった。

 マシーンとは。阪神大震災とオウム事件の1995年の翌年に、この作品が生まれたことの意味を考えてしまう。マシーンはその時、舞台の上に確かな実在として生まれて、その後日本中に散らばっていった。本気で信じてもいない、ばかげたことを、信じていることにして、身をゆだねて生きる人たちは、今も私たちの身の回りで増殖中である。マシーンは着々と、私たちの運命をその手に握りつつあると思えてならない。
(3月27日14:00の回 観劇)

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