東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)

「愛してる」 ただその言葉ききたくて ほかのすべてに目をつむってる

汗握り 隠し通した十円の 貯金箱へと落ちていく音

原色にこの身をさらすスポットも 心の傷は照らしはしない

出迎えに 胸に抱えた傘二本 ひろげもせずに待つ 濡れ鼠

みてくれや世間体など脱ぎ捨てて ホントの姿で感じあえてる

窓越しに 闇から灯るライターが 離れられないふたりの絆

契りても終にひとつになれぬなら それ憂うより抱かれていたい

いのちさえ いまこの刻と引き換える 夢などとうに捨てた身なれば

(2013年7月28日14:00時の回観劇)

◎合評後記~本当は語りたかったこと、そして、お願いしたいこと(小泉うめ)

 蛇足ではあるが、今回の合評会において、観劇中からきっと起こるのではないかと考えていた議論が発生した。

 この物語に登場するヒモのシゲとストリッパーの明美は本当に愛してあっているのか、愛しあっていないのか、ということについてである。それはこの戯曲において極めて重要な部分であり、それについてこのような議論が起こったことは、本公演を振り返り、記録し、記憶するうえで、検討しておく必要のあることだと考えている。

 カナダの社会学者J.Leeは1977年に、恋愛行動を6つの類型に分けて、Mania:熱狂的な愛、Eros:美への愛、Agape:愛他的な愛、Storge:友愛的な愛、Pragma:実利的な愛、Ludas:遊びの愛、として示している。その後も多くの研究がされているので、詳細はそちらを参照して頂ければと思うが、愛の表現型は、それらの組み合わせとバランスにより人それぞれである。そして、人種、地域、文化、時代によってある程度の傾向やその変化を見ることもできる。

 明美の感情も、シゲの感情も、多くの人の感覚からすると極めて稀なところにプロットされたものということになるが、確かに愛であると分類することはできる。
それを愛ではない、という意見はあくまでもそう主張する人の愛とは異なるという考えで整理できる。またそのような意見が複数出るということは、現代日本社会の愛の表現において、それがやはりかなりの異端であるということであろう。

 それは初演の昭和の時代においてもそうであっただろうと想像するが、おそらくそれをもう少し受け容れる下地はあったのかもしれない。現代日本の女性やフェミニストがその愛をどう評価するか、という良し悪しの問題ではなく、そのような愛が存在する可能性のある時代ではあったということである。しかし、今回それは充分には伝わらなかった。

 また、今回の上演では演じられなかったが、戯曲ではクライマックスシーンでシゲは梅毒が神経中枢に移行して臨終の間際にある明美を抱く。シゲは、そんな明美の陰部をなめまわしセックスをする。そして、その愛を貫いてシゲも感染して、死んでいく。狂気とも言えるような沙汰であるが、少なくとも愛のない関係や遊びの愛で出来る行為でもない。医学的には、もちろんタブーであり、そういうことも今回の上演では配慮されたのかもしれない。

 ある戯曲を如何に上演するかは、上演許可がおりれば、その時の演出家を中心にしたカンパニーの裁量であって良いことであるし、それは今回もそうであったであろう。
例えば、これが三浦大輔による「ストリッパー物語」の翻案劇と銘打って上演されているのであれば、特に問題はない。多くの劇評で語られていた通り、演出には三浦らしい緻密さや激しさもたくさん出ていたし、提示された内容もこの特殊な環境で生きる人々の心理を見事に描写している素晴らしいものであったことは、私も同感である。

 だが、今回の「ストリッパー物語」は、東京芸術劇場の新企画「Roots」の第一弾として上演された。日本の現代演劇のルーツとも言える優れた戯曲を気鋭の若手演出家の手に委ね、その魅力を再発見し刺激的な作品を生み出し、現代の観客に手渡すことを目的としているのだというと、少し評価の仕方は変わって来る。

 東京芸術劇場・ワンダーランド共催の劇評セミナーの合評に参加している20数名の方々は、観劇をしてそれを劇評に残そうというような方々である。平均的な観客よりは見巧者であると言ってよいであろう。実際にお話を伺ってみても、豊富な観劇経験と鋭い観劇眼を持っておられる方が多い。その席で、このような戯曲の肝心な部分の理解について、前述のような混乱が生じたことは、今回の「Roots」という企画においてはやはり問題ではないだろうか。

 今回構成・演出に当たった三浦への最初のオファーは「熱海殺人事件」という作品であったと聞いている。本企画の主旨を鑑みると、つかこうへい作品を取り上げるのであれば、彼の代表作品であり、物語も明瞭で、上演回数も多くよく知られており、適切な選択だと考える。同様の理由で「蒲田行進曲」などでも良かったかもしれない。

 しかし、この組み合わせは、検討の末実現しなかった。そして本来であれば、ここで、取り上げる作家とそれにチャレンジする演出家を見直すべきだと思う。しかし、ならば、ということで、同じつか作品の「ストリッパー物語」が提案され、話が進んで行った経緯がある。もちろん、こちらもつかの代表作品であるが、この作品は本企画の主旨を達成するためには、かなり難しい。

 『「ストリッパー物語」をポツドールの三浦大輔が演出する』という企画は、如何にもセンセーショナルな感じがして、演劇ファンには期待感が膨らんだ。商業的には大変興味のある企画として進化しており、それはそれできっと足を運んだことであろう。だが、果たしてこの公演は「Roots」の企画の主旨をまっとうしていただろうか。

 私は、2001年を過ぎてから、「ストリッパー物語」の上演を何度か観て来たが、戯曲にある世界を充分に表現できた上演には未だ触れたことがない。その感想はあくまでも主観だが、やはり、この物語に描かれているシゲと明美の愛についての解釈と表現は極めて難しいと感じている。今世紀に入ってからの他の観劇者の評を調べてみても、やはり厳しい内容のものが多い。上演したカンパニーも時代の変化とともに理解に苦しんで、そもそもオリジナルの優れた点が不明瞭になっていることを感じる。結果として、その上演に際して、演出家が考えた解釈も曖昧になってしまっている。

 同時に1975年の初演には、観られなかった思いも含めて、きっとその必死の愛が表現されていて素晴らしいものだったのだろうとは思っている。しかし、それも今となっては私の幻想である。

 熱狂的なつかファンや、つか信者からは、『このような「ストリッパー物語」は「ストリッパー物語」じゃない』という感想もあったと聞いている。だが、ここで述べていることは、そういうことではない。私はそういう人間でもないし、そう言う立場でこの意見を述べているわけでもないことも付け加えておく。

 これからは、この上演を観た人々が『私は、つかこうへい原作の「ストリッパー物語」を、三浦大輔の演出で観たことがある』ということで、語り継いでいく。そして、本公演の観客は、本公演が「Roots」の主旨に則って上演されたものだと思っている。
本公演は、戯曲「ストリッパー物語」の魅力を本当に伝えただろうか。

 「公演を観るために、必ず戯曲を読んでおかなければならない」というのはナンセンスだが、今回の公演をご覧になって、これから語り部となられる方々には、是非一度戯曲を読んで頂きたいと願う次第である。
水牛健太郎(ワンダーランド編集長)の言葉を借りれば、一流の作家が書いた一流の戯曲には必要なことは全部書いてある。

 そうすると気付かれるかもしれないが、実は私が合評に提出した短い劇評(歌)の中には、最初から本公演ではカットされた内容についても触れている。私の好きなエピソードであるとともに、この戯曲を理解する上で重要な箇所だと考えている。

 そして「Roots」については、抜本的な企画・運営の見直しと、その方向性を貫ける環境の整理が必要であろうと思っている。さもなければ、vol.2として、この掲げた目的と評価する尺度の異なる挑戦に、今を担う有能なアーティストを送り出すことが、私は気の毒でならない。


2.存在の溶解(鉢村優)

「東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)」への2件のフィードバック

    1. 早い話が、
      チケットを
      Getするには‼️
      どうしたら
      良い、
      ので、しょうか?
      ちなみにポストを、
      足蹴にした
      ポスターでした。
      が、
      間違いないですか?
      以上。

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