東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)

 2010年に出版された坂田哲彦『昭和ストリップ紀行』によれば、1965年あたりには全国に「300館以上あっただろう劇場が、現在50館ほどになった」という。まだ50館もあるのか、というのが正直な感想だ。それほど、ストリップは時代遅れになった感がある。

 しかし実際は、元グラビアアイドルがステージに立って話題になった浅草ロック座やシアター上野、渋谷道頓堀劇場など、都心にはいまだ人気を博す劇場もあり、地方の風俗街や温泉地などにも、経営は厳しいながらも何とか息づいているストリップ小屋があるそうだ。『ストリッパー物語』を観るまでそんなこと考えてもみなかったが、今もストリッパーは少数ながら日本全国で身体を張っている。

 しかも、地方の多くの小屋は立て替えなど行われておらず、雰囲気は40年前ともさほど変わってない様子。今も公演期間中、ストリッパーは劇場内に寝泊まりすることが多く、楽屋はどちらかといえば女子体育会系の部室のような雰囲気を漂わせているらしい。写真で見ても、楽屋は今も昔もほとんど同じで(もちろん余計に古びてはいるだろうが)、今回の舞台のセットにかなり近い雰囲気を保っている。

 そうすると、今回の『ストリッパー物語』は現代を舞台にした話と考えることもできるかもしれない。では、舞台上の時間は初演の1975年なのか、それとも2013年か、はたまたその間のどこかなのか。演出・三浦大輔はどこに時間を設定したのか。今回観劇して、最も気になったのはそのことである。

 初演の時代を踏まえて、1975年とは断言しなくても、1970年代と見るのがまずオーソドックスな考え方だろう。しかし、演出/構成の三浦大輔は、明らかに1970年代を忠実に再生しようとはしていなかった、と思われる。

 たとえば、主演のリリー・フランキーはヒモっぽさを十全に感じさせる好演だったが、時代がかったところはこれっぽっちもない。むしろ、セリフも含めて普段のリリーのイメージに近く、どちらかといえば現代の雰囲気が漂っていた。他の役者の演技も、多少古めかしいところはあったが他方で現代的でもあった。唯一、でんでんだけは時代の空気を幾分か醸し出していたように思うが、一方でいつものでんでんのようでもあり、『冷たい熱帯魚』の怪演や『あまちゃん』の漁協組合長がどうしても頭から離れなかった人も多いはずだ。

 また、当時の台本と今回の舞台の内容は相当に異なる。手元にあるのは2010年に出版されたトレンドシェア版で、いつの時点の台本かは明示されていないが、とにかく今回の舞台の台本が、原作にいろいろと手を加えてつくられていることは間違いない。かくして、演出・配役・台本のいずれからも、1970年代を再構築する狙いは感じられない。

 では、これは現代の話かといえば、当然ながらそうとも言えない。明美たちのような女性は今もストリップ劇場に十分いるようだが(このことについては後述)、そこにシゲたちのようなヒモがぶら下がっているとは考えにくい。現代のストリッパーの稼ぎは決して良くないからだ。それなら、キャバクラ嬢や風俗嬢についたほうが確実に違いない。おそらく今のストリップ劇場には、ヒモのいる女より、シングルマザーや外国人のほうが多いのではないだろうか。(実際、『昭和ストリップ紀行』にはシングルマザーや外国人も出てくる。)それに、県議会議員がストリッパーを買うというくだりもいかにも古くさいままだ。今の世に、わざわざストリッパーを買う県議会議員がいるとは思えない。

 1970年代でも、2013年でもないとすれば、その間のどこかか、といえば、そう考えるのも難しい。いや、直裁に言えば、三浦は時代の整合性をあえて放棄したのではないだろうか、と感じた。

 古典や時代物を演じる際、「時代の整合性」は根本的な問題だ。一番わかりやすいのはNHKの大河ドラマである。大河ドラマは毎回有名人ばかりが出ている中、時代考証に力を入れて、何とかその時代らしく見せようと奮闘している。だが、現代人がやる以上、どうやっても限界はある。舞台の場合、その限界はよりはっきりと観客に見えてしまう。歌舞伎の登場人物が異装を纏ってカリカチュアされているのは、その限界を突破するひとつの方法なのだろうと思う。あれならば、時代の整合性はさほど考えなくても良い。どちらにしても、歌舞伎の舞台は「江戸のような異世界」なのだから。

 今回、三浦は1970年代を追求することもなく、かといって脚本を翻案して現代の話にすることもせず、数十年前の脚本を現代の人が演じるという根本的な矛盾をあえてそのまま解決せずに観客に投げ渡したように見えた。結果として、舞台は一種の寓話性を帯びたように思う。つまり、三浦がそれを狙ったかどうかわからないが、今回の『ストリッパー物語』は時代性を失い、「むかしむかし、あるところにひとりのストリッパーとヒモがいましたとさ」という話になった。そのように私は感じている。

 寓話となった『ストリッパー物語』で際立って見えたのは、ヒモよりもストリッパーのほうだ。なぜかといえば、シゲではなく、明美たちのほうに寓話的な普遍性を強く感じたからだ。

 シゲは、ごく簡単に言えば「堕ちることの恰好良さ」を旨とする倒錯的な人物である。しかし、その美学は、現代においてはほぼ死んだと言っていいだろう。今や、堕ちることはほとんどの人にとって、ただ堕ちることである。今回、三浦はシゲの役はリリー・フランキーしかいないと言っていたそうだが、その気持ちはわかる。今、堕ちることの美学を少しでも持ち合わせているのは、リリーくらいしかいないのだ。(リリーだって、本当はそういったタイプでもないと思うが。)

 一方で明美をはじめとするストリッパーは「女の矜持とたくましさ」を体現している。その姿は、日本最古のストリッパー・アマノウズメに連なる。彼女は、胸や女陰を露わにして踊り、八百万の神をおおいに賑わせて、アマテラスを岩戸から引っ張り出すのに貢献した。それだけではない。天孫降臨がきっかけでサルタヒコに仕え、サルタヒコとともに芸能の祖神となった女神でもある。

 「在日」だったつかこうへいが日本神話をどこまで意識したかは知らないが、日本では、ストリッパーは芸能神のまごうことなき末裔なのであり、明美や咲子、みどりにはその矜持を感じる。自分の仕事に誇りを持ち、日々ダンスの腕を磨き、赤ん坊を孕んでもステージに立ち続ける。その姿は凛々しくたくましい。彼女たちにとって、それは立派な仕事であり、そして立派なアーティスト活動だ。彼女たちは舞台を愛し、踊りを愛している。

 どうやらそれは、現代も変わらないらしい。先述の『昭和ストリップ紀行』に出てくる黄金劇場の人気ストリッパー・麻矢絵美里は、「決してギャラがいいとは言えない、ストリッパーという職業を続けていられるのはどうしてだろうか」という質問に「踊ること、舞台に立つことが好きだから」と返している。まるで明美のセリフのようではないか。

 それから、小倉にあるA級小倉劇場ではショーの舞台演出も非常に凝っているのだが、「こうした演出は全て、踊り子嬢自身が考えて、劇場の照明や音響に伝えるのだ」という。40年経っても、やはり今の明美は今の正輝に指示するのだ。ストリップの世界では、古きやり方が今も変わらず行われている。

 仕事で脱ぐ脱がない、セックスするしないを別にすれば、彼女たちの姿は多くの「働く女性たち」にも重なるだろう。今や、明美や麻矢のように自分の仕事にプライドとプロ意識を持ち、身体を張って身を立てている女性は決して珍しくない。ヒモという言葉が死語になったほど、女性が稼ぎ頭という家庭も増えている。アートの世界でも、女性の活躍ぶりは一昔前より明らかに目に付くようになった。そういう意味で、明美たちに共感した女性はきっと多いはずだ。

 アマノウズメの子孫たちは、もしかすると、長い時を経てようやく日の目を見出したのかもしれない。
(2013年7月19日19:00の回観劇)


7.淡々と、ふくよかに、突き抜けて(齋藤理一郎)

「東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)」への2件のフィードバック

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