サンプル「ファーム」

8 不整合に育まれたリアリティ(齋藤理一郎)

 サンプルの『ファーム』は物語の組み上がりがまっすぐに訪れず、観客として色々なもやもやに苛まれつつ、終演後にはむしろそのことに不思議な引力を感じる舞台だった。

 正方形に張り出した舞台、その下は鉄骨的なもので組まれていて、そのところどころに植物が絡まっている。植物は頭上の照明や舞台のそこかしこにも。舞台の両端をみると扇風機とジューサーが置かれている。上手後方には掃除機、下手後方には冷蔵庫。中央には、後で連結した二つのピースから構成されていると知れる可動式の机にも寝台にもカウンターにもなりうる装置があって、椅子も数脚置かれている。具象でありつつ抽象的にも思える美術、開演するとまずそこは喫茶店となり男女の離婚話から物語が紐解かれていく。

 冒頭から舞台に描かれる世界に違和感を覚えていたわけではない。父(古谷隆太)と母(町田マリー)の離婚届にはんこを押すかどうかのごたごたも、その際に息子(奥田洋平)がどちらに付くかということも、母と浮気相手の男(金子岳憲)の関係も、ゾーン・トレイナー(野津あおい)が男にコーチングする内容も、観る側がそのままに受け入れうる展開だったと思う。老婦人(羽場睦子)が息子との契約で行っていることをすぐに理解するのは難しいのだが、なにかを愛し、そのためのサービスを受けるクライアントの感覚には納得がいく。ところが物語が進んでいくと、エピソードたちが観る側が理解しうるようにすんなりと折り合っていかずどこか歪んだ感覚を舞台に醸し始めるのだ。

 息子の成長の早さには遺伝子的な理由付けができていて成長抑制剤も追いつかないみたいだし、息子の弟ができることも息子を生み出した経緯からすれば当然にあり得ることなのだろう。
 浮気相手の男が自らの性衝動の処理をあからさまに語るのも場の空気を読めているかは別にして嘘ではないのだろうし、ゾーン・トレーナーの男へのコンサルティングにしても酔いどれ客に対する飲み屋のママの説教と見立てるとすっと腑に落ちたりもする。
 父と母がいつもの喫茶店で語らいモデルハウスで劣情に身をまかせようとすることも倫理的な話は別にして若いカップルとしてはおかしくないし、やがて研究に没頭する夫とほったらかしにされて浮気のボーダーラインに立つ妻となるという筋立ても少しも不自然ではなくむしろよくある話だろうと思う。
 息子が急速に年老いて、癌にも犯され、やがて同年代の老女と結ばれるという顛末は不条理だけれど、ふたりの結婚は年齢という観点からは筋が通っている。
 父だって母の浮気相手の男だってそれぞれの「My Way」くらいは歌うだろうさ。想いが高まれば、扇風機だって回るだろうし、掃除機だってジューサーだって唸るだろうし、冷蔵庫だってリズムを刻むだろう。

 しかしながら、刹那に取り込まれそれぞれのエピソードに理を見出せても、シーン達にルーズな繋がりを感じても、それらの顛末をひとつの視座からのものに束ねることができない苛立ちが募っていく。

 そうして、掌にのせきることができない舞台の世界観に困惑していたのだが、終盤のゾーン・トレーナーと晩年の息子の「遺伝子組み換え」についての会話が糸口になって、息子が具象するものが少し解けたように思えた。

 息子はこの舞台のタイトルでもあるファームと呼ばれる「他人の身体の一部や臓器を自分のものとして育てる特殊な能力を特殊な身体を持った」(台詞どおり)人で、父の体の一部から作られているという。
 だとすれば、息子は父の心というか想いのありようを抱いていてもおかしくはないし、そこに埋め込まれたものに記憶が含まれていても不自然ではないわけで、むしろ物語の展開から考えるに彼が具象するものは想いや記憶そのものなのではあるまいか。その想いは、遺伝子組み換えなしという現実だけで構成されることもあるし、遺伝子を組み替えて妄想とともに作られることもあるし、そのボーダーラインに置かれることもあるという。遺伝子組み換えなしだという現実だけを抱いた息子が、ペニスバンドに仕立てた弟という名の父に生まれた妄想をその内に取り込むこともきっとありなのだ。

 一方で、懐妊によって、老婦人の視座からみる息子の先には父が育んだファームの異なる視座からの姿が浮かび上がる。息子に自らが愛したものの目を預け続けたのは時を隔てた母であるように感じられ、その胎児は息子に編みこまれた父の記憶と交わり老婆となった母が抱く新たな記憶のようにも思える。戯曲を読むと息子の名前であるオレンジは漢字で「逢連児」、老婦人が最後にはらんだ子供のレモンは「麗毛音」と表記されるのだそうな。

 終盤母が「組み換え」と「組み換えでない」と「限りなく組み換えではない」のどれを選ぶかを一人語りのごとくに麗毛音に問う頃には、父の視座と母の視座が曲がりなりにも其々の姿を露わにし、そこまでに抱いていた整合したシーンの不整合への苛立ちが時制の混濁を超えて父と母の一つになりえない記憶のありようのリアリティとなり、更には遺伝子の組み換えをしたりしなかったりといった人が恣意的に抱く記憶の生々しく、まがまがしく、どこか甘美な質感に捉われていた。前半感じた整合の重なりから訪れた割り切れなさが溶解していくようにも感じた。

 終演後、客電の素明かりの中で舞台を眺めると、少々武骨に張り出していて、殺風景で、飾られた植物たちもどこか寒々しく思える。けれど、静謐に置かれている家電などを見ると舞台にあった人の想いの営みの熱量のようなものが蘇り、編み上がったものからくっきりとした印象が得られなくても、よしんば描かれたものがどこか生臭く処し難く感じられても、少し前までそこに存在していた世界のなにかが不思議と愛おしく思えた。正直なところ訪れた感覚を生理的に無条件で受け入れ得るかというとかなり難しいのだが、それでも目を背けたりシャットアウトしたりできないのは自分の内なるもののどこかが紡がれた世界に共振しているからなのかもしれない。
(2014年9月24日19:00の回観劇)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください