6 フランソワ・シェニョー&セシリア・ベンゴレア「TWERK」
◎回転。このあまりにも希望過ぎて絶望過ぎる躍動感(上田修)
入室した時から大音響。
腹の底からズシンズシンと響く重低音。
フロアではもう演者たちがぐるぐる回転している。
赤や青やとにかく光を剣にして、舞台ごとパフォーマーたちをなで切るように光が踊り狂う。いや、光も踊りまわる。
フロアに入った瞬間から「始まったな」、いや、「すでに始まってるな」であった。
私自身、いきなり「TWERK(トゥワーク)」の世界に放り込まれて、かなり面食らってしまった。
しかし、この途方も無さや戸惑いは私にとって心地の良いものだった。
理論や理屈ではなく、とにかく「感じたい」の一心でパフォーマーたちを凝視した。
腹の中に響く音楽も耳だけでなく全身で受け止めていた。
鼻からは大きく息を吸っていた。「TWERK」から放出される空気も吸い切ってやろうと、全身をポンプのようにして。その呼吸は生きるためではなく、「TWERK」の世界を感じるためだった。
ぐるぐる、ぐるぐる、パフォーマーたちはひたすら回転する。
ぐるぐる回転する。
小気味いいベーゴマのように。
回転しすぎて発電するんじゃないかしら、という勢いで。
とにかく今日のパフォーマンスは刺激されることこの上ないものだった。
舞台芸術というものは非日常的なものだが、今日の「TWERK」は、
「観客たちが日頃どっぷり浸かっている日常という生ぬるいものを徹底的にぶち壊してやろう」という狙いが感じられてならなかった。
そして、その狙いはうまく行っただろう。
私の中にある日常性は破壊され、非日常極まりないものによって犯され切ったのだから。
ところが、私の中にある日常性がしたたかに打ちのめされたのは良いのだけれど、この気持ちを日常生活におけるツールである言葉によって表現することに難渋させられてしまったのだ。
感動の目撃者であるということの自覚はあるものの、それをどう文字で表現したら良いのか困惑させられているのだから。
パフォーマンスの中盤、演者たちが意味不明の絶叫を発したが、私が聞き取ったのは、
「ミミニーヌガ」
「イービービー、ワンワ」
「ジョンジョビセイ」
「ババババババ……」
もちろん、奇声を発している時もぐるぐる回転している。
発電機のタービンみたいだ。
演者たちは回転しながらもセリフを発している。
肉体は回転しつつも会話は成立し物語がそこに息づいていた。
「一体、この人たちは何を表現したいのだろう。主張したいのだろう。訴えたいのだろう」
劇場の興奮からやや時間が経過し、劇評を書いている今において、やはりこの疑問が出てこざるを得なかった。
劇評を書く以上、この疑問に私は真っ向から向き合わないといけない。
喜びか? 絶望か? 希望か?
さて、結論を出す前に、もう少し「TWERK」の実況中継をさせていただきたい。
緑色の服を着た女が肉感豊かなお尻を惜しげも無く観客にさらけ出す。
いや、お尻の主張は、この緑の服の女だけでなく、演者たちみんなそうなんだけど。
あえて、この緑の女について書いたのは、彼女が特に健康的な色気を感じさせたからだ。
そして、上半身セミヌードの女性もいた。乳首がピーンと屹立していた。汗で光って艶めかしかった。健康的な色気をぶち壊し、爽やかな卑猥感を私にもたらしてくれた。
私は年甲斐も無く劣情を催してしまった。
演目は終わりに差し掛かり、演者の五人全員が映画「犬神家の一族」で有名な逆立ちをし、そして終了した。
さて、いよいよ私なりの劇評であるが、どういう風にまとめたらいいのか。
一つのキーワードとして「回転」ということがあげられる。
とにかくこの作品の演者たちはよく回る。
彼らは回転を通して何を訴えたかったのであろうか。
私は思う。
彼らは人の一生、というか、生命というか、むしろ「生命体とは何ぞや」ということを表現したかったのではないのか。
「回転する、回転し続ける」ということが「生命体そのもの」すなわち「生きていることの証し」なのでは。
書いてみれば、
「なあんだ、そういうことか」であるが、私が「回転」すなわち「生きていること」と得心できたのは、この作品の終わりが肉体の回転ではなく、演者全員が静止した状態で迎えたからである。
この点から私は、
「この作品はラストを死で締めくくったのだな」という着想を得ることができた。
全員が回転しながら舞台の袖へ引っ込んでいったら、私はまた違った感想を持っただろう。
生きていることの躍動感を、激しい回転運動と腹の底まで響く重低音のBGM、派手派手しい光線で表現しきっている。
このお芝居を観ている時に私は、
「たしかに、俺は今生きているよな」ということを全身で感じざるを得なかった。
「今から自殺しようとしている人に見せたら引き留める効果があるんじゃないかしら」と。
私は、肉体の回転を「これでもか、これでもか」とばかりに激しく押し付けてくるこの「TWERK」を鑑賞し、回転運動から生命の躍動をまず最初に感じた。
そして、生命の躍動をより深く感じることができたのは、肉体の静止状態、すなわち、死というものを目の当たりにしたからであった。
生きることと死ぬことはコインの裏表であり、「死」があってこその「生」なのだと。
私は今、深く悩んでいる。
単純に、肉体の回転を生命の躍動と結論付けていいのか、と。
つまり、回転と死の関係について悩んでいるのである。
もしかして、このお芝居は「生きることの大切さ」を伝えたいのだけれど、それを「生きることの喜び」という一面だけでなく、「回転の末の死」という冷厳な現実を突きつけることによって観客たちに訴えようとしたかったのではないか。
私はことここに至って慄然とせざるを得なかった。
「生きていることの喜びなんて浮かれたことを言っている場合じゃないぞ」と。
演劇であれ小説であれ、あらゆる芸術の表現形態は観客や聴衆、読者をして豊かなイマジネーションを発現せしめて、その独自の世界に引きずり込み、そして主張を訴えかける。
私はその訴えを受け止めることができたことに満腔の安堵を得ることができた。そして、「TWERK」の世界からの問いかけに対してどのようなレスポンスを返すのか。
「TWERKのお芝居自体は一時間だったけど、どうも俺が生きている限り、あのムチムチしたお尻やピンピンの乳首が頭の中から離れそうにないな」と毒づきながらこの劇評の筆を置くこととしたい。
(2014年10月18日17:00の回観劇 観劇を終え、帰宅中の京阪電車の車内で記述した)
【上演記録】
フランソワ・シェニョー&セシリア・ベンゴレア「TWERK」
京都府立府民ホール“アルティ”(2014年10月18日‐19日)
構想/フランソワ・シェニョー、セシリア・ベンゴレア
出演/エリザ・イヴラン、アナ・ピ、アレックス・マグラー、フランソワ・シェニョー、セシリア・ベンゴレア
DJ/イライジャ&スキリアム(Butterz[ ロンドン])
照明クリエーション/ドミニク・パラボー、ジャン=マルク・セガレン、フランソワ・シェニョー、セシリア・ベンゴレア
照明/ドミニク・パラボー、シンディー・ネゴス
舞台監督/ジャン=マルク・セガレン
音楽監督/ミグエル・カレン
監修/アレクサンドル・ロコリ
衣装/フランソワ・シェニョー、セシリア・ベンゴレア
製作/カンパニーVlovajob Pru
共同製作/リヨン・ダンス・ビエンナーレ、ポンピドゥー・センター舞台芸術部(パリ)、フェスティバ ル・ドートンヌ(パリ)、トゥールーズ公立振付振興センター(ミディ=ピレネー)、ベルフォール国立振付 センター(フランシュ=コンテ)、グルノーブル国立振付センター、Le Vivat d’ Armentières – Scène conventionnée danse et théâtre(ノール=パ・ド・カレー)、カーン国立振付センター(バス=ノルマンディー)
製作助成/ARCADI(イル=ド=フランス)助成FUSED(French U.S. Exchange in Dance)、FACE(French American Cultural Exchange)
協力/la Ménagerie de Verre(パリ)、Chez Bushwick(ニューヨーク)、ドリス・デューク慈善財団(ニューヨーク)、フローレンス・グールド財団(ニューヨーク)
共催/アンスティチュ・フランセ日本
助成/アンスティチュ・フランセ パリ本部
後援/在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
京都公演共催/京都府立府民ホール”アルティ “
主催/KYOTO EXPERIMENT
チケット料金
一般 前売 ¥3,500/当日 ¥4,000
ユース・学生 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
シニア 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000
ペア ¥6,000(前売のみ)