ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場「ルル」

9.「悪女に惚れる男たちの自己愛」(宮武葉子)

 ある種の男性は「ファム・ファタール」が好きだ、と思う。ファム・ファタールすなわち「魔性の女」。男性みんなが、というわけでは無論ないが、それなりに需要があるということは、「男を魅惑し、破滅させる女」を描く作品が一つならず作られていることからも明らかである。手元にある鹿島茂『悪女入門』(講談社現代新書)に登場する「悪女」は合計11名。フランス文学に限定しても、これだけの数いるのである。この方面にさほど関心のない評者でも、『カルメン』『マノン・レスコー』『痴人の愛』などをすぐに思い浮かべることができる。

 「魔性の女もの」を、乱暴を承知でまとめてしまうと、このような感じだろうか。「抗しがたい魅力を持つ女がまっとうな男を惑わせ、天国と地獄を味あわせる。最後は罰を受けるかのごとく、自身も命を落とす」

 ……と書いておいて、ナオミは別に死なないと思い至り、本稿の信頼性の低さがあっさり露呈するのであるが、ここは本題ではないので、思い切って流す。とりあえず、上記のイメージでもって描かれるヒロインが一定数存在する、ということはできると思う。

 彼女たちはたいてい①若い②出自は高くない③知識はないが、頭の回転は速い④色気がある⑤一方で幼い⑥男は広く受け入れるが、女には冷たい(同時に、同性にもほとんど好かれない)。すなわち、「男たち(物語の登場人物及び鑑賞者)を気持ちいい程度に踏みつけるが、萎縮させるほど偉くはない」存在である。彼女たちがしばしば「小悪魔」と呼ばれるのも道理で、男を惑わす女が大悪魔であってはならないのである。

 ヴェデキント描くルルもまたファム・ファタールの系列に連なるヒロインである。年は若く、美しく、無邪気さと狡猾さ、残酷さを兼ね備える。無謀で奔放ではあるが、無考えではなく、独自の人生哲学を持っている。すなわち、「垣根は高くないが、かといって万人に開かれているわけではない」ゆえに、男たちは自分こそが特別な存在となって彼女を所有しようとあがき、滅んでいくことになるのである。

 シェーン博士は貧民街で拾った娘ルルを愛人にしつつ、彼女を他の男と結婚させる。だが彼女の夫となった男性は2人とも死んでしまう。シェーンは結局自身の婚約者を捨て、ルルと結婚する。シェーンの息子アルヴァ、ルルの養父を名乗るシゴルヒ、同性愛者のゲシュヴィッツ伯爵令嬢、力業師ロドリーゴなどがルルに惚れてつきまとう。嫉妬したシェーンはルルに自殺を強要し、もみ合ううちにルルに殺される。殺人者となったルルはシゴルヒやアルヴァらとともにパリからロンドンへ逃亡するが、金を失って売春を余儀なくされ、最後は切り裂きジャックの手にかかって死ぬ。これがこの芝居のあらすじであるが、先に書いた「魔性の女物語」にぴったり当てはまっている。ちょっと自画自賛。

 ルルは男たちの勝手な理想を映す鏡のような存在である、と、岩波文庫版『地霊・パンドラの箱』の訳者(岩淵達治)解説にある。夢の女であるからこそ、彼女は誰よりも魅力的なのだろう。こうした女性を舞台に登場させる、というのは容易なことではない。「演技力」という「理性でもって鑑賞しうる要素」が必須であると同時に、それを越えた説得力、たとえば肉体的、イメージ的な「ルルらしさ」が不可欠となるからである。いくら芝居がうまくても、ルルに見えにくい俳優が登場したのでは興ざめである。観客は物語世界に入り込むことができない。逆に言えば、この芝居は「ルル役者」が確保された時点で、おそらく半分ぐらいは「成功」したということになる。

 ラドゥ・スタンカ劇場の幸運は、オフェリア・ホピという女優が存在することであるといってよいだろう。
 可愛らしくはあるが、とりつく島がないほど整った顔立ちではなく、肉感的でありながら少女らしさもあり、下品になりすぎない。世間とは別のルールに従って生きているという印象を、理屈抜きで観客に与える。東京芸術劇場芸術監督の野田秀樹が彼女を「エロかわいい」と表現しているが、まさしくその通りだと思う。
 世界にはすごい女優がいるものである。
 腕は太めだし少女というにはいささかたくましいが、ピエロ姿からドレス、下着のような娼婦の衣装まで着こなし、無駄のない美しい動きを見せる。彼女のみならず、役者はしばしば他の役者によって道具のように担がれ転がされるが、そうした時のホピの自己の消し方―うまくいえないが、ヒトではなくモノであるかのような佇まい―に感心させられた。動かす方の技術、信頼関係、タイミングをつかむまで重ねられた稽古時間の長さあってのことだろうけれども。日本人女性にはとてもこなせないような赤い口紅の似合いっぷりときたら、いかにも肉食文化圏の女神にふさわしい。ここにルルがいる、と思わせる説得力を持っていたと思う。

 もちろん、本公演はホピの力だけで成り立つものではない。ゴル博士(クリスティアン・スタンカ)、シュワルツ(ミハイ・コマン)、シェーン(コンスタンティン・キリアック)、アルヴァ(アドリアン・マティオク)というルルの4人の夫たち、養父シゴルヒ(ダン・グラス)、崇拝者ゲシュヴィッツ伯爵令嬢(そういえば彼女は主要登場人物の中で一人だけ、動物と照応関係になかった)など、皆がそれらしく存在していて、納得させられるものがあった。体型といい声といい、当たり前だが日本人の俳優とは大いに違っている。改めて、こういう芝居を翻訳しても、本当の意味では成功しないのだろうなと思った。翻訳劇は好きでそれなりに見るし、戯曲が書かれた国の人間にしか上演しえないなどとは決して思わない(そもそもこの作品はルーマニアのものではない)が、ある文化圏を遠く離れた人間には表現し得ない雰囲気、あるいは精神、エッセンスのようなものはあると思う。本公演を見ていて、「ルル」の世界は日本からずいぶん遠いのだということを実感した。

 また、舞台の設計も興味深いものだった。通常の客席は使用されず、舞台上に設置された客席で鑑賞するのだが(おそらく300人ぐらいしか入らなかったのではないだろうか。普段は700~800人は入る会場なのに。なんと贅沢な!)、演技空間が近いのみならず、観客同士も非常に近く、皆がこの場の証人であるというような、緻密な空気が生まれていたように思う。

 馬蹄型の客席に囲まれた本舞台と、その付け根(Uの字の開いた部分)側にある狭い空間、役者が出入りする通路(これは客席の間に2カ所ある)で芝居は演じられる。舞台中央とその先にある空間の間には幕があって、前者は常に見えているが、後者はそうでないこともある。この仕切りカーテンが勢いよく開閉される時のシュッという音が―幕はたいていこういった音を立てるので、音そのものは珍しくも何ともないのであるが―アクセントとなっていたように思った。大きな音ではないが、緊張感を高めたり、エピソードの区切りを示したりといった役割を何気なく果たしていたと思う。会場が小さいからこそもたらされた効果というべきだろうか。

 舞台中央に、一幕目には長テーブル、二幕目にはバスタブが置かれる。ことに前者は、場面によってテーブルになったりベッドになったりと様々な役割を果たす。テーブル掛けの下で役者が待機したり、姿を変えたりするところが面白かった。確かに人が布の下にいるはずなのに、あまり大きな動きがないように見えたのはすごい。万が一にもしくじって布を落とし、出てはいけない役者の姿が現れてしまったらどうするのだろうかと思っていたりもしたのだが、そのような心配はいうまでもなく不要だった。綿密なプランと訓練によって実現したものであろうが、引きつけられて何度も見つめてしまった。

 それと比べると、二幕目のバスタブはバスタブとして登場したあとは、使われはするものの、テーブルほど活躍したという感じではなかった。(まぁ、バスタブ以外の何物でもないのだし…)ルルが放り込まれたあと、水がほんのり赤くなったところ、でも舞台化粧は崩れなかったところ、舞台上の人物が何もしないのに水が抜けたところ、空いたバスタブにゲシュヴィッツ嬢が藁を詰め込んだ時に、乾いた草の匂いがしたことが印象に残る。但しこの藁に関していえば、どういうニュアンスで使われていたのかは正直よく分からなかった。知識がないというのは、こういう時とても不便である。

 もう一点、印象に残ったのは、時々、かすかな女の悲鳴が聞こえていたことである。二幕目だけのことであれば、最後に登場する切り裂きジャック(カタリン・パトル)の先取りかとも思うが、確か一幕目にも聞こえて、落ち着かない気持ちにさせられた。不穏な、だが引きつけられずにはいられない空気を生み出していたと思う。

 一方で、少々不思議に思ったこともある。評者はルーマニア語は皆目分からない上にイヤホンガイドの調子があまりよろしくなく、時々台詞が聞こえなかったので、あるいは思い違いをしているのかも知れないが、ルルが二度目の夫シュワルツに向かって妊娠をほのめかす場面、切り裂きジャックが切り取ったルルの肉体を「金になる」というニュアンスで語る台詞は、いずれも元の話にはない。いずれも重要なところではないので流してしまえばいいのだろうが、物語を「普通」レベルに引き下ろす要素になっていたように思われた。「子供が出来る=自分の美と自由が失われる」というルルの憂鬱は、書かれた当時としては斬新であったのかもしれないが、女性の「本音」としてはそれほど珍しくはない、すなわち子供が出来たことを誰もが本心から喜ぶ訳ではない。「ルルも普通のことを言うのだなぁ」と思ってしまった次第である。また、切り裂きジャックの犯罪は、動機が不可解、残虐、未解決の三拍子揃っているからこそ、後世の人間にとって無責任に興味深いのであって、明確な目的のための殺人といわれてはいささか興ざめだ。

 もう一つ。ルルがシェーンと言い争い、それを目撃したシュワルツが自殺してしまう場面で、ルルは「まっとうな女性」と結婚しようとしているシェーンに「女中としてでもいいから傍にいたい」というような発言をしていたが、原作のこの場面で、ルルは自分がシェーンの結婚に反対する理由はないと突き放していたはずである。ルルともあろう女が、策略以外の理由で男にすがるのか、と、いささか白けた。

 逆に、ルルがシェーンの婚約者に手紙を書かせ、シェーンの敗北が決定的になる場面は好きだったので、カットされていたのはとても残念だった。

 こうした僅かな違いは、ルルが男に都合の良い女であることを強調するものだったように思う。確かにわかりやすくはなるだろうが、ルルは理解しがたい存在であり続けて欲しかった。その方が、芝居としてはスリリングだったのではないかと思う。

 『地霊・パンドラの箱(ルル二部作)』にはいくつかのバージョンがあり、現在最も入手しやすい邦訳(岩波文庫版)の底本は、猥雑文書の指定を受けた初稿ではない。本公演で、演出家プルカレーテはテキストとして第一稿を採用しているという。評者が読んでいるのも岩波文庫版のみであり、従って、邦訳と今回の公演の差異が「ヴェデキントの第一稿とそれ以降の版の違いか、あるいはプルカレーテの変更によるものか」を判断することは出来ない。但し、仮に前者であるとしても、「敢えて初稿を活かすという選択をした」ということは、ルルを「男の望む女」として描く意思がプルカレーテにあった、と考えてよいのではないかと思う。演出家が男性である以上、当然のことといえばそうなのだろう。これらの点が本公演の価値を損なうと思ったわけでもない。ただ、女性観客として、ほんの少し引っかかっただけである。

 冒頭でファム・ファタール物語は好みではないと書いた。破滅型の女がよくないと思っている訳では毛頭ない。惑わされる男たちにつきあいきれないのである。

 ファム・ファタールは自らを語らないものなので、彼女たちはもっぱら誘惑される側の目を通して描かれる。そしてその語りは男たちの激しい思い込みと表裏一体である。恋愛中の人間はたいてい思い込みだけで突っ走るものだが、魔性の女にイカレる男たちの視野の狭さは度が過ぎている。逆に言えば、そういうタイプの人間だからこそ嵌まるのだろうが、こっちは見ていて疲れてしまうのである。結局のところ、彼らが好きなのは悪い女に翻弄される自分自身ではないのか。彼らが愛するのは恋人その人ではなく、彼らの内側にある理想像なのだから。

 ヴェデキントはこうした男たちの思い込みをシニカルに眺め、彼らを被害者ではなく加害者として描いている。ゲシュヴィッツ嬢のようなはみ出し者を登場させたり、ルルにぶら下がる養父シゴルヒに理解者の要素を持たせるなどの独自性もある。「ルル二部作」は確かにただのヴァンプものではない。

 一方で、ルルは常に誰かの妻であり、男を養うためにルールを曲げて客を取るような女でもある。同じ身体を使って生き延びるにしても、自分一人のために動くという方向に彼女は向かわない。そしてロドリーゴのような男を愛人にするのである。彼女の行動原理はどうあれ、行動そのものは「男たちにとって都合のいい女」の範囲内に収まっている。

 ルルは、本当に自由な女なのだろうか?
 男たちを支配しているという彼女は、本当のところは被支配者なのではないか?
という疑問が、拭いがたく存在する。
 故に、上演に当たっては、ルルを従来通りの「悪女」に見せる要素はなるべく排して欲しかった、と思うのである。

 さんざん書いてきたが、本公演が日本の演劇とは異質の、刺激的な舞台であったことは確かであり、国内にいながらこうした演劇体験が出来るというのはすごいことであると思う。幸福な3時間弱であった。いえ、本当に。
(2013年3月2日14時の回 観劇)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください